南島慕情 奄美篇(3)

南島慕情 奄美篇(2) からつづき

嘉徳集落~元ちとせの魂

元ちとせの生まれた嘉徳という集落に行ってみたいと願っていた。行かねばならぬとも思っていた。古仁屋からなら国道58号線を名瀬方向に10キロほどもどって、網野子峠あたりから、太平洋に向かって脇道を10キロほど走れば嘉徳である。発音は「かとく」だが、本来は「かどう」とか「かどほ」といったようだ。沖縄と同じく「か(嘉)」は強調の接頭辞、「どう(徳 あるいは度)」は大海=太平洋を意味する言葉というから、太平洋に面した集落という意味か。

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嘉徳は人口50人、バスも一日二便という僻地である。瀬戸内町でももっとも辺鄙な集落だというが、瀬戸内町に辺鄙な集落は少なくない。加計呂麻のさらに南にある与路島、請島も瀬戸内町だし、西部には花天(けてん)、管鈍(くだどん)、西古見、屋鈍、阿室といった辺鄙な集落もある。だが、手元の地図を見ると、嘉徳は格別辺鄙な場所だと思えてしまう。国道からの脇道が嘉徳から先には通じていない、つまり行き止まりだからだ。後で調べたら、隣の住用村青久に通ずる山道を見つけたが、網野子峠から嘉徳までの約10キロの道のりには集落はない。嘉徳から青久までのあいだの約10キロにも集落はない。つまり周囲10キロ四方あるいはそれ以上にわたって、集落のない孤立した場所なのだ。おそらくその昔は海を伝って、他の集落に行くほかなかったのだろう。

嘉徳には奄美民謡(島唄)のなかでももっとも有名な歌のひとつ「嘉徳なべ加那」がある。ヤマトの江戸時代に相当する時期に実在したなべ加那という女性がモデルだという。「嘉徳の鍋加那という子は親に水をくませて自分は水浴びをしている、けしからん子供である」(一番)という意味の教訓歌だとされる。二番は「嘉徳の鍋加那が死んだから、三日間で酒をつくって、七日の間遊ぼうよ」だ。礼儀知らずの加那が死んだからみんなで酒飲んで祝おうよということか。が、これじゃあんまりである。親に水を汲ませた程度のわがまま娘が死んだからといって、飲めや歌えの大騒ぎではさすがに人の道に反する。三番は謎々のような歌詞だ。「嘉徳の浜には葛の花があたり一面びっしり生え繁ってる」とくる。なんなんだ、こりゃ。実際には種々の解釈があるらしい。有力な説は、なべ加那は徳の高いノロ(神官)か天女のように美しく気高い女性だというもの。「親をして水を汲ませるほど高貴で美しく、七日間もの大がかりな追悼が必要なほど神聖な存在で、その気高さは浜を埋め尽くす美しい葛に相当するほどだった」という意味のなべ加那賛歌であるという。いやはや全くの逆である。

どちらが真に近いかといえば、むろん後者だろうが、地元・嘉徳では「親を粗末に扱うな」という教訓歌として歌い継がれているという。歌というものは生き物で、本来の意味とまったく異なるものに変異してしまうという証拠である。歌い継がれるとき、ちょっとした“政治力”のようなものが働いたのかもしれない。

民謡の専門家ではないので、あれやこれや勝手な解釈を加えるのも適切ではないが、ひとつだけ気になることがある。奄美には「はまさき」という歌があって、そこには「浜先に這ゆる 根ぬかずらよ 生え先ぬ無だな  元に戻ろ」という歌詞がある。これは、「嘉徳なべ加那」の三番にある「嘉徳浜先(はまさき)に、はえる美麗(いちゅ)かずら、はえ先やねらん、元に返ろ」と対応している。「はまさき」の意味は「一面美しいかずらがはびこっている」ことではなく、「ルーツに帰ろう」「基本に帰ろう」という意味だというから、「神々の神秘を体現したなべ加那の遺髪を継いで、この村が栄えんことを」というような意味が三番には込められているような気がする。

嘉徳の浜は、奄美でも唯一、浜としての原型をとどめている場所だという。その砂は白砂ではなく黒砂である。山間を抜けてようやくたどり着くような人里離れた寒村で元ちとせは育った。黒砂の砂浜、月の明かりだけを頼りに行われる8月踊り。地形からくる独特の圧迫感。この集落に育ったことで元ちとせの歌は磨かれた。その重々しい哀感は嘉徳の集落が生みだした必然である。この土地の呪縛が元ちとせの歌を第一級のものに育て上げたのだ。天女の衣装をまとった「現代のなべ加那・元ちとせ」というイメージが頭をよぎった。

元ちとせばかりでなく、一般的にいって奄美の歌は沖縄に 比べると遙かに厳しい。東北の民謡のような趣さえある。哀感のある歌であってもどこかゆったりした印象のつきまとう沖縄の歌と違って、南島なのに北風が吹きすさぶような厳しい表情を見せる。この土地では否応なく孤高の魂と向き合わざるをえない。それは山々の島といってもいいこの島の地形・風土・環境と密接に結びついている。ときに息苦しいほどに。その息苦しさが愛おしい。その息苦しさから離れたい。アンビバレントな思いが心を揺さぶる。

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マンコイ西古見

とにかく島の端っこまで行きたい。再び古仁屋にもどって、県道を西へ西へとひた走る。ジェットコースターのような道ばかりだ。山の中腹にいたかと思ったら、次の瞬間、漁港の横を走っている。どこかの海岸で休憩しようと思って場所を探しているほんの数分のあいだに、再び山間に連れ戻され、加計呂麻を見下ろす場所を走っていたりする。これだけ高低差が激しい道路も珍しい。軽自動車ではとても辛い。スロットを全開にしないと上れない坂道もある。たしかにリアス式海岸は絶景だが、その風景は雄大ではあってもぼくたちの心を癒してはくれない。自然の偉大さ、厳しさを見せつけられるだけである。

漁港はどれも金太郎飴のようだ。ほんの10分前に通り過ぎた漁港とほとんど同じような姿をした漁港が目の前にある。砂浜がないのも共通した特徴だが、西または南の方角に必ず加計呂麻が見えるのも共通している。どこまで走っても加計呂麻が追いかけてくる。こいつはかなわんな、と思う。人びとは加計呂麻に追いかけられるようにして何百年、何千年と暮らしてきたのだ。加計呂麻にもリアス式の厳しい表情をした海岸線があるが、こちら側と違って、ところどころに白砂のビーチが広がっている。救いである。

古仁屋から手安、久根津、須佐礼、油井、阿鉄、小名瀬、深浦、篠川、古志、伊目、久慈を通って、花天、管鈍、西古見に至る約40キロがルートを走る。いずれも漁業とわずかばかりの農業をおもな生業とする一帯だ。

奄美の人口の減り方は尋常ではない。奄美群島全体の人口 動態を見ると、昭和25年前後の22万人をピークに減少の一途で、平成12年の国勢調査では13万2,325人、現在もなお減りつづけている。そのなかにあっても瀬戸内町の人口減少はとくに激しい。昭和30年には2万6,371人、平成12年の国勢調査では11,651人。半分以下、減少率は60%近い。 加計呂麻島(8,513人→1,704人 80%減)、請島(1,174人→200人 83%減)、与路島(996人→165人 83.5%減)の寄与度が高いせいだが、本島部分も奄美群島全体の平均に近い数値(群島平均41%減・瀬戸内の本島部分で39%減)を示している。これでよく「行政」が成り立つものと思うが、日本の地方、とくに離島部はこういうかたちで大きな「犠牲」を払っているのだ。計数的にその「犠牲」はせいぜいが「人口流出数」でしか評価されないが、「地方の総体的荒廃」のベースに「人口の減少あり」で、そこから派生するかたちで社会経済のさまざまな部分が痛んでいる。長寿という点でいえば、奄美群島も瀬戸内町も全国トップクラスだが、その程度ではとても相殺しきれないほどの犠牲を払っていることは明記してよいだろう。

統計を入手できなかったので確証はないが、瀬戸内町の本島部でも、久慈から西の花天、管鈍、西古見はとくに惨憺たる状況だろう。もちろん、元ちとせの出身地である嘉徳も酷い過疎に苦しんでいるはずである。

が、何より悲しいのは、「お決まりの公共事業」によってしか、これらの地域が壊滅する日を延命できないという現状である。あきれるほど同じ規格の“そっくりさん漁港”が延々と連続する様を見ると、護岸工事や漁港整備事業はほぼ一巡したのだろう。現在は片側一車線あるかないかの狭い道路の整備に力を入れているようだ。管鈍=西古見の道路など工事の真っ最中である。通行する車の大半は工事関係車両であった。ということは、工事が終われば通行する車はほとんどなくなるということだろう。道路整備に合わせて観光振興事業でも計画しているのかもしれないが、奄美中に同じような集落が点在しているのだ。他の地域と差別化できる売り物などほとんどないといっていいだろう。 この島で行われている公共事業は土木業者にとっては麻薬のようなもので、これによって彼らはいっときの至福を得ることができるだろう。が、これらの公共事 業が生みだす社会資本は、地元の所得形成にはほとんど役立たないだろう。地元の土建業者に落ちるカネなどたかがしれているし、店といってもせいぜい郵便局ぐらいしかないような、つまり沖縄本島・山原のように賞味期限切れの菓子類を置食品店すらない小さな集落を潤すことはない。公共事業による乗数効果(経済効果)などけっして期待できないのだ。それでも公共事業以外の政策手段を知らない行政当局は、奄美振興を旗印にこれからも公共事業を予算化していくに違いない。その無駄と悲劇の循環を断ち切る手法を編みだすのが、この時代を生きる者の責任である。

地名は想像力を喚起するといったのは、谷川健一だったろ うか。花天、管鈍といった地名はなかなかいい響きである。さすがにここまでやってくると、加計呂麻も海を塞いではない。少々遠くの島といった距離感である。このあたりは旧西方村。昭和31年に古仁屋村、鎮西村、実久村と合併して瀬戸内町となるまで独立した自治体だったわけだ。西方村の人口は昭和30年の時点で3,778人だったという。現在の花天集落は27戸36人、管鈍35戸62人、西古見60戸83人。西方村に属していた他の集落を合わせてもおそらく合計で数百人だろうから、人口の減少は加計呂麻あたりとほとんど変わらないだろう。観光客も滅多にやってこないはずである。ダイビングやフィッシングにはたしかに適していそうだが、その他の観光資源といえば、年中行事ぐらいか。その年中行事の担い手も今やほとんどがウジー・ウバー(オジィ・オバァ)ばりに違いない。

瀬戸内町には山村留学制度というのがある。要するに都会の子供たちが親元を離れて瀬戸内の小中学校に通う制度だ。この地区に唯一残った管鈍小中学校にも本土を含む他の地域からの小中学生数人が“留学”しているという。山村留学制度を利用すると原則として里子に出すかたちなる。規定によれば一人当たり月7万円の経費が想定されており、うち3万円を町が負担するこ とになっている。たしかに子供たちはこの地を第二の故郷として記憶に刻み込むだろうが、地域の将来にとってどの程度の力にはなるかはまったくの未知数だ。 第一の故郷のために尽くすことも難しい時代に、大きな期待は禁物だろう。“村おこし”として考案された山村留学制度だろうが、おそらく地域にとってのメ リットは限りなく小さい。自然に恵まれたこの地域の魅力はわかるが、実の親の立場に立てば「里子」にはかなりの不安を感じてしまう。ちょっとした試練だ。

西古見までの道は左手に碧い豊かな海、右手に緑に覆われた崖。ところどころ幅員は広がるが、大部分はすれ違うのがやっとという道である。途中、大がかりな拡張工事も行われていたが、道沿いにある集落はすべて観光には縁がありそうもない。この道は未来を描けないと思う。

集落は人気がない。かつてカツオ漁が盛んだったというが、今やその面影もない。数百メートル沖には三つの小島からなる三連立神が鎮座する。穏やかな海の深い色ばかりが目立っている。石造りの低い壁がつづく一 角があったが、石の温もりはトタン屋根の放つ鈍い光には不似合いだ。集落のはずれの堤防の側面に、赤、緑、青、黄色のペンキで落書きともメッセージともつかぬ言葉が描かれていた。

尊尊加那志 月に願立てティ 太陽に願立てティ
神秘の郷西古見に幸運を マンコイマンコイ

南島慕情 奄美篇(3)

「マンコイ」は豊年祈願で有名な龍郷町の行事「平瀬マンカイ」の「マンカイ」と同じ言葉だ。幸せを招き入れるといった程度の意味だろう。この集落は、幸せを招き入れることができるのだろうか。それは誰にとっての幸せなのだろうか。そもそも幸 せ、ハッピネスとはいったい何なのだろう。

道はこの集落からさらに先の森を越えて、曽津高崎、車崎という二つの岬で行き止まりとなる。集落の西の端で車を停め、しばし歩き回る。ひょっとしたらケンムン(沖縄のキジムナーに相当する精霊)が住んでいるかもしれない、と思わせるようなたたずまいの森があった。が、この村の最後のウバーが天に召されたとき、寂しさのあまりこの森のケンムンも逃げだしてしまうに違いない。集落が壊滅すれば、森は守られたことになるのか。海は守られたことになるのか。いやいや、そうではないはずだ。人間あっての自然、自然あっての人間。ふだん、ぼくたちは人間が自然を傷つけると思っている。だが、事実はそうではない。自然と交感し、これを守るのも人間である。ケンムンも人なくし ては生きられない。そのことを忘れたくない。

 

あわせてどうぞ 南島慕情 奄美篇(1)
南島慕情 奄美篇(2)
南島慕情 奄美篇(4)

批評.COM  篠原章
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