夏の終わり(ペナン〜沖縄)(1)

1998年8月24日~8月28日 ペナン雑感

ペナンから帰ったのは8月28日。3泊5日という短い旅だった。充実感もなかったが、思ったより疲労感も少なかった。学生はビーチボーイにカモられながらもそれなりに楽しんだ様子。先生としてはそれだけで良しとしなければ。

行きは羽田発関空経由クアラルンプール乗り換えのペナン入り。帰りはペナン発クアラルンプール乗り換えの成田着という変則。クアラルンプールの新ターミナルは関空よりもクリーンで機能的、まるでテーマパークのようなセッティングだ。このままじゃ日本はアジアと欧米を結ぶ空路上のハブにはなれない。ま、それでもいいか。隠居生活を送りたくとも蓄えのないニッポン人だからちょと悲しいが、これも宿命と受け止めて…。なんてうそぶいたりすると、経済学部の良識派同僚から叱られそう。「経済学者よ、行動せよ」なんてコマンドが出たりしている昨今、ぼくのような無政府主義者(混沌愛好者?)は暮らしにくい。

ペナンでの投宿先、ムティアラ・ビーチ・リゾートにはあまり馴染めなかったが、ペナン最高級のホテルに3泊してツアー代金56800円だから文句を言うとばちがあたる。凋落する日本経済・日本円だが、アジアはまだまだ楽しめる。それにしても2月のサムイの超一級リゾート、トンサイベイでの経験が効きすぎている。バリやランカウイもそうだろうが、ほんとうの一流リゾートは東京での疲労がつま先から抜けていくような場所であってほしい。ムティアラはどこか落ち着きのないホテルだった。中途半端に豪華で中途半端にしょぼい。ただ、ホテル内のイタリア料理屋は「マレーシア・ナンバー1」だけあって素晴らしい料理とワイン。比較的いいワインをとってアラカルトでフルコースを構成した上での一人1万円には満足。東京のイタリアンでこれだけの料理を出す店は少ない。こんな田舎でこれだけの水準を維持するイタリア人シェフがいるとはね。

ジョージタウンは放浪するにはうってつけの街に見えたが、残念ながら連れが多く放浪の機会がなかった。かといって「次の機会にね」と思わせるだけの力はない。マレーシアの政情が不安定になり始めた時期と重なったが、クアラルンプールにいたわけじゃないから、ほとんど影響もなかった。テレビと新聞が大騒ぎといった印象があったくらい。

独り旅への欲求がかえって膨らむペナンの五日間だった。

1998年9月5日(土) 観光団とエイサー

さてさて沖縄。ペナンの敵を沖縄で、といきたいところだが、今回も学生の引率が主体だから多くは望めない。学生よりも一日早く沖縄入りし、二日後に帰京というスケジュールがわずかな救い。

3時頃那覇空港にランディング、その足でレンタカーを駆ってコザへ。途中、海南の平和食堂によるが、なんと店が閉まっている。すっかり失念していたが、旧盆の真っ最中であった。市場通りも開いている店はほとんどなく、俺の夕飯はどうなると不安のうちにデイゴホテルに到着。部屋でごろんと横になり、空きっ腹を抱えたまま午睡。ああこの開放感だ、これでいいのだ。

夜7時過ぎに目覚める。あわてて身支度、高速道路を使って那覇に舞い戻る。8時からラジオ沖縄の富田めぐみの番組に2月に続いて再び出演。今回は音楽之友社『ウチナーのうた』のプロモーションが目的。現物はまだできていなかったが、良い本になりそうだったのでひとはだ脱いだというわけ。あることないことしゃべりまくって大いに宣伝。ぼくは共著者のひとりにすぎないので、一生懸命宣伝する義理もなかったのだが、音友の有能な編集者・S氏に何だかはめられた感じ。大田昌秀、筑紫哲也、宮本亜門などといった共著者はぼくのアイデアではないが、たまにはこういうのもいいか。

番組終了後、再びコザへ。そうそう旧盆ならエイサーを見なくちゃね、なんて思いながら諸見里(コザの北中城寄り)を11時過ぎに通りかかると、エイサー部隊の掛け声が通りの向こう側から聞こえてくる。車を止める場所を探すが、どこもかしこもすでに一杯。仕方なくデイゴにもどって車を置いてからタクシーで諸見里へまっしぐら。

人垣ができている百軒通り(諸見里の社交街)に入ると、いましたよいましたよ、まず山里(諸見里)青年会、続いて久保田青年会の幟。熱気むんむんの人垣をかき分けて汗だくで見つけたのが勇者・園田(そんだ)青年会。三つの青年会が競い合うように太鼓を打ちならし、舞い踊りの様はさすがに雄壮。スピーカーを背負った軽トラックが先頭、太鼓、パーランク、女の子、地方(歌い手)といった順でゆっくりと進む。スピーカーの音は最低最悪だが、そこがまたいいんだ。おそろしくアナログな感じで。

ひとしきり百軒通りを巡ると、各エイサー隊が手合わせ、対決する番である。負けてたまるかと互いに美しさと雄壮さを競い合う。女子高生とおぼしき女の子たちの合いの手にも力が入る。やはり園田、久保田、山里の順か。園田は貫禄が違って美しい。どの隊もいちおう統制はとれているのだが、携帯電話が入ると隊列から抜けて、電柱の陰なんかで話し込んじゃう女の子がいたりする。それを誰も叱らないのが沖縄らしさ。ぼくが指導者だったら、お前何やってるんだと強引に隊列に戻しちゃう。予想通りというか、隊列に割り込んで一緒に踊ろうとする泥酔状態のじいさんやハイサイおじさん風のおやじも出てきたが、さすがに危険なのでセキュリティ担当の若年寄風からずいぶん怒られてた。「おまえ、こんなとこにいたら大けがするぞ、あっちのほうでおとなしく見ていろ!」なにしろバチぶんぶん振り回しているわけだからね。

都会でいえば、電車やバスのなかで奇声を発したり、車掌でもないのに「次は錦糸町、錦糸町、東武線はお乗り換えです」などといって車内を歩き回り、他の乗客を驚かせたりする人たちが、沖縄では日常のなかにごく普通にとけ込んでいる。ウチナーンチュも彼らを一人前かそれ以上に扱っている。いかにも迷惑といった雰囲気で彼らを排除するか無視しようとする都会と違って、沖縄には彼らを一個の人間として包み込むような雰囲気がある。彼らを怒ったり、せつせつと説教したり、まして話しかけたりなんて光景を東京では見たことがない。

沖縄では有名な芝居の常連、いっちゃんもそんな人で、東京だったら間違いなく劇場から排除されるが、沖縄ではどの芝居小屋も映画館もいっちゃんはフリーパス。いっちゃんが来ない芝居は当たらないとまでいわれている。打ち上げに呼んで好物の寿司をごちそうし、最後はタクシーで家まで送ったりするのが普通で、いわば守り神扱いである(残念ながらすでに他界されている)。こういう柔らかさが、二流の田舎になる直前の段階で沖縄を救っているのだ。

さて、園田隊の先頭に立つチョンダラーがりんけんバンドのミーチュとカーツだったので、すっかり観光客になってカメラをぱちぱちやっていると、WOWOWの中西プロデューサーに発見されて彼らと合流、音楽評論家の青木誠先生ご一行ともばったり。みんながみんなデイゴ宿泊。他にもしばしば東京で見かける顔がちらほら。こういうのって恥ずかしいよね。ヤマトの人間として密かにエイサー見物するつもりだったけど、結局、観光団がカメラぶら下げてひとかたまりになっちゃったりして。

最後は諸見の公民館で満月を戴いての解散式。午前3時を回っていた。気づいたらエイサー隊を取り囲む見物客の大半はヤマト風。コザの住人は脇役の風情。エイサーのやり手もしだいに減っているというからヤマトの人間がエイサー隊に参加する日も近い。今年はアメリカーも独りだけだけど隊列に混じってたからねえ。文化は何処へ向かうのか。

1998年9月6日(日) 苦菜に舌鼓

午前中はゆっくりと起きてゆっくりと朝飯。デイゴでの静かなひとときも今日までか。学生たちが那覇空港に着くのは3時頃、時間があるのでいつにもまして閑散としたパークアベニュー周辺をぶらぶらした後、例によってプラザハウスのロージャーズ百貨店でアメリカ製の子供服を何点かずつ選ぶ。うちの子供たちはデザインがユニークで値段もやすいからという理由でこの店のものばかり着て育ってきたが、そろそろおしまいかも。小学校高学年以上のサイズとなると、欲しくなるようなデザインはあまりない。いいなと思うものは東京並みに高い値段になっちゃう。LAかニューヨークに買い出しに行く機会を狙うしかないかな。

那覇空港に学生16人を出迎え、嘉手納で基地見物をした後、6時頃からデイゴで勉強会。ところが、こちらにやる気がない。なんだかちっとも乗らない。沖縄で勉強などと思ったのが間違いだとすぐに気づき、学生たちが事前に提出したレポートについて、短くコメント。学生のプレゼンは授業が始まってからということにする。みんないっせいに喜ぶ。当たり前か。

デイゴで一人千円ということでお願いした和食の夕飯。デイゴといえばデイゴセットというボリュームたっぷりの定食が有名なのだが、これは脂っこい揚げ物中心になってしまうので、今回は和食でとお願いしたら、野菜と魚中心の小皿7品、さっぱりした夕食となった。ぼくは美味しかったが、学生たちのほとんどは不満な様子。なかでも苦菜の和え物が気に入らなかったみたい。これはほんとうに苦い。慣れればこれも病みつきかと思うが、ゴーヤーよりも苦いので、学生には刺激的すぎたよう。今の季節はどこの八百屋でも苦菜がおいてある。そのかわり島ラッキョウはなし。

夕食後、コザの街を少しばかり散策し、車5台に分乗して恩納村のマリンビューパレスへ。学生の宿舎である。みんな疲れた様子で、「先生、夜遊び連れてって」という要求はなし。ああ助かった。ぼくもデイゴに帰って早めに寝る態勢に入ろうと思ったが、北谷にある林賢の新しいスタジオによることにした。林賢、エンジニアの上ちゃん、伊勢丹の国際部を辞めてアジマァに転職した渡辺さん(女性)の4人で居酒屋へ。といっても林賢はピザ・マニアで酒はとらずにピザ3種。渡辺さんはぼくの『ハイサイ沖縄読本』を読んで移住した人。だからというわけじゃないが、控えめだが芯の強そうな素敵な人、いい感じである。

デイゴに帰ったら宝島の市川さんからファクス。民謡以外の沖縄出身のアーティスト(安室ちゃんやSPEEDやMAXやCOCCOやKiroro)について4000字の原稿を書いてくれという依頼が正式に届いていた。前から話だけは聞いていて、おもしろそうだから引き受けると返事をしたのだが、やはり沖縄滞在中に目途をつけないと間に合わない。ほかにも沢山締め切りがあったのでパソコンは持参したが、どこまでやる気になるか自分でも分からない。

夏の終わり(ペナン〜沖縄)(2)に続く

 
 

批評.COM  篠原章
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