日本ロック通史 (1956 年-1990 年代)WEB版

Brief History of Japanese Rock Music

小著『J‐ROCKベスト123』(講談社文庫・1996年6月)所収。
小著収録「日本ロック通史」のWEB用簡略版。小著収録のテキストと若干異なります。無断転載はご遠慮ください。

 

1.「進駐軍ポップ」からロカビリーへ 1956-1959年

第二次世界大戦後における日本のポップ・ミュージックの出発点は「進駐軍ポップ」であった。1945年から1950年代前半にかけて、米軍がもちこんだポップの影響を受け、ブルース、ブギウギ、マンボなどの要素が流行歌のなかに入り込み、ハワイアン、カントリー&ウエスタン(C&W)、ジャズなどがちょっとしたブームになった。こうしたポップのうち、“日本ロック”の生い立ちにもっとも深い関係をもったのはC&Wであった。

50年代半ばのアメリカでは、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒット(55年)、翌56年にはプレスリーが登場するなど、ロックンロール/ロカビリーの時代を迎えていた。

これを受けて、折からのC&Wブームですでに人気のあった小坂一也がプレスリー「ハートブレイク・ホテル」のカバー・ヒット(56年6月)を放ち、時代は一気にロカビリーへと突入した。プレスリーのカバーで若者を熱狂させる小坂を見て、他のC&Wバンドも続々とロカビリー化、58年になると、平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の“ロカビリー三人男”がそろってレコード・デビュー、2月には渡辺プロの肝煎りで、ロカビリーの祭典「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」が開かれ、ロカビリー・ブームは本格化した。

和製ロカビリアンは、当初、本場のロックンロール/ロカビリーのカバーに専心したが、59年になると状況は一変する。カバー・ヒットは後退し、オリジナル・ヒットが台頭したのである。オリジナル曲の先駆け「星はなんでも知っている」(平尾昌章/58年7月)が15万枚もの売上げを記録したことがその原因だった。これ以降、大半のロカビリアンが歌謡曲化し、ブームは急速に冷めていくのであった。

2.翻訳ティーン・ポップの興隆 1960 – 1963年

楽曲のオリジナル化・歌謡曲化によってブームとしてのロカビリーは消滅したが、日本のポップ全体のアメリカ指向に変化はなかった。アメリカを後追いするかのように「ロックンロールの終焉↓ロカビリーのソフト化」という道をたどり、60年代に入ると日本でも白人中産階級的なポップがもてはやされるようになった。

この時代の日本のポップを特徴づけるのは、俗に言う「翻訳ポップス」である。新しい感覚をもった訳詞家がつぎつぎに登場、彼らが描いた一種の“アメリカン・ドリーム”を、戦後世代の若々しいシンガーたちが挑発的に歌い、全国のティーンズがこれに夢中になる、という新たなパターンが生まれたのであった。

翻訳ポップス時代の幕開けは、ロカビリー三人男がニール・セダカ恋の片道切符」をそろってカバーした60年2月に遡るが、59年6月のフジTV「ザ・ヒット・パレード」の放送開始も重要なポイントである。テレビという“ニュー・メディア”ならではのこの番組は、翻訳ポップスの普及に大きく貢献したばかりか、ザ・ピーナッツなどのビッグ・スターも育て、後の洋楽紹介番組の原型ともなった。

この時期に登場または活躍した男性アイドルには、ダニー飯田とパラダイス・キング(ボーカルは坂本九)、ブルー・コメッツ(ボーカルは鹿内孝)、スリー・ファンキーズ、飯田久彦、竹田公彦、佐々木功、ほりまさゆきなど、女性アイドルには、ピーナッツのほか、森山加代子、田代みどり、弘田三枝子、中尾ミエ、ベニ・シスターズ、青山ミチ、梅木マリ、安村昌子、渡辺トモコなどがいる。

翻訳ティーン・ポップ期は、62年のツイスト・ブームでその頂点を迎える。日本でのブームはチャビー・チェッカー「ザ・ツイスト」のカバーに始まり、藤木孝などのツイスト名人を生みだしつつ小林旭や美空ひばりをも巻き込んで、62年中にはしぼんでいく。ツイスト・ブームが終わる頃には、アメリカン・ドリームの日本的受容スタイルの一つだったはずの翻訳ティーン・ポップは、ロカビリーとおなじくオリジナル化を通じて霧散してしまう。

なお、翻訳ティーン・ポップ末期の63年に坂本九「上を向いて歩こう」が、英題「SUKIYAKI」として全米ナンバー1に輝いている。この成功はあくまで偶然の産物だったが、これ以降、日本のポップ界はアメリカ市場への参入を繰り返し試みるようになった。

3.エレキ・インスト・ロックの波 1964-1965年

大筋ではアメリカのポップ・シーンをなぞっていた日本の“ロック先史時代”だったが、東京オリンピック開催の64年を境に独自の方向性を示す。この年、アメリカがビートルズ中心の展開となっていくのに対して、日本はベンチャーズに代表されるエレキ・インスト・ロック中心の展開となっていくのであった。

まずアメリカの無名インスト・バンド、アストロノウツが“サーフィン・ブーム”に火をつけた。ベンチャーズを彷彿させる彼らの「太陽の彼方に」が評判となり、この曲に日本語詞を載せた藤本好一(ブルー・ジーンズ)のカバーが大ヒット、さらに橋幸夫の和製サーフィン「恋をするなら」の爆発的なヒットによって、日本のサーフィン・ブームは頂点に達した。

こうしたなか、アストロノウツの先輩格であるベンチャーズの人気も沸騰、64年から65年にかけて、彼らは「パイプライン」「キャラバン」などのヒットを立て続けに放ち、日本の若者たちのあいだに一大エレキ・ブームを巻き起こした。彼らに触発されて、寺内タケシのブルー・ジーンズや東宝の若手俳優・加山雄三が率いるランチャーズを筆頭に、ベンチャーズ・スタイルのバンドが続々と登場した。

東京オリンピックに合わせて急速に普及したテレビもこの傾向を加速した。フジTV「勝ち抜きエレキ合戦」(65年6月放映開始)をきっかけに各局はバンド・コンテスト番組をこぞって放映、日本じゅうのエレキ少年が番組出場をめざして秘かに腕を磨いた。そのなかに、のちに日本のロックを背負うことになる人材が多数含まれていたことはいうまでもない。

4.ビートルズの落とし子・GS 1966-1968年

すでにエレキ・インスト期に電気楽器はアマチュア・レベルまで広く普及、こうした楽器を使った小編成のバンドも珍しくなくなっていた。そこへ来日(66年6月28日~7月3日)をきっかけとするビートルズ人気の異常なまでの盛り上がりである。ビートルズに熱狂する少女が急増し、これをとりあげるマスコミ報道も過熱、彼らの音楽や長髪の是非をめぐる議論、ビートルズを通じた少女たちの不良化という議論まで起こった。ビートルズはまさに社会現象として語られたのである。このような状況下、プロ・アマを問わず日本のエレキ小僧たちが、ベンチャーズからビートルズなどリヴァプール系サウンドの模倣に走ったのは、まったく自然のなりゆきであった。グループ・サウンズ(GS)時代の始まりである。

先陣を切ったのはスパイダースとブルー・コメッツである。両者とも本来ロカビリー/C&W系のバンドだったが、スパイダースは全曲オリジナルの『ザ・スパイダース・ファースト・アルバム』(66年4月)で完全にリヴァプール化、ビートルズ来日に先だってGSの原型を確立し、ブルコメは、リヴァプールの影響を受けた大ヒット「青い瞳」(66年7月)以降、独自のGSサウンドを定着させた。

スパイダースに象徴されるように、GSがリヴァプールに触発されて生まれたことはたしかだが、そのヒット曲の系譜は、ブルコメに由来する“歌う哀愁のエレキ・バンド”という道を歩み、リヴァプール・サウンドとは似て非なる世界が描かれたのであった。

このふたつのバンドをGSの出発点として、最盛期の67年~68年には100近いバンドがレコード・ビジネスの世界で活躍した。GSという呼称が一般化したのもこの頃だが、その代名詞のような扱いを受けたジュリー(沢田研二)を擁するタイガースのデビューも六七年二月だった。六七年五月発売の「シーサイド・バウンド」で一気にスターダムにのし上がると、以後「モナリザの微笑」「君だけに愛を」「シー・シー・シー」など立て続けに大ヒットを放ち、その人気は他のGSを圧倒した。

タイガースをビートルズにたとえれば、ローリング・ストーンズはショーケン(萩原健一)を擁するテンプターズだった。埼玉県大宮出身の彼らは、アマチュア時代からストーンズやビートルズのカバーが得意だったが、68年3月の「神様お願い」でブレイク、同年6月の「エメラルドの伝説」でその人気を確立した。

GS最盛期は、このふたつのバンドを頂点に多数のグループが人気を競い合った。モッズ系のカーナビーツ、失神パフォーマンスのオックス、フォーク・ロック系のワイルド・ワンズのほか、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、ゴールデン・カップス、モップス、パープル・シャドウズ、リンド&リンダーズ、ダイナマイツ、フィンガーズ、フラワーズなどを主要なGSとして挙げることができる。

華々しかったGSブームも68年暮れから六九年にかけて急速にしぼんでいく。ブームの仕掛人・ブルコメが、六八年十一月発売の「さよならのあとで」のヒットによってGSサウンドに訣別、以後ほとんどのGSは歌謡曲化した。この頃には英米のニュー・ロックも入ってきていたが、既存の芸能秩序のなかに組み込まれていたGSには、もはや体制撹乱的なニュー・ロックという潮流を消化する力はなく、歌謡曲化に活路を見いだすほかなかったのである。
こうして、ロカビリーに始まる日本の“ロック先史時代”は、GSの歌謡曲化とともに終わりを告げるのであった

5.日本ロックの誕生 1968-1972年

60年代末のニュー・ロックの時代に入ると、英米ではたんなる8ビートの循環コードを基本とするポップはもはや“ロック”と呼ばなくなっていた。世界的な反体制運動に呼応するように、既成のポップや芸能の秩序を解体する意思を備えていることが、“ロック”の特性となった。ロックは、その精神性や思想性、芸術性を問われるようになったのだ。だが、日本のポップには、このような新しい潮流を消化するだけの技量も伝統もなければ、PAシステムなど高度化し巨大化するロックのツールを利用するだけの資金的蓄積もなかった。

こうした状況を打破したのが、68年に「帰って来た酔っぱらい」の大ヒットを放ったフォーク・クルセダーズと、『ジャックスの世界』で衝撃的に出現したジャックスだった。フォークのフィールドに片足を踏み入れながらも、彼らにはニュー・ロックに匹敵する斬新さとオリジナリティが宿っていた。彼らが日本で果たした役割は、ニュー・ロックが英米で果たした役割とほぼおなじものだったのである。ニュー・ロックを消化しきれなかった日本のポップは、フォークルとジャックスを通じて、はじめてロック的なものを身につけたのであった。

70~80年代にかけての“日本のロック”に直接的につながるという意味で、フォークル、そしてジャックスこそが最初の“日本のロック”だった。ロカビリーも、60年代アメリカン・ポップスも、エレキ・インストも、GSも、それぞれが日本のロックに遺産を残した。が、現在の日本に“ロック・シーン”あるいは“ロック的シーン”があるとすれば、それはフォークルとジャックスの先駆的な活躍を抜きには生まれなかったものだ。したがって、フォークルとジャックスが活躍した1968年こそ日本の「ロック元年」なのである。

彼らはいわゆるアングラ・アンダーグラウンド・シーンから登場したが、このシーンは、既存のポップ・カルチャーのシステムを拒んだところに成立していた。その支持層はGSアイドルに熱狂したティーンズではなく、大学生など20歳前後が中心で、反体制運動の前線に立つ世代と一致していた。音楽的には旧体制・GSへの反動もあり、彼らはニュー・ロックよりも知的でサブカルチャー的な印象の強い、ボブ・ディランなどのニュー・フォークを好んだため、このシーンで活躍したミュージシャンの多くが“フォーク”シンガーだった。アングラ・シーンの象徴的存在だった日本最古のインディー・レーベル“URC”を拠点に、高石友也・岡林信康などが「反戦フォーク」「関西フォーク」とも呼ばれたアングラ・フォークの旗手として活躍し、日本のウッドストックに例えられる全日本フォーク・ジャンボリー(69~71年)などの時代的なイベントを先導した。もっとも、日本ロックにこうしたフォークの旗手たちが残したものは意外なほど少ない。

70年には、このアングラ・シーンを足場に、今もなお日本のロックに強い影響力をもちつづけている細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂の四人から成る“はっぴいえんど”がデビュー、フォークルとジャックスが先鞭をつけた「日本のロック」の進むべき道を示した。フォークルとジャックスが日本ロックの無意識の創始者とすれば、『はっぴいえんど』と『風街ろまん』の二枚のアルバムによって「日本語ロック」を確立したはっぴいえんどは、日本ロックの意識的な創始者といえるかもしれない。

アングラ・シーンからは、このほか遠藤賢司、高田渡、加川良、三上寛、あがた森魚、友部正人、はちみつぱい(後のムーンライダーズ)など、その後の日本ロック/ポップに影響を与えた個性的なミュージシャンも登場、さらにこのシーンの周辺から、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるなども登場している。

こうしたアングラ・シーン以外からも、後の日本ロックを支えるグループやミュージシャンが続々と現れた。天才ギタリスト・竹田和夫のブルース・クリエイション、GS系ながらニュー・ロックに精通していたゴールデン・カップスやスピード・グルー&シンキ、七〇年代始めに日本最高のギタリストといわれた成毛滋、元ジャックスのつのだひろ、日本のロック・バンドとして初の本格的な海外遠征も果たしたフラワー・トラベリン・バンド、パンク以前のパンクともいえる村八分、政治状況をそっくり背負い込んだかのような頭脳警察、元フォークルの加藤和彦が結成した伝説のバンド、サディスティック・ミカ・バンド、矢沢永吉のキャロル、桑名正博のファニー・カンパニー・・・。七二年頃までに、今も日本ロックを導くビッグ・ネームがほぼ出そろったのであった。

このように、黎明期にして多様な指向性を示していた日本ロックだったが、フォークルや岡林などアングラ系の一部を除いて、ビジネス的な成功とはほど多かった。“ロック”がビジネスとして成立するためにはつぎの時代を待たなければならなかったのである。

6.ロックの多様化とニュー・ミュージック 1973-1978年

GSとおなじように「ニュー・ミュージック」も日本ロック史に固有のジャンル分けである。ただし、その“定義”はGSにまして曖昧だ。しかしながら、70年代における日本のロック/ポップの潮流全体を俯瞰すれば、およそよつぎのような性格づけが可能だろう。“ニュー・ミュージック”とは、移入文化としてのロックを音楽的なベースとしながら、日本固有の「現在」を表現しうる新しいポップの体系を構築しようとする試み全体であると。言い換えれば、ニュー・ミュージックとは、移入音楽・ロックをいかなる形で受け入れるかという試行錯誤のプロセス全体だったのである。

ニュー・ミュージック期ははっぴいえんどの解散した73年に始まり、YMOが結成され、SASがデビューした78年に終わる。この六年間は、日本が第一次石油ショックを克服して変動相場制下で成長を継続し、第二次オイル・ショックを主因とした安定成長に移行するまでの時期と一致する。すなわちニュー・ミュージックは、高度成長末期を象徴するポップであり、モノの価値が相対化され「絶対」という基準が遠ざかる時期に開花したポップだった。

まず、71~72年にかけての「日本語ロック論争」がニュー・ミュージック期の前奏曲であった。これは、表面的にははっぴいえんどの評価をきっかけとする「日本語ロックか英語ロックか」をテーマに行われた論争だったが、実は、移入文化・ロックを絶対的な基準として受け入れるか、ロックを日本という文脈で相対的に評価しながら受け入れるか、というロックの評価とその受入れ方をめぐる論争だったのである。アングラ“フォーク”シーンで誕生した日本ロックにとっては、不可避の宿命的な論争だったといえよう。

「相対ロック派」を先導したのははっぴいえんどだ。彼らは73年の解散後も、ロックを神棚に載せることなく、幅広いポップのエッセンスを吸収しながら、それを日本という風土の中でいかに具体化するかを追求し、新しいニュアンスのポップの体系を問い続けていった。はっぴいえんどからはキャラメル・ママ/ティン・パン・アレー(細野晴臣)とナイアガラ(大瀧詠一)という二つの大きな潮流が生まれたが、この二つの潮流からは多数の個性的なアーティストが巣立っている。たとえば荒井由実、山下達郎(シュガー・ベイブ)、吉田美奈子、あがた森魚、矢野顕子、ムーンライダーズ等々である。彼らはいずれもロックの相対化を通じて独自の世界を構築していった。

しかしこの時期の「絶対ロック派」の活動が相対ロック派に及ぼした影響も無視できない。たとえば絶対ロック派の代表格・内田裕也プロデュースによる「ワン・ステップ・フェスティバル」(74年)は、“ロックという普遍性”を布教するための一大イベントだったが、ここにおいて展開された日本ロックの多彩さは、80年代のロック/ポップの状況を先取りするものであった。カルメン・マキ&OZや紫といったハード・ロック系バンドが大きな支持を集めたのもこの時期の特徴だ。彼らの存在が80年代以降のヘヴィメタ・ブームのベースとなっていることは今更触れるまでもないだろう。またハードといえば本家本元のクリエイションもフェリックス・パパラルディとのコラボレーションを実現(76年)、世界レベルで通用する日本のハード・ロックが確立された。

70年代の日本ロックは、こうして相対ロック派と絶対ロック派との相克を一つの軸として展開するが、結局は相対ロック派に収束することになるのである。

確かにこの時期は80年代のロック状況を予告するかのように、新しいスタイルのロックが次々に誕生し、それぞれ独自の発展を遂げていく。ロックの大衆化に大きな役割を果たしたキャロルの登場(72年12月)も手伝って、ロックもしだいにビジネス的な裏づけを与えられるようになり、ロック専門レーベルも設立された。ロック系レコードの発売タイトルも増加し、コンサートの動員力も増し、ライヴ・ハウスも定着、以前は注目されなかった地方のロック・バンドやブルース系のミュージシャンも活動の場を広げていく。70年代の終盤には、ゴダイゴ、甲斐バンド、ロック御三家(原田真二・桑名正博・チャー)もブレイクした。すでに触れた相対ロック派・絶対ロック派の活躍と併せて考えれば、この時代の特徴を「ロックの多様化」とは言えても「ニュー・ミュージック時代の到来」とは言えそうもない。

が、それでもなお「ニュー・ミュージック」という表現にこだわりたい。というのは日本のポップ・マーケットには英米と同義の“ロック”が存在しうる素地はなかったのである。歌謡曲も含めたポップの世界全体を取り込むことによってのみ、あるいはポップの世界全体に革新をもたらすことによってのみ、つまり、ロックを相対化し、ポップ全体に直接・間接に革新をもたらそうという意図を多かれ少なかれ持っていなければ、ロックは生き残れなかったのだ。ロックの多様化はむしろポップを革新するための方法論の多様化なのであった。その意味でこの時代のロックの特徴は多様化そのものではなく、ロックの相対化によって生まれた新しいポップへの意志とそれを具体化する試行錯誤のプロセスだったのである。むろん、これこそが「ニュー・ミュージック」の本質なのだ。

こうした本質を備えたニュー・ミュージック期の主役は、相対ロック派・はっぴいえんど/ナイアガラ/ティン・パン・アレー系人脈であり、彼らと交流しながら独自性を獲得したサディスティック・ミカ・バンド系人脈であった。彼らの試行錯誤がシーンに与えた影響は絶大で、その後のポップは彼らの描いた軌跡を軸に展開したといってよい。80年代に入ってからのYMOおよび大滝詠一の大成功もその証しだが、松田聖子プロジェクトを経てユーミン帝国・サザン帝国へと至る潮流も彼ら抜きでは語れない。はっぴいえんど解散に始まるニュー・ミュージックは、ユーミンのブレイクおよびSASのデビューに帰結し、さらにYMOの結成によって乗り越えられることになるのである。

なお、70年代中盤以降の歌謡曲化したフォークを「ニュー・ミュージック」ということもあるが、彼らはロックの相対化とは無縁で、新しいポップへの意志も備えていなかった。したがって、本書では彼らをニュー・ミュージックに含めなかった。

7.テクノ/ニュー・ウェイヴ時代の到来 1979-1982年

70年代前半に始まるニュー・ミュージックは、そもそも形骸化し体制化した歌謡曲やGSに対する反動として生まれたフォークやニュー・ロックを母体としていたが、ニュー・ミュージックという言葉が定着する七〇年代後半になると、本来のフォークやニュー・ロックのもつパワーを欠いた歌手までが“ニュー・ミュージックの旗手”となった。本質的には「ジーンズ姿の演歌歌手」にすぎないフォーク歌手や粗悪なユーミン・フォロワーも氾濫するようになった。こうして似非ニュー・ミュージックがポップ・シーンを闊歩する頃になると、そのカウンター・カルチャー(対抗文化)として、テクノ・ポップやパンク/ニュー・ウェイヴという新しい潮流が誕生するのであった。

テクノ・ポップは、70年代後半の細野晴臣のエキゾティック・サウンドとコンピュータが出会ったところに成立したといわれるが、実際にマーケティング用語として定着するのはYMO全盛期の81年のことであった。この用語そのものはYMO自身の自作で、英米では同種のポップをエレクトロ・ポップと呼んでいたが、日本ではシーンが形成されたのに対して、英米ではシーンと呼べるほどのものは生まれなかった。つまり、テクノ・ポップもまた日本独自のポップ/ロックの区分なのである。

出発点はYMO・イエロー・マジック・オーケストラのデビュー盤が発表された78年11月。当初は理解されなかったが、A&Mと契約して『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発表、欧米ツアーを敢行してから完全にブレイク、以後YMOは、83年の「散開」まで日本のロック/ポップ・シーンに君臨し続けた。

このYMO、そしてYMOが強い影響を受けたクラフトワークやディーヴォなどの足跡をたどるようにして多数のテクノ・ポップ・ミュージシャンたちが出現する。79年10月にデビューしたヒカシュー、英国ラフ・トレードより同年11月にデビューしたプラスティックス、「テクノ」と呼ばれるのを潔しとしなかったP・モデル(同年8月デビュー)などがその代表格で、彼らは後にテクノ・ポップ3大バンドと呼ばれるようになった。

テクノ病はヴェテラン・ミュージシャンにもたちまち蔓延する。たとえば、ムーンライダーズは『ヌーヴェルバーグ』(79年)以降テクノ/ニュー・ウェイヴ路線を明確化、ディーヴォそのものといった衣装で舞台にに登場することもあったし、あがた森魚もヴァージンVSでテクノ化を果たしている(81年)。また、日本ロックの樹系
図の上では細野と最も遠い位置にいた近田春夫までYMOのサポートで『天然の美』(79年)を制作した。ラディカルなガレージ・パンクを彷彿とさせたシーナ&ロケットが細野プロデュースでテクノ・ポップとして再生し、ハワイ~ニュー・オリンズ指向だった久保田麻琴と夕焼け楽団が、サンディ&サンセッツとしてテクノ&エスノの世界を築くようになったのもこの時期のことだ。

コトがシークェンサーなど楽器テクノロジーと密接にリンクしていたこともあって、80年代前半に活躍したほとんどのミュージシャンがテクノ・ポップと何らかの形で関わりをもったが、82年にはイモ欽トリオに代表される「テクノ歌謡」がポップ・シーンを席巻、テクノはロックとの関連でいえば「新しい潮流」と言えなくなってし
まった。

一方、テクノ・ポップがテクノロジーとの密接な関連から「産業革命的」な潮流だったとすれば、パンク/ニュー・ウェイヴは「無産・プロレタリア革命的」な潮流だった。テクノの主要ミュージシャンは、50~60年代にまでつながる音楽的財産と人脈を持っていたが、パンク/ニュー・ウェイヴは、財産も人脈もろくにないミュージシャンが中心だったからである。

最初のムーヴメントは東京ロッカーズだ。東京ロッカーズとは78年5月にオープンしたS・KENスタジオを拠点として活動し始めたミュージシャンたちのグループで、S・KENを始め、紅とかげ(後のリザード)、フリクションなどがその核となっていた。彼らはロンドンやニューヨークのパンクを意識しながら、体制化したロックやニュー・ミュージックに刃を突きつけるような音を求めて、小ホールやライヴ・ハウスで積極的に活動、同輩・後輩のミュージシャンたちに大きな影響を与えた。

東京ロッカーズの動きに刺激されて、東京ではゼルダ、スターリンなどがそれぞれ個性的な活動を展開、関西でもINUなどを擁するパンク・シーンが出現した。モッズ、ロッカーズ、ルースターズなどの「めんたいビート」が築いた博多パンク・シーンもおなじ流れのなかで生まれたものだ。また、パンク・ムーヴメントと直接的な関係の薄かったアナーキーもパンクの嵐のなかで支持層を拡大した。こうした動きに呼応して、ゴジラ、ピナコテカ、シティ・ロッカー、テレグラフなどのインディー・レーベルやライヴ・ハウスも続々と生まれ、メジャー会社に頼らずともロックが自己主張できる時代に突入したことにも注目しておきたい。

以上のふたつの大きな潮流がこの時期(78~82年)の日本ロックを特徴づけることは確かだが、従来ニュー・ミュージックという言葉でくくられてきたアーティストも、“オールド・ウェイヴ”の底力とでもいえそうなパワーをみせつけた。たとえば、パンクとシンクロしながらブレイクしたRCサクセション、『ロング・バケーション』でポップ・シーンを揺さぶったナイアガラの大滝詠一、ナイアガラから生まれた山下達郎などがその代表だ。松任谷由実やサザンオールスターズなどが手にしたマーケット支配力も、ひょっとするとこの動乱のテクノ/ニュー・ウェイヴ期を乗り越えることで初めて身についたのかもしれない。

8.ロックの大衆化とプライベート化 1983-1987年

テクノ/ニュー・ウェイヴの時代が過ぎ去った83年頃になると、もはや誰も「日本ロック」の存在に疑いを抱かなくなった。チャートグラフィーは、ロック系のミュージシャンによって徐々に浸食され、歌番組もCMもイベントも、ロックと呼ばれるポップを抜きには成立しない時代に入りつつあった。というより、前の時代にかすかに残されていたロック/ポップ/歌謡曲のあいだの境界線が事実上消滅してしまったのである。ロックの定着、そして大衆化である。矢沢栄吉、山下達郎、RCサクセション、サザンオールスターズ、浜田省吾など七〇年代に登場したバンドやミュージシャンはすっかりメジャー化し、チャートの常連になっていた。佐野元春、大沢誉志幸などの“新人”もこうしたベテラン勢に負けない活躍をはじめた。

一方、カルメン・マキ、紫、BOWWOWなどの活躍を経て、ラウドネスの海外での評価に結実したジャパニーズ・ハード・ロックもいよいよヘヴィ・メタル時代に入って、44マグナム、アースシェイカーなどの人気バンドの出現でますます盛り上がっていった。こうしたなか、浜田麻里などのギャルズ・メタルや聖飢魔・のような芸能メタルも登場して、ヘヴィメタ系も一大勢力として認知されるようになった。

だが、こうした大衆化とは相反する動き、つまりプライベート化・セグメント化(細分化)が生まれたこともこの時期の特徴である。

その担い手は、パンクやニュー・ウェイヴに触発された“80年代生まれ”のバンドやミュージシャンであった。大衆化やヒット・チャートにはほとんど無関心な彼らにとって、メジャーのロックはすでにロックではなく、たんなる旧体制ポップにすぎなかった。それはそれで“ロック的”な志だったが、彼らは旧世代に対抗するための戦略やテクノロジーを持ち合わせなかった。いや、そんなものを身につける必要さえなかったのだ。メジャー相手に正面から戦いを挑むのではなく、自分たちの“シーン”をゲリラ的・ミクロ的に確立すればよかった。スターリンの影響下に生まれた“ハードコア・パンク”が、こうした流れを象徴している。

技術よりも精神、サウンドよりもパワー。見えざる百万人より目前で狂喜乱舞する数百人。大衆の支持はいらない。マイナーなシーンで活動し、ディスクをプライベートに発表するだけでも、ロック的・パンク的なものは再生できるはずだ。このシーンで活躍したミュージシャンは皆そう思ったにちがいない。

こうした流れを受けて、レコード・ビジネスの側にも一大変化が訪れた。多数のロック系のインディー(独立)・レーベルが誕生したのである。ナゴム、ADK、AA、アルケミー、セルフィッシュなどがその代表だが、この動きは東京から地方にも波及、おまけに大手レコード会社までレーベルをあらたに設立して、インディーズは一種のブームにまでなった。音楽的な指向性も背景も異なるバンドが“インディーズ”という言葉で一括され、ラフィン・ノーズ、ウイラード、有頂天の三バンドを“インディーズ御三家”と呼ぶような風潮も生まれた。

当初は自由度の高い作品づくりがインディー・レーベル設立の動機だったが、80年代半ばになると、ビジネス面での優位さが注目を集める。インディー・マーケットでは、多額のプロモーション費用・流通費用などをかけなくとも、確実に数千単位の新譜を売りさばけるのだ。大手レコード会社がこの点に目をつけないはずがない。そこでインディーズ・シーンで活躍するアマチュア人気バンドの青田買いが始まり、インディー系からメジャー系へ鞍替えするバンドが続出した。ミュージシャンの側も、自由な表現を場としてではなく、インスタントに世に出られる場としてインディーズを選ぶようになった。その結果、80年代後半のインディーズ・シーンは、メジャー・シーンへの1ステップにすぎなくなってしまった。

だが、“国民的”なレベルでいえば、ティーンズの大半は、こうしたインディーズ・シーンの存在すら知らなかった。かといって、大衆化の主役だったベテラン組が、彼らの欲求を満たしてくれるわけでもなかった。ティーンズに、一世代も二世代も上のミュージシャンに夢中になれ、というのはそもそも無理な話だったのだ。彼らが求めたのは音的な新機軸やポップとしての精神性の高さなどではなく、“怒れる若者・悩める若者の代弁者”としてのアイドルだった。こうした期待を一身に背負うようにして登場したのが尾崎豊である。音として新しい点はほとんどなかった。吐き出すような言葉・メッセージだけが唯一の武器だった。しかし、83年のデビューと同時に多くのティーンズの心を捉え、彼らのあいだに「メッセージ・ソング・ロック」という幻想さえつくりだした。大バンド・ブーム期に、メッセージ型ミュージシャンが多数生まれるが、そのきっかけの一つをつくったのはまちがいなく尾崎豊である。

おなじ83年に登場したBOØWYは、音楽的には尾崎と対極にあるバンドだったが、その後の日本ロックに対する影響力という点では尾崎に優るとも劣らない。その音楽は移入ポップとしてのロックをベースにしていたが、かつてGSのブルー・コメッツが成し遂げたのとおなじ意味で、日本以外ではけっして生まれそうもない“ロック”だった。BOØWYによって日本ロックのオリジナリティは完成されたという人さえいる。事実、BOØWYの出現以降、日本ロックの主潮流は、そのルーツだったはずの英米のポップとほぼ完全に断絶してしまった。テクノ/ニュー・ウェイヴ期まで、日本のロックは“移入文化”の痕跡をとどめつつ「日本固有の現在を表現しうる新しいポップの体系を構築しようという意思」が見えかくれしていたが、BOØWY以降、ポップ・シーンの表舞台からそうした意思を見いだすのは困難になった。洋楽としてのロックは、文化ではなく、たんなる技術・技能になったのである。音の向こう側にある文化やライフスタイルはもうどうでもよかったのだ。それは、自動車・家電などの分野で欧米市場を支配し、多額の貿易黒字に浮かれた80年代半ば以降の経済環境、そして同時期の虚勢にも似た日本人の“自信”をもろに反映したものだったのである。

こうして尾崎豊とBOØWYを軸としながら“日本ロック”にはかつてないほどのドメスティックな環境が生まれることになった。それは、オリジナリティの開花と見ることもできれば、ある種の鎖国状態とも見ることのできる状況だったが、もともとこだわるべきカルチャーや遺産があって文化的チャンネルを閉じたわけでもなく、ドメスティックなのにルートレス(根っこがない)という、一種独特のロック/ポップ環境であった。

いずれにせよ、尾崎豊とBOØWYが、大衆化のひとつの帰結として出現したことは事実で、彼らは、無意識のうちにプライベート化・インディー化という一部ティーンズのメンタリティをも大衆化に合流させて、マクロ的な意味でのプライベート化、つまりドメスティック化のうねりをつくりだしたのであった。

9.バンド・バブルの生成と崩壊 1988-1990年

そして大バンド・ブームの到来である。

87年頃までの日本のロック/ポップの特徴だったプライベート化・セグメント化は、大都市圏におけるライヴ・ハウスの数を増加させた。ところが、アマチュア・バンドの数がそれを上回るペースで増えていったのである。

これには、尾崎豊・BOØWY以降のロックのドメスティック化も大きく作用している。ティーンエイジャーは、誰もが尾崎のように吐き出したいメッセージをもっていた。誰もが布袋寅泰のようにタテノリ8ビートに載せてカッコよくギターを弾いてみたかった。そこへきて、アナログ盤からCDへの移行もほぼ完了、CD単価も下がったし、貸レコード屋も乱立気味となったから、今までよりもずっと安価に音楽を聴ける。しかも、デジタル化・大量生産化を通じて楽器価格は相対的に安くなり、貸スタジオも急増した。これだけの条件がそろえば、へたなスポーツに熱中するよりバンド遊びのほうがはるかに手っ取り早く楽しめる。しかも、流行りのタテノリ8ビートにはスポーツ感覚で入り込めるから、一昔前ならそもそもバンドという発想さえなかった体育会向きの連中まで簡単に「バンドやろうぜ!」ということになる。

バンドをやるからには人前で演奏してみたい。が、こうした状況では、需要・供給の関係でライヴ・ハウス出演もままならない。そこで、ライヴ・ハウスを閉め出されたアマチュア・バンドは、もともと竹の子族などのストリート・パフォーマンスの場だった東京原宿の歩行者天国・ホコ天に進出、80年代末にはストリート・ライヴのメッカに変えてしまったのである。毎日曜日、物見遊山の客に混じって、アマチュア・バンド予備軍が押し寄せ、翌週にはその予備軍がギター片手にホコ天に立つといったように、ホコ天バンドの数は急速に増え、いよいよバンド・ブームは本格化する。

これに拍車をかけたのがTBS系「イカすバンド天国」、通称イカ天(89年2月より放映)である。これはかつての「勝ち抜きエレキ合戦」のようにアマチュア・ロック・バンドのコンテスト番組だったが、この番組が刺激になってバンドの数はますます増えていく。こうしたプロセスの繰り返しを経て、いよいよ猫も杓子もバンドという空前のバンド・ブームが訪れることとなるのであった。

ホコ天・イカ天から登場したバンドは、枚挙にいとまがないが、代表的なところを挙げると、THE
BOOM、KUSUKUSU、JUNスカイウォーカー(S)、AURA、たま、ジッタリー・ジン、フライング・キッズ、ブランキー・ジェット・シティなどとなる。が、ホコ天・イカ天ブーム以前の八〇年代半ばからライヴ・ハウスで人気を博し、バンド・ブームに乗ってブレイクしたバンドのほうが一般に存在感が大きいのは注目に値する。たとえば、ブルーハーツ、ストリート・スライダーズ、ユニコーン、筋肉少女隊、レピッシュ、BUCK・TICK、X、ZIGGYといったところである。また、ポップのライヴ化・ビジュアル化にあわせて、イカ天・ホコ天期のミュージシャンの多くが、衣装・メイク・パフォーマンスにおける過剰とも思えるほどの自己演出に走ったが、一部を除いて音楽的にはむしろ保守的で、既存の音の枠組みから良くも悪くも抜け出せなかったこともこの時期の特徴であろう。そのほとんどは、変わり映えのしないビート・パンクか、せいぜいがその応用編だった。

このようにバンド・ブームによって、ますます大衆化し巨大化した日本のロックだったが、九〇年頃になるとブームは急速にしぼんでしまう。実質的には、ビジュアル面での派手さとメッセージ指向の挑発的な言葉だけがブームを支えていたのだから、ひとたび飽きられればその衰退もあっけないほどであった。バブル経済の崩壊・平成不況のはじまりがバンド・バブルの消滅を加速したことはいうまでもない。

むろん、こうしたバンド・ブームに一線を画していたミュージシャンにも触れておかなければならない。前の時代のプライベート化・セグメント化の流れを受けて、自分たちの表現を磨くことに専念し、結果的にバンド・バブルを乗り越えていった一群のミュージシャンたちである。たとえば、ボ・ガンボス、エレファント・カシマシ、ニューエスト・モデル、フリッパーズ・ギターなどがその代表格だ。彼らは、超ドメスティックな環境のなかで自足してしまっているロック/ポップの主潮流に反発するような活動でその支持層を拡大していった。

アンチ・ドメスティックの動きは“ワールド・ミュージック”というタームの下に登場したミュージシャンによっても展開された。たとえば、上々颱風や沖縄のりんけんバンドそれだが、彼らは、ルーツにこだわることを通じて、逆に開かれたロック/ポップが生みだされることを身をもって示したのである。

ドメスティックなバンド・バブル状況は、ホコ天・イカ天に例をとるまでもなく、あくまで“国際都市”東京を中心に形成されたが、実際にこの時期以降、国際的に評価されるようになったのは、“土着都市”大阪から生まれた少年ナイフやボアダムズなどであり、まさに皮肉というほかない。後にやはり大阪出身者主体のオルケスタ・デ・ラ・ルスが、ビルボードのサルサ・チャートでナンバー1になるという快挙を成し遂げるが、これもあわせて考えると、閉じようとする動きに対抗しうる勢力は、大阪など非東京から生まれやすい時代になったのかもしれない。

とはいえ、東京サイドにも新しい動きはあった。たとえば、日本語ラップやヒップ・ホップを指向する近田春夫やいとうせいこうが閉じようとする傾向に歯止めをかけようとした。彼らはラップという、そもそも土着的な移入文化をあえてもちこむことによって、閉じようとするロック/ポップ状況をダイナミックに動かそうとしたが、この“運動”はスチャダラパーや電気グルーヴなどの援軍を得て現在も継続中だ。

さらに、パール兄弟、ピッチカートVなどが80年代半ばからつづけていた、ロックを越えたポップの体系を見すえながらの意識的な活動も、反ドメスティックを掲げる東京サイドの動きとして見逃せない。この流れの一部は、後に渋谷系と称されるようになるが、その音の洗練度とは無関係に、これもまたある種の土着化現象にみえてくるから不思議である。また、音の系列からいえばかなり出所が異なるとはいえ、爆風SLUMPや米米CLUBなどといったネオ芸能的なエンターテインメント型ポップの開花も、こうした“土着化”とパラレルに推移しているとみていいだろう。ドメスティックでルートレスなポップ/ロックの支配を打ち破るのに、意識的な土着化が武器になるとはなんとも皮肉な話ではある。

10.マーケティング・ポップの時代 1991年-?

バンド・バブルが崩壊した後にやってきたのはマーケティング・ポップの時代である。需要サイド(ポップの「消費者」である人々)の欲求を汲みながらつくられる、ある意味で緻密に計算されたポップの時代である。この種のポップでは、供給(制作)側の主役はミュージシャンでもソング・ライターでもない。レコード会社、プロダクション、テレビ局、広告代理店、それにミュージシャン・作詞家・作曲家・編曲家などによる共同作業によってはじめて“生産”される。アメリカのショー・ビジネスに端を発するこの手法そのものは、70年代後半から徐々に日本にも浸透していったもので、必ずしも新しいスタイルとはいえない。しかし、90年代に入って、ビーイングなどの有力プロダクションが、これを徹底させるようになってから俄然注目を集めるようになった。少なくともメジャー・シーンでのビッグ・ヒットは、なんらかのかたちでこの手法を使っている。

ユーミンが独自の情報収集力を発揮して時代の特性をさぐり、自らの作品に反映させていることは有名な話である。ビッグ・ヒットを継続的に放つ他のミュージシャンも、ユーミン同様の作業をどこかで行っているはずである。が、テレビドラマやCMなどとのタイアップを通じて、ヒットづくりに関わる一連の作業が“システム”として自覚的・組織的に行われるようになったのはやはり90年代の特徴といえる。しかも、もはやCDの売り上げだけが目標ではない。ビデオ・ソフトとしての作品化も同時進行的に行われるから、ビジュアル面での配慮も以前にまして重要になっている。おまけに、カラオケ時代の本格化で、カラオケでいかに歌われるかまで見通した曲作りも求められる。

こうして生みだされたマーケティング・ポップにはミュージシャンの顔は必要ない。言い方を換えれば、無名のミュージシャンを多数ストックしておいて、マーケティング装置のはじき出した理想的なミュージシャン像にいちばん近い人物を選びだせばよい。

ポップのこうした“生産方法”は、必ずしも責められることではない。消費者の嗜好に合った商品をつくるのが市場経済の道理である。逆に言えば、消費者の嗜好に合わないものは淘汰されてしかるべきである。

だが、現在のマーケティング・ポップが、万能であるという保証はない。ポップはいつもその内部から革命家を生み、旧体制ポップが新体制ポップにとってかわられることで命脈を保ってきた。誤解をおそれずにいえば、“ロック”とは、旧いポップ体系を革新する新しいポップ体系を指すタームなのである。マーケティング・ポップがビジネスとして正しいとしても、新しいポップの体系が、この手法を通じて生まれるとはかぎらない。おそらくは予想もしないところから“新しいロック”の胎動・新しいポップの発生が見られるに違いない。マーケティング・ポップのように需要が供給をつくるのではない、供給が新規の需要をつくるのだ。それこそが“ロック”的な経済原理である。もっとも、ドメスティック化を通じてすっかり体制化・芸能界化した現在の“日本のロック”に、ダイナミックな変動のウェイヴを期待するのはまだ時期尚早かもしれないが。

『J‐ROCKベスト123』

『J‐ROCKベスト123』(講談社文庫・1996年6月)

批評.COM  篠原章
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