命ぬぐすうじさびら〜命あることのお祝いをしましょうよ

3 月11日14時46分。そのときぼくは自宅にいた。大学1年生の長男と遅い昼食をつくって食べ、片付けを終えた頃だったと思う。2階のリビングにいた。揺れた。「けっこう大きい」と思ったが、やがて収まるだろうとたかをくくっていた。ところが、揺れは一向に収まらず、どんどん大きくなる。財布や携帯をもって階下に降り、息子と1階の玄関から外に出た。2階には多量の本とCDがあるから、ぐしゃっと潰れるかもしれないと思ったからだ。慌てた。地震でこんなに慌てたことはない。それが証拠に、手にしていたのは携帯ではなく人参だったのである。笑いたいが笑えない。

外に出ると、冷たい突風が吹いている。悪魔や悪霊が登場する映画に観られるような邪悪な風だ。心が凍てつく感じがした。お隣のTさん一家がヘルメットを被り、「非常時持出し」と書いた袋を抱えて飛び出してきた。準備がいい。

「大きいですね〜、怖いですね〜」とTさんの奥様。
「ホントに大きいですね〜、びっくりですね〜」とぼく。

今思えばずいぶん間の抜けた会話だったが、お隣の顔を見て安心したことは事実だ。いざとなれば一緒に行動できる。

地震が収まったので、室内に戻り、息子と室内を点検した。壁に掛けてある絵のほとんどが傾いていた。デスクに積んであった書類や本、CDが落ち、書斎の床に散乱していた。壁に固定してあった食器棚が傾いていた。固定するための釘がはずれてしまったのだが、幸い中の食器には異常はなかった。書棚などから飛び 出した本やCDはなかった。テレビでは震度5強とか6とか報じている。宮城県沖が震源地だと知った。

これは大変な地震だと直感した。新宿方面にいる大学3年の娘に連絡をとろうとしたが、すでに携帯はつながらない。が、以心伝心、向こうから無事であると伝えてきた。固定電話で曙橋に単身で住んでいる母にも連絡した。無事だった。

世田谷は静かである。少なくとも近所では火の手があがった様子はない。近くを見る限り、地割れなどもない。津波が心配だとテレビを見ていると、15時15分頃、二度目の大きな地震があった。小さな余震は数え切れない。

画面では三陸の町が次々津波に呑みこまれている。無数の命と、何百年もかけて築き上げてきた暮らしの伝統がほんの数分で消滅していく。 むごい。 むごすぎる。カメラは、津波から無事逃れた人々にも向けられる。悲鳴やすすり泣き。が、一様に言葉らしい言葉はない。こうした状況に直面したら、自分だったらまず生き残れる気がしない。だから、画面に向かって、「命は助かったのだから…」と声をかけたくなるが、生きる土台だった町が根こそぎ消滅する事態を目前にして、「元気を出して下さい」ということ自体が不遜な気がした。

天災ではないが、ぼくも、最近持てるものすべてを奪われるような事件に見舞われたばかりだ。「命までとられたわけじゃない」と励まされたが、生活の基盤や自分の歴史をすべて失ってしまうという不安は肉体的な「死」よりも恐ろしく感じた。それどころか、愛する肉親や友人の命まで奪われている被災者の方々の心情は、まさに「生き地獄」というに等しい状態だろう。高齢者になればなるほど、心の闇は大きくなるはずだ。避難所での混乱も考えれば、「生きることの辛さ」ばかりが膨らんでしまうに違いない。

が、それでもなお、生きることは大切なのだ、生のあることは言祝ぐに価するのだと言わなければ救われない。

拙著『ハイサイ沖縄読本』(宝島社)『沖縄ナンクル読本』(講談社)にも書いたし、照屋林助・北中正和『てるりん自伝』(みすず書房)にも詳しいが、深い悲しみばかりが島を覆い尽くしていた終戦直後の沖縄で、歯科医で漫談家の小那覇舞天(おなは・ぶーてん)が、うら若き照屋林助(漫談家・民謡家)を従えながら、すべてを奪われた沖縄の人たちに向かって発し続けた言葉を、ぼくはいま再び想いだしている。

「命ぬ御祝事さびら」(ぬちぬぐすうじさびら)

命あることのお祝いをしましょうよ。家に閉じこもって悲しんでばかりいないで、生き残った者は「命あること」の素晴らしさをお互いに確かめあいましょうよ。そうしなければ、死んだ者も浮かばれない。

舞天と林助は、収容所(当時、沖縄の人たちの大半は米軍によって収容所に強制移住させられていた。その間に土地も接収された)の一軒一軒を周り、戸口に立って大声でそう呼びかけたという。当初は見向きもされなかったというが、広場で漫談、民謡、寸劇などを演じているうち、一人二人と聴衆は増え、やがて収容所全体が笑顔の渦に巻き込まれたという。

未曾有の大混乱と深い悲しみのなかで、暮らしを立てる算段をするのは、想像を絶する辛苦を伴う作業である。が、そんなときだからこそ、生きる大切さ、生きる楽しさを少しでも実感してもらいたい。そう。そんなときだからこそ、芸能や芸術は大きな力を発揮するはずである。

ここにきて、テレビに「お笑い」や「歌」や「スポーツ」が復活しつつある。批判する人も多い。こんなときに「お笑い」や「歌」や「スポーツ」どころじゃないだろう、と。被災者の気持ちを考えよ、と。実際、お祭りやイベントはことごとく自粛(中止)されている。もちろん、被災者や被災地への配慮や支援が必要なことは言を俟たない。原発の状況もまだまだ不透明だ。が、生きることの素晴らしさをもう一度皆で確認するためには、「お笑い」や「歌」や「スポーツ」は不可欠である。邪悪なものたちと闘うためには、ぼくたちのカルチャの底力を見せつけなければならない。それこそが、カルチャに関わる者の使命であり、近現代のニッポンが身につけた唯一かつ最大の美徳である「ヒューマニズム」の本質だと思うのである。

1992年頃(後ろで三線を爪弾くのは息子の林賢)

1992年頃(後ろで三線を爪弾くのは息子の林賢)

watabu1

60年代の照屋林助&ワタブーショー(写真は(株)アジマァ提供)

watabu2

60年代の照屋林助&ワタブーショー(写真は(株)アジマァ提供)

 

 

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket