【特集: はっぴいえんど】サエキけんぞう×篠原章対談 第1回

Saeki Kenzo & Shinohara Akira ; Talk About Happy End, the Japanese Most Legendary Rock Band Vol.1

特集: はっぴいえんど

サエキけんぞう×篠原章 対談 第1回

「はっぴいえんど」の英国リマスターボックス「はっぴいえんど マスターピース」の発売と、レコードコレクターズ誌2015年1月号のはっぴいえんど特集、12月30日(火)19時20分~のNHK-AMラジオ第一の「はっぴいえんど特番」(2時間30分)の放送を記念して行われた、サエキけんぞうと篠原章による、初のロング対談(2014年12月実施。Facebook上ですでに公開済み)を6回(4月20日〜25日)に分けてお届けします。
今まで知らなかったことが沢山出てきますよ!第1回目は、はっぴいえんどの系譜の先輩にあたるジャックスの中核ファンがなんと女子中学生だったという凄い事実から!

「えええ?はっぴいえんどの源流、ジャックスのファンクラブは女子中学生が中心だった?」「えええ?はっぴいえんどの源流、ジャックスのファンクラブは女子中学生が中心だった?」

サエキけんぞう
「章氏と最初にはっぴいえんどについて話したのは、親戚会で、お互いに、全く予告もせずに「はっぴいえんど、いいね」とどちらともなく言い合ったこと。おそらく、1972年で、僕は中2でした」

篠原章
「はは。憶えてません。」

サエキ
「その後、1972年秋、代々木八幡の章氏の御部屋にいったら、発売されたばかりの大滝さんファーストアルバムに収録されている<おもい>がかかっていて、とても都会的に感じたのが忘れられません。高校生なのに下宿して進学校にいってる感じと、大滝さんのアルバムのポップさが。そのポップさは、もう60年代末の湿り気とか情念がなくて、70年代の始まりだった。」

篠原
「当時はぼくは麻布学園の高1かな。学校には“麻布ロック強制収容所”とかいうサークルがあって、今ギタリストとして活躍する吾妻光良さんが1級上で リーダー的存在でしたけど、はっぴいえんどは完全にフォークの括りになっていたと思います。ロック好きの中では少数派でした。」

サエキ
「『ロック強制収容所』?!どんなサークルですかそれは!」

篠原
「ブルース・ロック中心のバンド・サークル。今思えば、吾妻さんなんか、ウエストロード・ブルース・バンドや妹尾隆一郎さんなんかより、はるかにブルー スをよく知っていたと思います。高校生なのに(笑)。ぼくの同級生だった武部聡君は、ブリティッシュ・ロックとロックンロールが好きでしたね。クリームもやるけど、同じクリームでもあまり人気のない、地味な曲をわざと選んでカヴァーしてましたね。」

サエキ
「おお、武部さんと吾妻さん、その後の道のりの違いがクッキリと。1972年はそうですね。1973年にはっぴいえんど解散コンサート「9-21」があっ てやっとシティポップス的概念がでてくるけど、1972年は混沌としてて、1969年に始まった日本のロックがちょっと煮詰まりかけてた?ブルースロックはその文脈の中では、追求を続けていたのですね。」

篠原
「先日思いだしたんだけど、吾妻さんに初めて会ったとき、いきなりオールマン・ブラザーズの曲のベースをやらされた。その場で!」

サエキ
「おお、まだ「イート・ア・ピーチ」も出てない頃でしょ。」

篠原
「あの頃は、まだ二枚組のライブ『フィルモア・イースト・ライヴ』の時代かな。オールマンは好きだったから、曲は知ってたけど、そのとき生まれて初めて ベースギターを手にしたんです。弾き方がよくわからず、メチャクチャに弾いた恥ずかしい記憶があります。あれ以来、吾妻さんには頭が上がらない。」

サエキ
「1971年フィルモア・イースト・ライヴ – At Fillmore East (Capricorn)
→ブルースがバキバキ
1972年 イート・ア・ピーチ – Eat A Peach (Capricorn)
→柔らかい浮游感。
1973年 ブラザーズ&シスターズ – Brothers And Sisters (Capricorn)」
→カントリーだが、メチャクチャポップな「ジェシカ」入り

篠原
「フィルモアのライブは国内盤がまだ出てなかったんじゃないかな。」

サエキ
「このオールマンのリリース・ラインアップにも、1970年前半当時の急流が反映されてますね。彼らのブルースロック・サウンドは、ポップな洗練へ向かっ て一直線。渋いブルースロックで、支持を伸ばしたオールマンは、ヘヴィーなデュアンが死に、1973年 ブラザーズ&シスターズのポップさでブレイクし、かつそれで区切りついちゃうんですね。はっぴいえんどの「ゆでめん」→「風街ろまん」のポップ化 とも、ほぼリアルタイムじゃないですか!
と、そこに偶然、サエキにはっぴいえんど「ゆでめん」を貸してくれた女性、清水義光さんが通りかかる。
この人は、ジャックスのファンクラブに入ってた当時女子学院の中高生。ジャックスは加藤和彦さんのフォーク・クルセダースに<からっぽの世界>と<時計を とめて>という曲をカバーされ、シーンの中核にいた。ファン用に作られたライブ盤(とても音が悪い)と「ゆでめん」をサエキに貸してくれた。その後、風街 ろまんの頃に、勝手ファンジンなども作っていた。つまり、ジャックスとはっぴいえんどはファンがつながっていたのだ。

サエキ
「ジャックスを知った1969年に清水さんは女子学院の何年?」

清水美光
「中3から高1かな?フォーククルセダーズの出るライブに行ってジャックスを見て衝撃を受けて、そしたら小岩の駅前のレコード屋にタクトのシングルが売ってたの(<からっぽの世界>と<マリアンヌ>」

サエキ
「え?それは今では超貴重盤。小岩駅前で買えたの?中学生で『僕、おしになっちゃった~』と歌うジャックスファン?」

清水
「ボーカルの早川義夫さんは、確か和光大学の一期生なんですよ。そのお友達の大江長二郎さんが会長をやっていたんです。その下に高校生のお姉さんがいて、後、中学生だったのよ。メンバーが」

サエキ篠原
「えええ!ジャックス・ファンクラブの中心メンバーは中学生?」

清水
「会報作ったりしてね。東洋英和のお姉さん(高校生)と、日本女子大附属中学(ポン女中)の女子が3人とか。ほとんど東洋英和とポン女中の3人で作ってた。ガリ版だけどね。」

篠原
「先日、パリ在住の日本人で、細野さんの立教大学観光学科の同級生という方にお世話になりましたが、ジャックスのファンクラブの会員だったんだって」

清水
「それは後の方ね、ずいぶん」

サエキ
「あの、ちょっと後に作られた、黒いジャケットで音の悪いジャックスのライブレコード(写真今回後追加)は、68~9年に中学生だった人が中心で作られたの?」

清水
「あれは、後からどこかのファンが作ったもの。」

後注:なんとYOUTUBEにありました。
ジャックス – Live 68.7.24 (full album)

篠原
「その細野さんのお友達は、ファンクラブメンバーとしては遅い方?」

清水
「遅い方と思います。最初はとにかくそんな調子だったからね。少したって200人ぐらいはいたかもしれないわね。でも中学生がほとんど!ファンクラブイベントは、ドリンクがジュースだったからね。」

サエキ
「人数が増えても、中学生がほとんど???」

篠原
「GS評論家の故・黒澤進さんも入ってたはずだよ。」

清水
「現、プロデューサーの吉永多賀士(吉永蒔丹)さんもいた。ナイアガラに入る、風都市→ナイアガラ事務所の前島邦昭さんもいたような気がする。」

サエキ
「現・ウルトラヴァイブ社長で、『定本ジャックス』『定本はっぴいえんど』などを作った高護さんは熱狂的なジャックスファン。細野さんの同級生も、 高護さんも、みんなジャックスから始まってるんだよね。清水さんははっぴいえんどのファンジン(「風街何とか」というタイトル)とか持ってたし。」

篠原
「はっぴいえんどの楽譜集「CITY」に文章がいくつか載っているんだけど、それにやっぱり中学生か高校生の女の子がいたと思う」

サエキ
「ジャックスと、はっぴいえんどの黎明期を支えたファンのメインは女子中学生だったんだ!驚きじゃないですか!だって、フォークゲリラとか、岡林信 康さんなどURCの歌手達は、大学生が中心だったわけだったわけですよ。一方で、あのジャックスとはっぴいえんどという鋭い歌詞と音楽の、初期ヘヴィー・ ユーザーが女子中学生だったとは異常な事態といえるじゃないですか!」

清水
「最初ミーティングをしたときは早川義夫さんの家だったわ」

サエキ
「中学生の会員同士は会わないの?」

清水
「会報を作って、郵送で受け取るだけだから、会わないのよ。だからお互いに知らない。積極的な子が会報作りを手伝うから顔合わせる程度。解散後、ジャックスと名のつくファンクラブはあと2コくらいあったかも。でも最初から解散までやってたのは、そのファンクラブ。」

サエキ
「女子中学生の感性が当時、ジャックス~はっぴいえんどを支えたとは本当に驚きです」

清水
「そうかしら・・・」と立ち去る。

篠原
「今回ね、はっぴいえんどの。全曲全音源を聴き直したんですよ。38曲127音源全部。」

サエキ
「いかがでしたか!?」

篠原
「今までわからなかったこともあらためて“わかったつもり”になりました。はっぴいえんどが当初支持されたのは、必ずしもアメリカン・ウエストコースト的 な音づくりに成功したからじゃないんだ、と思いました。当時は、ウエストコーストVSブリティッシュみたいな図式をもとに書いている雑誌が多く、やがてそ れは日本語ロック論争につながるわけだけど、そういう視点からのみはっぴいえんどが評価されたわけじゃない、と思ったわけで。鈴木茂さんのギターの音だっ て、ライヴで聴いた最初の印象はブリティッシュ・ロックだったし。だからこそ<12月の雨の日>とか<春よ来い>とか、けっこう広い層に衝撃を与えられた んだと思います。当時クリームなんかの音に慣れていたロック・ファンにも訴える要素があったんですね。」

サエキ
「ああ、それはそう思います。ウエストコーストは「風街ろまん」で、「ゆでめん」は、どの国由来か、なんとも分析が難しかった。」

篠原
「小倉エージさんや北中正和さんは、当時からアメリカの様々なロックを聴いていたから、サウンドの微細な違いもよくわかってたんでしょうけど、一般のリス ナーはそこまで情報量がない。バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレープの名前を、はっぴいえんどに関する雑誌の記事で初めて知る人も多かっ たと思う。当時、サムライというロック・バンドをやっていたミッキーカーチスさんもはっぴいえんどを高く評価していたけれど、彼もウエストコースト系のサ ウンドだと思って聴いていたわけじゃないんだと思います。はっぴいえんどのサウンド自体がロックだったんですよ。」

サエキ
「ふ~ん。そのロックが当時は、ブルース的ハードロック中心だったからな」

篠原
「つまり、ブリティッシュ・ロックをふだん聴いている人の耳であっても、はっぴいえんどを割合素直に受け入れられた、ってこと。ただ、その後、ミッキーさんも、『風街ろまん』みたいなカントリー・ロック調にシフトするんですけどね。」

サエキ
「今回レコード・コレクターズで僕が行ったインタビューで、鈴木茂さんも、自分のギターは「ゆでめん」ではジミヘンだった、バッファローじゃないと(笑)おっしゃってました。」

篠原
「ああそうですか。それはそう思います。今回の原稿でも強調しました。茂さんはまるでジミヘンだと。」

 

サエキけんぞう×篠原章対談 第2回につづく

全6回

サエキけんぞう×篠原章対談 第1回
サエキけんぞう×篠原章対談 第2回
サエキけんぞう×篠原章対談 第3回
サエキけんぞう×篠原章対談 第4回
サエキけんぞう×篠原章対談 第5回
サエキけんぞう×篠原章対談 第6回(最終回)

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ジャックス

ジャックス

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