【再掲】特集:復帰40年『沖縄の不都合な真実』

補助金要求の名人たちが作る「公務員の帝国」(『新潮45』2012年6月号)

本稿は『新潮45』2012年6月号(2012年5月18日発売)に掲載された復帰40年特集「沖縄の不都合な真実」所収の「補助金要求の名人たちが作る『公務員の帝国』」のオリジナル原稿です。雑誌掲載の記事とは細部において異なります。一部の記述や資料は、小著『沖縄の不都合な真実』(新潮新書/2015年1月)でも活用されています。この記事こそ小著の出発点となるものでした。

 

特集:復帰40年 『沖縄の不都合な真実』ー補助金要求の名人たちが作る「公務員の帝国」

 

shincho45_20120518

普天間基地にほど近い宜野湾市真栄原地区に「新町」(正式には真栄原社交街)と呼ばれる大規模な風俗地帯(旧特飲街)があった。2010年、その新町が40年余りの歴史に幕を降ろした。「環境浄化」の名の下、伊波洋一市長(当時)が、地元警察や地域住民の力をかりて、この「違法風俗」を壊滅させたのである。

「癒しの島」というイメージが強い沖縄だが、貧困やDVに苦しむ女性は他県に比して多い。夫から逃げだして生活に困っても働く場所もない。やむをえざる選択として、この街に身を沈めてきた女性たちは無数にいた。復帰前の話ではない。ほんの2年前までの話である。職場がある日突然奪われ、彼女たちはたちまち行き場を失った。その数は300人とも500人ともいわれている。宜野湾市内に住む知人はこう言い放った。

「移設問題で普天間基地の名が全国的に知れ渡り、市の恥部である新町を潰さないと誰かに足を掬われかねない、と考えた市の幹部がいたようだ。彼らは社会的弱者であるあの街の女性たちのことなんて考えたこともない」

こうした風俗がいいことだとはいわない。だが、40年以上にわたり、底辺の女性たちの逃げ場だった街をつぶす前にすべきことはなかったのだろうか?本土復帰以来40年間にわたって、総額10兆円超の沖縄振興資金が注ぎこまれてきたが、裏世界に追いこまれた彼女たちには何の恩恵もなかったかのようにみえる。

この3月には、「改正沖縄振興特別措置法(沖振法)案」が可決された。平成34年3月までの今後10年間も、沖縄県とその市町村は、国内で最も財政的に優遇された自治体としての地位を保証された。2012年度の振興予算総額は2,937億円。県予算の約半分、県・市町村を合算した予算規模の約4分の1に相当する。今度こそ彼女たちの未来は明るいものとなるのだろうか?

振興資金は「沖縄戦による人的・物的被害と長い米軍支配のおかげで本土より大幅に遅れた社会経済的基盤を整備する」という名目で配分されてきた政府の補助金である。が、本土では「基地負担の代償」が振興資金の根拠だと考えられている。「経済的遅れが根拠」などと説明しても、沖縄以外に住む国民の大半は納得しないだろう。「経済的な遅れ」のことをいったら、青森も高知も鹿児島も遅れているからだ。

沖縄県や政府が、「沖縄の遅れ」を証明するサンプルとしてよく持ち出すのが、全国一低い1人当たり県民所得、全国一高い失業率である。今年の2月に発表された1人当たり県民所得(2009年度)によれば、全国平均279万1千円に対して47都道府県中高知県が201万7千円で最下位、沖縄県は204万5千円で下から二番目である。所得水準については、沖縄だけがとくに低いとはいえない。全国平均5.1%の完全失業率は、平成2010年度で7.6%と沖縄がいちばん高いが、以下の順位をみると 、二番目の大阪 は6.9%、三番目の青森は6.5%。

沖縄の失業率は確かに高いが、大阪や青森にはない特別な補助金が配分される根拠として十分正当化できるほど高い水準といえるのだろうか?

これらの指標をみるかぎり、沖縄だけを特別扱いする根拠はみあたらない。じっくり観察してみると、本音と建前の使い分けがあることに気づいた。はっきりいえば欺瞞である。

「経済的遅れ」は建前であって本音ではない。本音は「基地負担をお金で補償してくれ」というところにある。にもかかわらず、沖縄が本音を認めないのは、「やっぱりお金の問題だったんだ」といわれるのを怖れてのことだ。

沖縄の政治家、ジャーナリズムおよび知識人の多くは、「お金と基地とは関係ない」といいながら、「沖縄は基地負担・基地被害に苦しんでいる」と強調する。

「基地負担は本土による沖縄の差別だ」とまでいう。これによって本土側の沖縄に対する贖罪意識は刺激される。「沖縄戦・米軍統治・基地負担と我々は長いこと沖縄を酷い目にあわせている」という意識である。たとえ「基地のおかげで沖縄は潤っている」と批判されても、建前は違うから心配ない。「補助金の根拠は基地ではなく経済的な遅れ。1945年以来傷つきつづけた沖縄の心はお金で癒されるようなものではない」といえばよい。本土の贖罪意識を背景に、沖縄が”癒されない”といえばいうほど補助金は増えていく。巧妙な集金メカニズムだ。

昨秋以降の推移を振り返れば、この集金メカニズムがいかにうまく機能してきたか一目瞭然である。

2011年度は仲井真弘多知事にとって正念場だった。復帰以来4回目となる沖縄振興計画(期間10年)の最終年度を迎えていたから、何もしなれば翌年度から沖縄の優遇的地位が危うくなる。そこで2011年新春から、新しい振興計画の必要性を訴え、3,000億円の振興資金を、使途に制約のない「一括交付金」として配分するよう政府に強く求めてきた。「復帰40年経っても沖縄が経済的に遅れているのは、政府が資金の使途を制約してきたからだ。使途に制約のない資金をあらたに配分せよ」という主張だった。

一方で、2010年に再選されてからの仲井真知事は、普天間基地移設問題で政府との対決姿勢を強め、「県外移設」を主張するようになった。ジャーナリズムも知事を支援する大論陣を張った。「沖縄差別」という厳しい表現が頻用されるようになったのも知事の再選以降のことだ。

復興財源の捻出に苦しむ政府は「沖縄に3,000億円は無理。せいぜい1,000億から1,500億程度」と繰り返したが、米軍再編計画と政府方針のズレなどが問題視されるようになると政府側は劣勢となり、9月末の24年度予算概算要求では2,437億円が計上されることになった。この時点で前年度予算2,301億を上回っていたからすでに成果はあげていたが、沖縄側はそれでも満足せず、その後も「全額一括交付金化」や「満額回答」を執拗に求めた。

幸いなことに、11月末に田中聡防衛省沖縄防衛局長(当時)のオフレコでの発言がすっぱ抜かれ、12月初頭に国会で一川保夫防衛相(当時)の沖縄に関する無知が追及されることによって、沖縄は労せずしてプレッシャーを強めることができた。ジャーナリズムも一斉に政府を叩いた。知事と政府幹部との密室での緊急会談を経て、12月20日にはたちまち500億円増の2,937億円という最終案が示された。一括交付金はうち1,500億円だが、総額で約3,000億円という「満額回答」である。その過程の12月16日、藤村修官房長官は知事に対して「よくやったといわれるようがんばっていきたい」とまで発言している。

「傷ついた沖縄の心はお金ではとても癒されないでしょうが、精一杯のことをさせていただきますから、なにとぞお許しください」と懇願するのと同じだ。沖縄は、こうして本音と建前の使い分けによる欺瞞的な手法により、巨額の資金を手にすることに成功した。

沖縄振興資金は復帰の年である1972年に778億円の枠が設定されたのが出発点である。その後、保守系の西銘順治知事時代(1978 – 90年)に2,000億円を超え、革新系の大田昌秀知事時代(1990 – 98年)に3,000億円の大台に乗った。大田知事の任期末には予算はなんと4,713億にのぼった(1998年)。

大田氏を破って当選した保守系の稲嶺恵一知事時代(1998 – 2006年)は再び3,000億円台となって漸減傾向となり、任期終盤には3,000億円を割った。減少傾向は次の仲井真知事時代も止まらなかったが、基地問題で反日的ともいえる強硬な姿勢を示した大田知事時代は基本的に右上がりだったという実績を倣ってか、政府に対して協調的な路線から対決的な路線に転換することによって、仲井真知事は失地回復に成功した。

「基地負担の代償」が沖縄の本音だとしても、ほんとうに基地負担・基地被害に苦しんでいるなら、誰も文句はいわないはずだが、基地負担は表向きの根拠となったことはない。それにはもうひとつの理由があった。負担・被害を前面に出すと、負担・被害のない市町村は補助金をもらえなくなってしまうからである。これもまた欺瞞である。

本土では「沖縄全体が基地に苦しんでいる」と思いこんでいる。ところが実情は違う。基地のある市町村は限られている。たとえば宮古・八重山地方に米軍基地はない(ただし、石垣市の沖合海上に二つの射爆場はある)。沖縄県の市町村数は41。これに対して何らかの米軍施設のある市町村は約半数の21。しかも、この21の市町村のうち、最大の人口を擁する那覇市は、騒音や犯罪とは無縁である。石垣市にも被害はない。那覇市民も石垣市民も、東京都民や大阪府民と同様、マスコミを通じて初めて基地被害を知るのである。はっきりした基地被害があるのは、本島中部の嘉手納町、沖縄市、宜野湾市、うるま市、北中城村、北谷町、本島北部の名護市、金武町、宜野座村、東村などに限られている。さらに、名護市や東村などのように相対的に広い行政区域をもつ自治体の場合、基地被害が明白な地域はごく一部である。

もし、基地負担を根拠に補助金を要求するとなると、負担の度合いを客観的な基準で計測しなければならない。そうなれば、現在一部の特別交付金(基地交付金=米軍施設からの影響を直接受ける自治体に配分)の算定基礎となっている「基地面積」「勤務する米軍人軍属の実数」などが基準となり、基地負担のない市町村や基地負担の少ない市町村には補助金が配分されなくなる。沖縄はそうした事態を怖れているのだ。

だからこそ、「沖縄全体が基地に苦しんでいる」というイメージが必要になる。本土側には贖罪意識が土壌としてあるから、そのイメージは簡単に浸透する。浸透したイメージを後ろ盾に全県的な振興資金が正当化される。だが、それはイメージであって真実の姿ではない。もちろん振興資金の根拠でもない。根拠はあくまで「経済的遅れ」なのだ。そんな矛盾と欺瞞に満ちた状態がもう何十年も続いている。

基地負担が沖縄に偏っていることは明白だ。一部では酷い基地被害もある。そのこと自体は否定できない。だが、知事を筆頭とする政治家、ジャーナリズム、労組、平和団体の活動家、知識人たちが半ば一丸となって展開する「基地負担軽減」「米軍基地撤去」のための運動が、「お金ではなく心の問題だ」といいながら、補助金獲得を支えている実態を直視することから始めなければ、問題の解決はけっして前進をみない。

いうまでもなく安保の問題はある。日米安保条約の締結から今日にいたるまで、安全保障上日本はアメリカの一部だった。日本独自の安保政策を真剣に考える動機もなければ、その必要もなかった。沖縄に米軍基地が集中している現状も、日本の敗戦という歴史とアメリカ側の都合が絡みあった結果である。沖縄からの米軍基地の撤去がリアリティを持つためには、日本独自の安全保障政策を確立するほかない。そこには憲法の改正問題も当然含まれてくる。米国側の事情で、基地が一方的に撤去されることもありうるし、その可能性も低くはない。が、この場合も、日本は独自の安全保障政策を求められる。いずれにせよ、日本独自の安全保障政策を議論することが出発点だ。

以上のように指摘すれば、沖縄からは次のような反論が返ってくるだろう。「基地に苦しみ、平和を希求する沖縄の心をおまえはまるでわかっていない!」基地がなければそれに越したことはない。平和の永続も望ましいに決まっている。そのための努力を重ねることも必要だ。だが、沖縄の問題はそれがすべてなのか?基地さえなくなれば県民はみな幸福になるのか?新町を追われた女性たちも救われるのか?

そもそも米軍基地がなくなれば、補助金の裏根拠も消滅し、たちまち沖縄は窮するだろう。基地そのものへの経済的な依存度は県民所得の5%程度だが、県民所得の財政部門への依存度は約40%にも達している(全国平均は約24%)。だからこそ、「経済的自立」が当面の課題になっているわけだが、「自立」を名目に政府から引き出した振興資金に依存する構造になってしまっている。振興資金がなければ沖縄は生きられないのだ。

驚いたことに「政府が振興資金をケチるから沖縄は自立できない」という主張すらある。まだまだ足りないということだ。たとえば、2010年12月6日付『沖縄タイムス』は、元沖縄総合事務局調整官の宮田裕氏による試算を根拠に、「沖縄関係予算は、復帰後39年間の国の一般会計歳出累計の0.6%で、地方交付税の算定対象である土地面積比(全国の0.6%)や人口比(同1%)を下回っている」といった議論を展開し、宮田氏の発言を引用するかたちで「復帰を契機にしたその後の沖縄振興策でも特段の財政支援があった形跡は見られず、『沖縄を優遇してきた』とする一部の政府関係者の論理は当たらない」と伝えている。ところがこの試算には、特別枠以外で沖縄に配分された地方交付税交付金や国庫支出金、防衛関係予算などはまったく含まれていない。分母にあたる国の予算からも、たんなる借金の返済である国債費などが差し引かれていない。要するに信頼に足る試算ではないということだ。「もっと補助金をよこせ」とばかり、怪しげな試算をいかにも事実であるかのように報道するジャーナリズムの責任は大きい。

それ以上に問題なのは「もっと補助金をよこせ」という論調が、沖縄のジャーナリズムでは当たり前になっているという現状だろう。

沖縄開発庁予算はピーク時の1998年度で4,713億円だった。11年度の沖縄担当部局予算はその半分にも満たない。(中略)全国には、政府が沖縄に特別な予算措置を講じているというイメージが流布しているが、いかに実態と懸け離れているか、知らしめる必要がある。政府の「特別」な予算措置による振興策の効果が低い理由もうなずける。県は今回の予算措置に惑わされることなく、「沖縄振興一括交付金」構想を維持し、真の自主性獲得を目指してもらいたい
(2010年12月27日付『琉球新報』論説)

この記事は、政府は「沖縄は特別扱いだ」といいながら、数字を誤魔化すばかりで少しも「特別扱い」してくれない、沖縄関係の補助金は増えていないと怒っている。だが、この記者は「一括交付金」も補助金だということを忘れている。結びのことばは、「補助金こそが自立への道」といっているのに等しい。

沖縄以外の、たとえば秋田や高知の新聞が、「補助金こそが自立への道」などとはいわないだろう。補助金を増やすことではなく減らすことこそ自立への道だと知っているからだ。それは常識である。ところが、沖縄では非常識な論調が罷り通るほど、補助金に対する感覚が麻痺している。「もらうことは恥」ならぬ「もらうことは善」という風土が醸成されてしまっているのだ。

かつて沖縄学の泰斗である伊波普猷は次のように述べた。

沖縄人の最大欠点は恩を忘れ易いということである。(中略)「食を与ふるものは我が主也」(ものくゐすどわーおしゅう)という俚諺もこういう所から来たのであろう。沖縄人は生存せんがためには、いやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういう存在こそは悲惨なる存在というべきものであろう。このご都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでいる
(「沖縄人の最大欠点」1909年2月21日付『沖縄新聞』)

伊波のいう「娼妓主義」「ご都合主義」を、戦後沖縄最大のカリスマ政治家・瀬長亀次郎は「乞食根性」と言い換えたが、「与える者は主人として崇めるが、与えない者からは去っていく」という沖縄的な気質を表したものだ。少なくとも補助金への姿勢をみるかぎり、今もこの気質は「生きている」と考えざるをえない。与えられてあたりまえ、与えられなければ、あの手この手で求めつづけるという現代版奴隷根性だ。

伊波の指摘するように、この気質が1609年の薩摩侵攻をきかっけに生まれ、長い従属国としての歴史のなかで骨の髄まで身についてしまったものだという分析は説得力があるが、現代沖縄が今なお薩摩支配時代の気質に左右されているとすれば、なんとも情けない話である。「奴隷根性」の克服なくして沖縄の進歩はありえない。

現実には振興資金によって沖縄の経済的・社会的基盤が整備されてきたこともたしかだ。かつては主要経済指標・社会指標、とくに「県民1人あたり」や「1単位あたり」を問う指標のほとんどで万年最下位だった沖縄だが、復帰後40年のあいだに順位が上昇した指標も多い。だが、最も注目すべきは、先にも触れた所得と雇用に関する指標である。所得水準は依然として低く、失業率は復帰時よりも今のほうが高い。ところが、県当局も政府も、こうした事態の背景を本格的に分析したことはない。検証を欠いたままさらなる資金が投入されているというのが現実だ。

県当局も政府もやらないから、沖縄の所得分配構造を独自に分析してみた。驚くべき結果だった。

沖縄県が日本でいちばん所得格差が大きいことはよく知られている(二番目は大阪府)。相対的貧困を示す二人以上世帯の年間収入ジニ係数は0.339(全国平均0.311)、同じく総資産ジニ係数は0.588(全国平均0.489)。数値だけでは 、なかなかピンと来ないが、簡単にいえば、本土並みの所得と資産を享受する少数者と、本土以下の所得と資産を甘受する多数者がいるという事実を表している。

大企業のない沖縄で、本土並みの所得を得ているのはおもに公務員だ。以前から夫婦そろって公務員の世帯は、沖縄では富裕層だという実感はあったが、この点に踏み込んで、雇用者報酬を分析してみた。雇用者報酬に占める公的機関を源泉とした報酬の比率は21.8%。これは全国一の水準だ。このなかには地方公務員人件費、自衛隊員以外の国家公務員給与(推計値)、国が負担する米軍関係雇用者の給与(推計値)が含まれる。沖縄の数値は全国平均10.1%の2倍を軽く超える。逆に、県民総所得に占める純民間所得(公務員給与等を除いた所得で自営業者や経営者の所得も含む)の比率は53.7%(全国平均68.7%)と、こちらは全国一低い水準だ。以上の数値から沖縄は突出した公務員主導型経済=公務員天国であると推定できる(数値は平成20年度)。

振興資金を原資とする公共事業が盛んであるという点を捉えて、「沖縄は土建屋型経済だ」と指摘されることも多い。が、財政難に伴って、公共事業費は激減しており、建設業が県民所得に占める割合も今や9%に達しない。沖縄はもはや土建屋型経済ではなく、公務員天国=公務員主導型経済であるとみてよい。日本でいちばんギリシャに近い地域だといったほうが的確かもしれない。

これに関連してもうひとつの重要な事実も指摘しておきたい。沖縄では誰でも知っていることだが、基地反対運動の主体も、民間ではなく公務員の労働組合である。事実、沖縄の基地反対運動の中核をなす沖縄平和運動センターは、官公労系館にある。一部の公務員が「県民の総意」の名の下に基地反対運動を展開しているというのが実態である。彼らこそが、先に触れた補助金集金メカニズムを動かす最大の利害集団なのだ。

「奴隷根性」を土壌とした沖縄の「欺瞞の構造」。その主役を演ずる公務員系労組が、自分たちの職域・職能・職権、そしてなによりも給与・待遇に深く関わる年間予算を維持・増額するために、「過剰な基地負担」を声高に訴える運動を展開し、その声に後押しされるかたちで政治家が政府との交渉を通じて巨額の資金を引き出す、という構図が浮かび上がる。ジャーナリズムは一連の過程を強力にバックアップする。これによって公務員主導型の経済体制が守られる、あるいは強化されるという仕組みだ。振興資金が沖縄においてどう配分されているかは推して知るべし、社会の底辺で苦しむ女性たちが救われるわけがない。

公務員天国というのは沖縄に伝統的な体制である。琉球王朝時代の人口に対する士族比率も本土のそれの2倍の10%だったといわれている。王朝時代は士族と薩摩藩を支えるために民が働いたが、現代では公務員を支えるために民が働いている。これでは「格差社会」というより「階級社会」だ。

沖縄問題の核心は「奴隷根性」と「階級社会」にある。これらの問題に手をつけないかぎり、沖縄県民も日本国民もけっして救われることはないのである。

 

※執筆から丸3年経ちました。当時とは状況が変わった点も、全く変わっていない点もありますが、手を加えずそのまま掲載しました。

2015年6月1日 篠原章

批評.COM  サイト管理人
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket