南島慕情 奄美篇(2)

南島慕情 奄美篇(1) からつづき

名瀬のトタン屋根

荷を解いて、すっかり陽が落ちてからひとり散歩に出る。 まずはこの街の地理を把握しなければ。屋久島疲れはほとんどなかったので、1時間ほど歩く。奄美最大の飲屋街といわれる屋仁川通り(奄美の言葉では「やんご」というらしい)ティダモールというアーケードのある末広町周辺。主要な“繁華街巡り”は徒歩でもあっという間である。

が、街並みがどこか暗い。暗いというのは照明が足りないという意味ではない。たんに活気がないという意味ともちと違う。建物の古めかしさ、汚さ、チープさは沖縄でもさんざん経験してきた。人通りが少ないということも地方都市の中心部では珍しくもない。石垣島最大の繁華街・美崎町のそばに、十三番街といううらぶれた色街があるが、あの街にすら名瀬のような圧迫感はなかった。うらぶれているのに開かれていた。寂れた繁華街は山ほど見てきたが、ここはとても荒れ果てた印象が残される。街並みに色気がない。リズムもない。香りも薄い。けっして辛口に批評しようとしているのではない。前向きに評価しようとしてもその材料が見あたらないのである。ひょっとしたらこれが奄美の“個性”なのかもしれないが、わけもなく逃げだしたくなってしまった。

南島慕情 奄美篇(2)
南島慕情 奄美篇(2)

ホテルへの帰り道、新川(奄美の言葉では「しんご」)沿いを歩いていたら、トタン葺きの、それこそ外壁にまでトタンを使った今にも崩れそうな住宅があちこちにあった。こういう街並みは昭和30年代、子供の頃の記憶にはある。凄みを感ずるほどのチープさである。今でいえば、東南アジアで町歩きをしているときにしばしば襲ってくるカルチャー・ショックはたまた寂寥 感に通ずる光景である。

計数的にいえば(厳密には国民経済計算を用いると)、奄美の貧しさは沖縄の貧しさとほぼ同等となる。沖縄県民一人当たりの所得と、奄美群民(正確には鹿児島県大島郡民)一人当たりの所得はほぼ同じだという。一人あたりの分配国民所得は全国平均で299万9千円、わが東京都で436万5千円。これに対して奄美群島は210万5千円、沖縄は212万5千円。ちょうど二万円の開きとなる。が、物価水準は奄美のほうが沖縄(那覇)より10%程度高い。単純計算でいえば、210万5千円を1.1で除して得た結果、つまり191万4千円が沖縄に比べた場合の奄美の所得となる。この結果を信ずれば、年間20万円程度の所得水準の差だ。世帯あたりの所得や収入を見たほうがより実態を反映するのだが、これについてはサンプル調査しかなく、那覇市のデータはあっても名瀬市のデータはない。

奄美といっても大島だけで、北から笠利町、龍郷町、名瀬市、大和村、住用村、宇検村、瀬戸内町の7つの行政区分に分けられる。これに徳之島の天城町、伊仙町、徳之島町、喜界島の喜界町、沖永良部島の和泊町、知名町、与論島の与論町が加わるから合計14市町村によって奄美群島が構成されているわけだ。各市町村の所得分配状況を個別に見ると、名瀬市の210万5千円から伊仙町の137万5千円までその幅は大きい。

鹿児島県が公表する統計でよくわからないのは、奄美郡民の所得に名瀬市が含まれているのかどうかという点(通例は含まれない)、そして県庁が公表する郡民所得総額と各市町村の所得総額とに数字的な乖離があるという点の二点である。篠原の計算によれば、名瀬市を含んだ奄美郡民所得をその総人口で割ると194万1千円となり、公表されている郡民一人当たりの数値と 16万円の差がある。篠原のデータが正しいとすれば、沖縄とのあいだで物価水準(110/100)を調整した上での数値は176万5千円となり、奄美群島の所得水準は沖縄よりもかなり低いということになってしまう(約46万円の差)。名瀬を含まなければ沖縄=奄美間の所得の比較など意味はないが、もし名瀬を含まないとなると、単純計算で182万円となり、これを対沖縄の物価水準で調整すると165万5千円となる。

計数的な比較など限られた意味しか持たない。この場合の所得はあくまでも人口で割った平均値であり、しかも個人所得だけではなく、企業所得や財産所得を含んでいるので、そこまで詳しく分析しなければ実態は浮かび上がらないし、市町村内での所得分布まで調査しないと、ひとりひとりの暮らし向き・暮らしぶりも見えてこない。統計とはかくも不完全なものなのだが、それでも現実を反映する鏡としてはある程度使える。

名瀬市中心部の街並みを再開発する計画があるという。中心市街地の再開発である。歴史的な景観が損なわれ、既存の住民ネットワーク・コミュニケーションが壊されることに対する危惧も強いようだ。が、今、ここで手をつけなければ、名瀬に将来はない。「よそ者が勝手なことを」と非難されるのを承知でいえば、名瀬の中心部は文字通り朽ちかけている。手をつけなければ ならないことは明白である。既存の住民の暮らしが壊されるといっても、住民が引き続きこの街に住み続ける保障などなにひとつない。街は手つかずで残ったが、住んでいるのは爺婆と犬猫だけだったというのでは話にならない。小布施のような街造りなど到底望めないが、名瀬の風土と歴史に見合った住民参加型の町づくりは十分可能だろう。コザ(沖縄市)に比べればはるかにコンパクトだから、サイズとしてもちょうどいい。反対派がムキになれば推進派もムキになる、賛成派が強引に進めれば反対派が訴訟に訴えるといった悪循環の末、外来種の背の高いヤシが植樹されたアラモアナ・パーク(ホノルル)と見紛うような臨海公園 と“名瀬タワー”のような無意味なランドマークがひとつ建った、ではどうしようもない。そうした事態だけは避けなければならない。

ホテルに戻って原稿を書く。奄美の原稿ではない。YMO=イエローマジックオーケストラに関する原稿である。旅先で原稿を書くのにはけっこう慣れてしまっている。昨年の暮れにはコザでやはりYMOに関する長い原稿を書いた。おかげで久々の沖縄での休暇は台無しとなり、原稿書きに終始してしまった。ここ数年、沖縄行きはほとんど仕事がらみ、完全なる休暇ということはほとんどなかったので、ずいぶん楽しみにしていたのだが。インターネットが普及したために、旅先でも原稿が書けてしまう。困ったことである。

古仁屋の市場

翌朝、役場での面談調査を終えた後、お買い物エリアであ るティダモールを散策。めぼしいものはあまりない。途中、レコード店一軒を時間をかけてチェック。この街でCDを買おうと思えばレーベルもあるセントラル楽器かTSUTAYAだろうが、ティダモールのレコード店“じんのうち”はカセットテープを中心に恐るべき品揃え。一昔前のコザのレコード店以上にカセットが豊富である。といっても当方のお目当ては民謡ではない。民謡なら今やネット通販のほうがはるかに便利である。むしろこの店の真骨頂はJポップ系・演歌系のカセットにある。目にしたこともないJポップ関連カセットが陳列棚に多数並ぶ。元ちとせのオーガスタ盤・ソニー盤カセットでもあれば“買い!”と思ったが、どうやら作っていないらしい。残念。一瞬、山下達郎のカセットに食指が伸びたが、そういうマニアックな買い物は止めておこうと自戒して、民謡研究家として知られる服部龍太郎の『南海の唄ごえ 奄美民謡集』(1976年3月)というアナログ盤LPなど三点、ネットや通販で手に入りにくいものを買い求める。“じんのうち”の凄さはカセットだけではない。ここはラジカセを売る電器店でもあるのだ。その品揃えには驚愕。といっても90年代以降に出た製品は少数派で、80年代に作られていたラジカセがなんと“新品”として売られている。デッドストックである。たとえば88年ぐらいに出たダブルカセット、チューナー付きのビクター製ラジカセなど定価の値札は8万以上。さすがに定価販売ではないらしいが、先代が在庫として抱えていたものを売りに出しているという。メタルポジション、クロムポジション、ノーマルポジションの三択ができるラジカセなんてもう売られていないから、マニアなら垂涎の名店ということになろうか。

昼頃からレンタカーを駆って名瀬から瀬戸内町に向かう。 むろん国道58号線である。名瀬~住用村~瀬戸内町というコースだが、住用村の一部を除いて国道は山間部を貫いている。山といってもそれほどの高さではない。しかし、俺はいったいどこにいるのだろうという気分に陥る。圧迫感がある。山々に圧倒されてしまうのである。

小学校・中学校と山梨県の甲府で過ごしたので、山には馴染みがある。好きということはないが山には慣れている。甲府のあたりは比較的広い盆地で、街の中心にあった自宅にいる限りは「山に圧倒される」という気分になったことはない。が、車か電車で30分も行けば山間の村々ばかりである。こうした村々では夜明けが遅く夕暮れも早い。そうなると寂しい気分になる。山々が追っかけてくるような窮屈な気分になる。山々に圧倒されてしまうのである。子供の頃、夏休みになると、母の実家があった九十九里近くの旭市で過ごすのが恒例だったが、一面、遮るもののない太平洋を見ていると不思議な安心感があった。ここなら山々に圧倒されることはない。アメリカまででも平気で泳いでいけるような、ファンタジックな気持ちになったものだ。それは夏の密かな楽しみであった。

沖縄に惹かれている理由のひとつは海にある。海があるだけで安心する。だから、沖縄本島でも低い山並みが連なる山原の山間にいると、一刻も早く海の近くまで逃げだしたくなってしまう。ぼくにとっては今帰仁や座喜味の城が「山」の限度なのだ。

山間を抜けて瀬戸内町にたどり着く。町の中心地・古仁屋の港から壮大な海を見る。海というよりもたしかにそれは海峡(大島海峡)で、その向こうには巨大な島が横たわっていた。加計呂麻島である。ほっと一息つく。

南島慕情 奄美篇(2)

古仁屋の町はひっそりとしている。賑やかなのはフェリー埠頭近くにある生協(Aコープ)のあたりだけであった。田舎の港町はどこでもこんなものだろうが、それにしても人恋しくなるような寂しさがある。車を停め、一時間ほど歩いて廻る。銀行も役場もあるが、奄美南部の行政的・経済的中心地とは思えない静けさである。漁港近くの市場のうら寂しさといったら、沖縄本島・本部あたりの市場のそれとは比較にならない。間口半間程度だろうか、トタンづくりのちっぽけな魚屋が四軒ほど営業していたのだが、店先にはもう何十年も前に生産中止になったようなガラス製の小型冷凍ケースがひとつだけ。それも、マグロの柵なら4本も入れればいっぱいになってしまうようなサイズで、内側にはたっぷり霜の付いたパイプが通っている。中には生魚の柵が一本か二本。冷凍ケースの隣に、息を引き取りかけた一匹か二匹の伊勢エビを無造作にポンと置いている店もある。その冷凍庫の後ろに鎮座しているのは、もちろんしわくちゃのおばぁたちである。たしかに“店”であることはわかるのだが、お世辞にも「商売」しているとはいえない。

「おばぁちゃん、こんにちは」
「はいはい」

「この魚は何かな、柵になっているヤツ」
「わからんのかのぉー?鰹だよぉー。買うていくかい?」

「いつとれたの」
「昨日かねえ」

「こっちのエビは売り物なの?」
「売りもんさ。伊勢エビだよ」

「虫の息・・・」
「腐っとるわけじゃないからね。味にはあまり関係ないね」

「お客さんはたくさん来るの?」
「いや、きょうはまだ誰も来んね。昨日の午後だね、最後のお客は」

“るるぶ”風にいえば「ひなびた市場での心優しきおばぁとの出会い」である。が、あのおばぁたちが天寿を全うしてしまえば、この市場に未来はない。市場は廃墟と化し、廃墟愛好家の被写体となる運命が待ち受けている。もはや、廃墟になるための時間を稼いでいるという一点において、初めて存在意義が見いだされるような市場であった。

フェリー乗り場の狭い待合室には加計呂麻行きの観光客が所在なげにベンチに腰掛けている。ダイビングやマリンスポーツが目的の客ばかりだ。隣接するAコープの飲食コーナーには、買ったばかりの弁当を食べているグループもいる。

加計呂麻は小島とはいえ、竹富や小浜などとは比較にならないサイズだ。徒歩や自転車で回れる島ではない。路線バス(加計呂麻バス)の時刻表を見ると、北端の実久(さねく)集落から港のある瀬相(せそう)まで約1時間、瀬相からもう一つの港のある生間(いけんま)まで約2時間、生間から南端の徳浜集落まで約30分。島を縦断するのになんと3時間半もかかる。驚くべき小島である。珍しく欲が出て、レンタカー共々加計呂麻行きのフェリーに乗船する際の料金まで調べたが、旅程の短い旅人にはちょっと無理だと断念。

昼食のために食堂を探してしばし古仁屋港周辺を歩く。何軒かの食堂があるが、例によって営業しているんだかなんだかよくわからない店ばかりだ。港近くの川沿いに「うなぎ」という看板を掲げた店があった。「なにわ食堂」という。どうやらうなぎが名物らしいが、公務員らしき客の大半はちゃんぽんを食べている。うなぎとちゃんぽんを除けばメニューはやきめしぐらいだ。彼らにつられるようにしてちゃんぽんを注文。手打ち麺らしいことはわかるが、これといった特徴もない。美味しい不味いでいえばどちらともいえぬ平均的な味。少々脂っこい。

大島海峡を挟んだ加計呂麻島の風景は実に雄大である。リアス式の海岸を備えた島の緑と海の深い碧が混じり合って濃厚な景色を生みだしている。が、濃厚すぎるためか、妙に白砂の眩しいビーチが恋しくなってしまう。地図を見ると、ヤドリ浜というビーチがある。ちょいと行ってみようと、県道626号線を東に向かって走る。徳州会病院をすぎると、見慣れた南島の村落の風景がつづくが、やはり起伏が多いくねくねとした山道だ。軽自動車にはけっこうきつい。途中、嘉鉄という小さな集落に入り込んで、公民館前のビーチで一服。人気のない白い砂浜がつづいている。一キロほどあるだろうか。時折、南の方角から強く吹き込む風が気持ちいい。モクマオウがざわざわと騒々しくなり、耳の周りでビュービューと風が呻っている。この感じ、好きだ。

公民館の向かいの小学校から子供たちのはしゃぐ声が聞こ えてくる。校庭の隅っこにあるガジュマルの木に上った3年生ぐらいの小太りの男の子が、「おーい、こっちだよー」と友だちに声をかけている。が、他の子供たちは、ブランコ遊びに夢中らしく男の子の声に耳を貸さない。男の子は押し黙って、足をぶらぶらさせながら海の方角をボーっと見つめている。上下白の体操着、赤白帽の白。男の子が眩しく輝いて見える。やがてこちらに気がついたその子は「こんにちはー!」と大きな声で叫ぶ。こちらも風に逆らうようにして「こんにちは」と返す。すると数人の子供たちも校庭と道路を区切るフェンスの近くまで駆け寄ってきて、次々に「こんにちはー」と声を張り上げる。いちいち手を 振ってそれに応える。

嘉鉄を後にしてヤドリ浜に向かう。途中、エビの養殖場らしきものに遭遇するが、養殖場周辺には、道路拡張事業なのか港湾整備事業なのか、ダンプカーが出入りしている。この地域の所得の一部はこうして形成されているのだろうが、わずかばかりの所得や見かけ上の社会資本と引き替えに失うものの大きさを計測する方法はまだない。

ヤドリ浜は二キロほどの美しい白砂のビーチだった。客らしき人影はわずかに二人。それも連れ立って自家用車でやってきた中年オヤジである。二人ではしゃぎながら海に飛び込み、水を掛け合っている。30代後半の 中年男二人組がビーチではしゃぐという光景など、普通なら不気味きわまりないはずだが、このヤドリ浜には不思議とマッチしている。微笑ましくさえある。同級生だろうか、職場の仲良し二人組なのだろうか、それとも兄弟なのだろうか?いろいろ想像してしまうが、仕事を放り出してきていることは間違いない。「こんなところで遊んでいることがばれたらクビになるかもよ」「平気平気、絶対ばれないから」といったやり取りがあった。

ヤドリ浜にはキャンプ場も併設されていた。珍しくコーラ が飲みたくなり、キャンプ場の売店でボトルを買うと、売店のオヤジさんがサービスで設置したらしい売店前のビーチチェアーに座ってぐびぐびと飲み干してし まった。売店からはNHKラジオのニュースが聞こえてくる。風の音とアナウンサーの声だけが響く世界だ。屋根付きの休憩所があったので、そちらに向かうと コンクリートの床の上にブルーシートをひいて、大学生らしき若者がひとりで眠っている。キャンプ場の客らしい。南国のゆったりとした時間の正しい過ごし方である。若いうちにこんな「正しさ」を身につけてしまうと、ひょっとするとキミは社会に適応できないかもしれない。でも、きっとそれでいいんだよ。心のなかで彼に話しかけている。就職に四苦八苦している教え子たちの姿が頭に浮かんでくるが、ビーチを後にする頃にはそれもすっかり忘れてしまっていた。

あわせてどうぞ 南島慕情 奄美篇(1)
南島慕情 奄美篇(3)
南島慕情 奄美篇(4)

批評.COM  篠原章
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