「山梨と岐阜が沖縄に海兵隊を押しつけた」のか? 罷り通る虚言

1950年代から60年代にかけて、沖縄に海兵隊基地が数多く生まれたのは、本土に駐留していた海兵隊が、激化する反対運動のために追いだされたからだ、という説がある。とくに槍玉に挙がるのは、岐阜(キャンプ岐阜ー各務原市)と山梨(キャンプフジ・マックネアー富士吉田市・山中湖村)だ。

両基地にいた第3海兵師団の1万数千人は、1956年に沖縄に移駐している。最近では屋良朝博氏などがたびたびこの事実を指摘し(たとえばNHK解説委員室解説アーカイブ「視点・論点 「沖縄の今(1) 基地問題の矛盾」)、翁長知事もこれを引き合いに出してスピーチしたことがある(たとえば本サイト掲載「国連から帰国直後の翁長知事記者会見(全文)」を参照)。高橋哲哉東京大学教授も「岐阜と山梨に海兵隊を引き取ってもらいたい」といった趣旨の主張を繰り返している(たとえば『沖縄の米軍基地―「県外移設」を考える』集英社新書・2015年6月)。

この主張をあらためて辿ると、「本土の米軍基地反対運動が海兵隊基地を追いだして沖縄に押しつけたから、現在の沖縄の基地問題が生まれた」という話になる。「本土の身勝手さが沖縄の基地負担を増やした。沖縄差別だ」といいたいのだろうが、まるで反対運動が反対運動の責任を追及しているかのようなロジックで、「ホントにそれでいいのかよ」といいたくなる。

史実を点検したら、これがなんと「俗説」、いや「虚言」のようなものだった。

米陸軍のヴァン・フリート大将が「本土の反対運動」を海兵隊沖縄移駐の理由の一つとして挙げたことは事実だが、島ぐるみ闘争の端緒となった強制的な土地収用に対する反対運動や祖国復帰運動は、岐阜・山梨の海兵隊が移駐する前から始まっている。沖縄でも基地反対運動・反米運動は激化しつつあったのだ。本土の反対運動は厄介だが、沖縄の反対運動は御しやすいと米軍が考えた可能性はあるものの、「本土の反対運動」が唯一の理由であるかのように語るのは、明らかに間違っている。

ヴァン・フリート大将などの作成した文書(”Report of Van Fleet Mission to Far East”, in :  George C. Marshall Library and Archives.)や、当時の国内の安全保障に関する種々の状況を勘案すると、本土から沖縄への海兵隊の移駐は、以下の二つの大きな理由からであったと考えられる。

  1. 朝鮮戦争は停戦に至ったが、米国はこの戦争によって「共産主義の脅威」を再認識し、北朝鮮や中国に対する牽制の意味も込めて、海兵隊を沖縄に駐留させることが、その機動力を発揮する上で最適であると判断した。
  2. 1954年に自衛隊が発足し、本土各所に配置された米軍基地を自衛隊基地によって代替する動きが活発化した。

(2)に関して補足すれば、キャンプ岐阜は航空自衛隊岐阜基地に転じ(1957年〜)、キャンプフジ・マックネアはその後も海兵隊の演習場として使われた後、1972年より自衛隊が管理する日米共用の北富士演習場となっている(現在も継続。キャンプハンセンで行われていた県道越え実弾射撃訓練もこちらに移転)。「本土は沖縄に基地を押しつけた」という人びとは、海兵隊が移駐した後、岐阜は自衛隊基地となり、山梨は海兵隊と自衛隊の共同演習場として残されたことを知った上で、そう主張しているのだろうか。

海兵隊の本土から沖縄への移駐は、「本土の反対運動」が唯一の理由ではない。まして「本土の沖縄に対する差別的な姿勢」が背景にあったなどとはとてもいえない。無論、土地を接収された沖縄県民は、米軍による当時の強引な手法を批判する権利はある。が、土地の接収や海兵隊の沖縄への集中が、本土による沖縄差別に起因するのだから、本土は海兵隊の基地を引き取れと語る識者や政治家は、あらためて戦後史を学び直したほうがよい

【関連メモ】
今回のテーマには直結しないが、50年代末から始まった北富士演習場返還運動(闘争)は、「入会権」をめぐるものとして著名で、篠原が小学校高学年〜中学生の頃には、毎日のように山梨日日新聞の紙面を賑わせていた。三里塚と並ぶ「権力VS反権力」の象徴だった。その先導役は忍野村の忍草(しぼくさ)母の会と忍草入会組合。まだ小学生だった僕らに「入会権」を教えた出来事でもあった。琉球王朝時代の「杣山」が入会権とほぼ同じ権利を意味する、ということに気づくのはだいぶ後になってからのことだ。
最近になって資料を見たら(斑目俊一郎『北富士演習場と天野重知の夢―入会権をめぐる忍草の闘い』彩流社、2005年12月、小山高司「【研究ノート】北富士演習場をめぐる動き――その設置から使用転換の実現まで――」『防衛研究所紀要』第 12巻第2・3合併号、2010年3月)、入会権をめぐって、現地でもさまざまな利害が複雑に絡んでいたことを知った。複数の入会組合が忍草入会組合と激しく対立していたようだ。母の会は、実弾演習時に梨ヶ原(演習地)に入りこんで、実弾の雨が降る中「のろし」まで挙げて闘ったが、「生活の8割を入会地からの収穫に依存していた」にせよ、なぜあれほど激しく、しかも長い間抵抗したのか、不明な点は残される。裁判では入会権という経済権は認められ、国による補償も行われて、忍草にも分配されたが、その後も(現在に至るまで)、反基地闘争・反米闘争として細々と継続し、忍野村の人たちの一部も関わっている。産業構造や経済構造の変化で入会権を行使したいという住民は激減しているから、今や純粋に「反帝国主義」のための闘い、「平和」のための闘いということなのだろう。辺野古と決定的に違うのは、知事の役割である。闘争が始まった頃当選した天野久知事(1951〜67年在職ー4期)は保守系だったが、国と入会組合のあいだに入って、粘り強く調整役を務めた。その後、同じく保守系の田邊圀男知事(1967〜79年在職ー3期)が、社会党の支援を受けるために「北富士演習場返還・日米共同演習反対」を唱えて当選したが、その役割は天野前知事と同じで、やはり調整役に徹し、現場の闘争を自ら煽るようなことはなかった。70年代に入ると運動が下火になったこともあって、形式的には調整が功を奏したかたちに落ち着いた。

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批評.COM  篠原章
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