花街慕情 尼崎(かんなみ新地)篇

8月上旬。久々に神戸にやってきた。夕方、ホテルで荷を解き、しばし休息の後、三の宮、元町界隈を食事がてら散策する。夜も10時半を回ってホテルに戻ろうと思ったが、目の前に阪神・元町駅の入り口がある。「色街巡り」という言葉が頭をよぎる。神の手に導かれるがごとくふらふらと最低料金の切符を買って構内へ突入。ここからなら新開地=福原が近い。福原はそれなりの歴史を刻んだ遊郭だが、今は基本的にソープ街である。たんなる風俗好きならソープ冒険譚もありうるだろうが、けばけばしいネオンに照らし出されて、すっかり“謎”を失ってしまった街に興味はない。さて、どうしようと迷っているうちに、プラットフォームに梅田行きの電車が滑り込んできた。このまま梅田行きに乗り込んでしまうと、電車のある時間に神戸まで戻れないかもしれぬ。が、この機会を逃せばいつまた来られるかわからない。ままよ、とばかり快速電車に乗り込んで、降車駅を尼崎の手前、「出屋敷」と定めた。

阪神電車は神戸から大阪に向かってひた走る。新在家、御影、魚崎と神戸市内を過ぎると芦屋・西宮。西宮で各停に乗り換えて元町から約30分、目的の出屋敷駅に到着。行政区分でいえば尼崎市。関東でいえば、川崎に相当する工業都市で、町の成り立ちは近代日本資本主義生成プロセスと切っても切れない縁にある。四国・九州・沖縄などからの出稼ぎ労働者たちが、高炉や旋盤相手の14時間労働に耐えるうち、故郷に錦を飾る夢もきっかけも失ってやむにやまれず住み着いた町だ。
駅前は閑散としている。新しい駅舎の無機的な存在感が、闇夜の中でひときわめだっている。しょぼくれた街に不似合いなほど広く、よく整備された駅前広場がかえってもの悲しげだ。幼稚園児ぐらいの年齢の女の子と男の子が、ラジカセから流れる音楽に合わせて芝生の植え込みのなかで踊っている。母親らしき、年の割には派手な三〇代の女性が手拍子を打ちながら子供たちに何か声をかけている。深夜になろうとする時間帯にはまず見られない異様な光景だ。
駅前通りを北に向かって歩く。営業している店は少ない。「亀田洋品店」とかかれた巨大なアーチが通りを跨いでいる。「○×商店街」というアーチならよく見かけるが、特定の店の名が入ったアーチが公道を堂々と跨いでいる姿を見るのは初めてだ。深夜営業らしき「そばいち飯店」の角を右に曲がると、数十メートル先に妖しげな灯りのバラックが密集しているのが見えた。 おーっ、あの灯りこそ目的の「かんなみ新地」に違いない。

「かんなみ」とは「神田南」の略だという。このあたりはお世辞にも豊かとはいえない住宅街だ。昭和30年代初めに建てられたとおぼしき、延坪20坪に満たない狭苦しい木造二階建てが互いに寄りかかるように群れている。建て替えの時期をすでに逸してしまったかのような、危なっかしい住宅ばかりだ。阪神淡路大震災でよくぞ生き残ったものだと思う。70年代の記憶でいえば、羽田あたりの裏路地に近い印象である。つげ義春の世界を疑似体験できる場所といえば、聞こえはいいが。
沖縄の宜野湾の新町(真栄原)やコザの吉原などで“修 行”を積んでいるので、住宅街の中に忽然と現れる「色街」には慣れているつもりだったが、「かんなみ新地」には飲み屋も食い物屋もまったくない。「やること」だけが目的のバラックが、50メートルプール程度の面積に密集している。こうなると風情もへったくれもないが、なんだかニューメキシコの砂漠地帯にでもありそうな色街である。ここまで「性産業」に特化していると、潔く見えないこともない。
どの店も遣り手婆と女の子がセットになっている。「おにいちゃん、かわいい娘いるよ」「ちょいとちょいと、おにいちゃん、話だけでも聞いてって」と実にかまびすしい。が、飛田新地あたりと違っていくぶん大らか だ。遣り手婆同士で世間話している姿が目につく。男たちがやってくると一瞬お喋りをやめて呼び込みに精を出すが、通り過ぎてしまえば世間話の続きで盛り上 がる。商売っ気があるんだかないんだかよくわからない。飛田では、遣り手婆同士が無駄話に高ずるということはあまりない。いつもぎらぎらした目で道行く男たちを網にかけようとしている。

表通りに面した店には20代前半の若い娘、薄暗い裏通りには熟女というのは、真栄原、堀之内(川崎)、飛田(大阪)などと変わらない色街の「第一法則」である。女の子や遣り手婆が座っているすぐ後ろに、申しわけ程度のバーカウンターがあり、その奥に二階につながる“階段状の梯子”がある、というのが各店に共通した構造だ。90度近い勾配なので機能的にはどう見ても梯子なのだが、数センチ幅のステップがほぼ20センチおきにはめこまれ、階段らしくしつらえられている。形状はどうあれ、あれは梯子だろう。その梯子の先にぽっかり開いた穴蔵は、欲望を吸い込む闇の世界である。屋根裏部屋のような階上にはピンクの照明が妖しげに輝く三畳ほどの個室がいくつかあるはずだ。
バラック密集地帯のちょうど真ん中に共同トイレがあったので用を足していると、20代後半とおぼしき女の子が「個室」からでてきた。

「おにいさん、こんばんわー。もう遊んできたの?」
「まだだよ」「じゃあ、うちの店に来るといいさぁ」
「まだ来たばっかりだから、ぶらぶらしてみたいんだけど」「そうなの?うちもさっき来たばかり」

むむむ、この色黒娘のイントネーションには聞き覚えがあるぞ。

「お姉さん、エキゾチックだね。南国生まれ?」
「なしてわかるの?4月に沖縄からこっちにきたの」「やっぱりそうなんだ。言葉がウチナーしてるよ」
「関西弁になかなか慣れなくって困ってるんだ」「沖縄の娘、たくさんいるんでしょう?」
「うちの店は二人いて二人ともウチナーンチュ。隣の店にもいるし、裏の店の娘もウチナーンチュさねえ」

「へえっ、まるで新町みたい」
「新町知ってるの?おにいさんもウチナー?」

「ぼくは違うけど、沖縄にはしょっちゅういくんだよ」
「じゃあ、これもご縁ってことで、うちの店に来たら?」

「うーん、考えとくよ。また後でね」
「ほんとう?待ってるよー」

こんな事態を予測していたわけではないが、それほど意外でもなかった。尼崎や大阪には沖縄出身者が多いし、ウチナーンチュばかりの色街があるとも聴いていたからだ。神崎川・猪名川の合流地点にある中州に震災で潰れた戸之内という色街が尼崎にあったらしいが、そこもウチナーンチュ比率が高かったという。
ぶらぶらするといっても、狭い新地だけにゆっくり巡って5分もすれば見所はなくなる。うっすら汗をかいたところで、かんなみ新地を後にする。このままこの地にゆっくりとどまれば、神戸には帰れなくなってしまう。

人気のない出屋敷駅のプラットフォームが、降り立ったときよりもいっそうもの悲しげに見える。後ろ髪を引かれる思いで阪神電車の神戸方面最終に乗り込んだ。
車中で大城美佐子のことを思い出した。女だてらに放浪の歌者、女カディガル(嘉手苅林昌)と呼ばれる沖縄民謡の歌手である。情念の歌者とも呼ばれる。情が深い女であることは、歌声に触れたとたんにわかる。闇雲に放浪していたわけではない。男を追いかけ、男に追いかけられ、酒場を渡り歩くうちに、放浪の歌者と呼ばれるようになった女である。今は那覇に落ち着いた彼女も尼崎生まれだ。

現在、沖縄民謡の世界で活躍する長老たちの多くが関西生まれで、大城美佐子のように尼崎生まれも少なくない。彼らの歌が光り続けているのは、ニッポンの近代がときとして透けて見える背景を背負い込んでいるからだ。ニッポンの近代とはニッポン人にとってもオキナワ人にとっても厳しい時代だったのだ。
ひょっとしたら大城美佐子も、この尼崎で三線をつま弾いていたかもしれぬ。「戸之内」という中州の朽ちかけた飲み屋で、若かりし頃の彼女が離別した愛する人を思って抑揚の深い歌声を響かせていたとしたら、などという妄想が頭をよぎった。

kannami

批評.COM  篠原章
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