東京〜バンコク〜サムイ〜東京〜沖縄〜東京〜沖縄〜東京(2)

東京〜バンコク〜サムイ〜東京〜沖縄〜東京〜沖縄〜東京(1)からつづき

東京~沖縄~東京~沖縄~東京

タイから帰ると想像を絶する忙しさが待ちかまえていた。やはり東京では旅人でいられない。たまった原稿や翻訳もあるにはあったが、そうした創造的忙しさとは無縁の、半ば空虚な忙しさであった。

勤務先大学の入試は、2月1日・2日を皮切りに、8日からピークに達するのであったが、受験生が激減していたのである。大学なんて食い扶持にすぎない、いかに楽に大学教師を勤めあげるかが人生最大の課題だったのだが、もうそんな悠長なことはいっていられない。怠け者が怠けられない時代の到来である。2週間程度で「再建プラン」を提示することを半ば義務づけられ、先輩教授と連日プランの作成に追われた。
だが、こんな政治的なことばかりに携わっているとバカになりそう、という不安が頭のなかで膨らんでくる。俺の沖縄はどうなる。俺の音楽はどうなる。俺の思想はどうなる。なにも変わりはしないのではないか。大学という制度そのものが問われているこの時代に大学にしがみつく正当な理由などあるのか。えーい、とにかく予定どおり沖縄へ行ってしまえ。後は野となれだ。

決意したはいいが、先輩教授が低く太い声でいう。「沖縄に行くのはいいが、20日の会議には必ず出席してくれ。君がいないとこのプランは成り立たない」

泣く泣く予定を変更して、「18日 午前便にて東京~那覇」「19日 最終便にて那覇~東京」「20日 最終便にて東京~那覇」という変則スケジュールに組み直す。もちろん、費用は自分持ちである。24日に沖縄から帰京する予定だが、その直後に大学の出張が入って、26日にはまた熊本に行かねばならぬ。「金になる」旅ならまだいいんだけど持ち出しばかりでねえ、と愚痴のひとつもいいたくなった。夏目房之介さんいわく「ロケで沖縄にきていたタレントが‘笑っていいとも出演のために一日だけ帰京するって感じで笑えるねえ」。トホホである。

沖縄通いも命がけ

2月18日午後1時すぎ、日航機は那覇空港への着陸態勢を整えた。画面に広がる那覇空港の映像。が、いつもと違うのは左へ20度ほど映像が傾いていること。げっ、このまま着陸したら失敗する!数日前の中華航空の事故が脳裏をよぎる。滑走路はどんどん近づいてくるのだが、傾きはいっこうに修正されない。機内に無言の緊張が張りつめる。もう駄目かと目をつぶったとたん、搭乗機は着地すれすれで急上昇、着陸をやり直すことと相成った。上空をしばらく旋回した後、今度は無事着陸。いやあ、こうなると命がけですよ。沖縄通いもね。

今回の沖縄の旅はまず学生の引率が目的。費用のほとんどは自己負担だが、学生の希望とあっては、引率しないわけにいかぬ。今や学生は顧客なんである。同僚からは「過剰サービス」といわれることもあるけどね。
学生たちの乗る日航機は、午後3時の到着だからまだ1時間ほどある。先に那覇市内のホテルにチェックインすることにして、ホテルSに向かう。最近はこのホテルがお気に入り。シングル・朝食付き税込み6千円程度だが、那覇市内の他のビジネスホテルより部屋は広いし清潔。従業員もなかなか親切。朝のコーヒーは百円(洋食を頼めばただだけど)。それも美味しい。なんたってタイのホテルよりも安いんだから。

3時過ぎに学生と合流、レンタカーで国際通り北端の崇元寺にある彼らのホテルを経由して公設市場へ。市場とその周辺をぶらついた後、市場2階の食堂で軽く食事。壺屋あたりを散策していると、雨が降りだしたので、ひめゆり通りのピザ・ハウス・ジュニアでティー・タイム。実はこの日の午前中、戦後沖縄では5指に入るほどの猛烈な雷雨が那覇市を襲ったらしい。道路が川となってあちこちで交通が寸断されたというが、国際通り周辺はそうでもなかった。やけに大きな水たまりがあるなとは思ったけど。学生たちは、東京を出るときは4度、沖縄に着いたら21度という気温差だけでじゅうぶんカルチャー・ショックだったらしいが、シーサー、石敢當、コンクリート住宅の町並みなど にも感心を寄せる。空気感の違いも印象的だという。ま、これだけで引率した甲斐があったというものである。

女子学生の一人が沖縄出身で、東風平(こちんだ)や豊見城(とみぐすく)にいる親戚にお土産をもっていくというから、彼女の帰りをまって波の上のステーキ・ハウス、ステーツサイズで遅い夕食。ステーキの安さとボリュームに驚いたらしいが、ステーキハウスのつきもののチャーメンなんかを注文してもっと驚かせればよかった。要するに沖縄そばを使った五目汁そばなんだけど。

沖縄から東京へ

19日はゆっくり目に起きて朝食。学生と別々の宿だと少しばかり気が楽。携帯に連絡が入り国際通り南端の県庁前で待ち合わせ。国道330号を北上し、アメリカらしい雰囲気の残るショッピング・センター、プラザハウスで休憩。A&Wのルートビアを飲ませたら、学生たちの嗜好は真っ二つに分かれた。
カデナ基地を見おろす丘で、軍用機の離発着を見物。イラク空爆問題が解決する前だったから、基地はいつもより忙しそうな印象。アラスカやグアムから次々に戦闘機が飛来する。沖縄はいつも国際情勢の変化から逃れられない。

国道58号を本部やんばる(山原)へ向かう。ぼくの愛してやまないフクギに囲まれた備瀬の集落に着く頃に小雨が降り出す。岬の突端で景色を眺めているあいだに、とんでもない大風・大雨となって、わずか1~2分のあいだに全員びしょぬれ。パンツまでびしょびしょ。洋服を乾かすためにヒーターをいれながらのドライブとなる。さっきまでクーラーだったのに。

高速で那覇にもどって、学生たちは入浴と着替え。ぼくのほうはホテルをチェックアウト済みだったので車で待機。ステーキハウスで夕食という意見が出て、昨日に続いて波の上のステーキ屋街へ。リクエストがあって、今度は老舗・ジャッキー・ステーキハウスを選ぶ。ステーキ屋では400円のCランチという手もあるし、ジャッキーなら味噌汁だってある(スープとしての味噌汁ではなく、正餐としての味噌汁です。念のため)と説諭したら、沖縄の食がベストフィットの物好き学生Sが「味噌汁とタコス」というあまりにも ディープな組み合わせでディナーに臨んでしまった。本人は満足していたが、ちょっとやりすぎですねえ。さすがに22、23歳だと連日のステーキも苦にならないとみえて400グラムのニューヨークをペロリと平らげる奴も続出。若いって素晴らしい。

気がつくと時計は8時を回っていた。食事中の連中をおいて、ぼくだけタクシーで空港へ。8時50分の最終便にて東京へ戻らねばならぬ。国内線第1ターミナルにタクシーをのりつけるが、最終便はJTA、つまり旧南西航空の羽田行き、出発は国内線第2ターミナル(離島専用)だと警備員に教えられて、小雨そぼ降るなかをとぼとぼと歩くこと7分。夜も更けたこのぐらいの時間となると離島ターミナルは風情たっぷり。「涙の連絡船」の世界、サムイの空港よりもはるかにわびしい。待合い室のあちこちに別れが潜んでいそうだ。 誰も泣いているわけじゃないのだが、雰囲気だけでもらい泣きしそう。

コバルト・ブルーといえば聴こえはいいが、色に深みのないJTAのスチュワーデスのユニフォーム、なんだか中国南方航空みたい(乗ったことないけど)。一言でいって、東京のダサイ沖縄料理屋の壁飾りみたいですね。「照屋」とか「我那覇」といった彼女たちのネームプレートが泣かせましたが。

羽田着11時過ぎ。かなり疲れてしまって、地下のモノ レール乗り場まで足が向かない。到着ロビーを出たところに待っていた新宿行きのリムジン・バスについついのりこんで家に着いたのは12時45分。疲れたと 愚痴をこぼすまもなく、翌日の会議資料を作成して、眠ったのは結局明け方。こういう旅は二度としたくない。

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批評.COM  篠原章
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