佐藤優「辺野古移設は21世紀の琉球処分」の危うさ (1)

Fallacious Opinion Of Mr.Sato, Masaru On the Okinawa Problem (1)

佐藤優さんはたしかに優れた論者かもしれませんが、こと沖縄に関しては、その主張をまったく受けいれることができません。本欄でも、これまで佐藤優さんに対する批判を何回かにわたり掲載してきました。たとえば、2012年5月・6月には佐藤優さんの構造的沖縄差別論を批判する論説を計3本掲載しています。

「佐藤優さんの沖縄論は先が見えない」(5/28)
「沖縄を騙しているのは佐藤優さんだ」(5/30)
「佐藤優さんの構造的差別論批判(まとめ)」(6/5)

「辺野古移設の強行は21世紀の琉球処分だ」という佐藤さんの主張も以前からチェックはしていて、2013年12月4日には「佐藤優の沖縄論再批判(デモ版)」も掲載しました。デモ版をヴァージョンアップして、スタンダード版を作成しようと何度か試みましたが、結局は過去と同じ批判を繰り返すことになるので、徒労感が先立ち、放置したままでした。

が、西郷隆盛について調べているうちに、『ハフィントン・ポスト』に掲載された「21世紀の琉球処分」という佐藤優さんの記事(2013年12月7日)をうっかり読んでしまいました。その途端、佐藤さんのナイーブな歴史認識がまたまた気になり始めました。

佐藤さんの主張や佐藤さんが批判の対象としている高良倉吉さん(歴史家・沖縄県副知事)については、佐藤さんの記事を直接参照していただくとして、今回は、佐藤さんの歴史認識がなぜ納得できないかについて、基本的な論点を整理しておきたいと思います。

1879 年の琉球処分が、明治政府による沖縄の「植民地化」の完成だという考え方があります。これは佐藤優さんの専売特許ではなく、本土や沖縄の学者たちに共有さ れている考え方です。この考え方には大きな異存はないのでが、歴史の主潮流という観点から俯瞰すれば、琉球処分はあくまで廃藩置県の一環でした。佐藤優さんは、「琉球処分はたんなる廃藩置県ではない」といいたいようですが、事実関係としてこれは間違いありません。

もっといえば、廃藩置県は日琉の近代化にとって、不可避の政治的経済的プロセスだったと考えていいと思います。コトの是非を争っているのではありません。 正義がどこにあるかを追求しているのでもありません。政治体制や経済体制の「近代化」という目標に向かって進む日本が、琉球の「植民地化」を企てたこと自体は否定しません。が、今この時点で「植民化の是非」を問うことにたいした意味はありません。何よりも歴史は不可逆なのです。むしろ、琉球にとっても、これが近代化の契機になったという事実を認めるのが議論の出発点ではないでしょうか。

本稿の狙いは、琉球処分を、<東アジアへの進出を目論んでいた明治政府が、自分たちの身勝手によって琉球人のアイデンティティを奪い取り、琉球の日本への 統合を強行した帝国主義的政策>と決めつけ、辺野古移設を同様の文脈でのみ捉えようとする佐藤さんの主張がいかに一面的かを批判することにあります。

ハフィントンポスト(2013年12月7日)

ハフィントンポスト(2013年12月7日)

佐藤優「辺野古移設は21世紀の琉球処分」の危うさ (2)に続く)
佐藤優「辺野古移設は21世紀の琉球処分」の危うさ (3)もどうぞ)

批評.COM  篠原章
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