沖縄の真実(1) 「一括交付金」の怪

まず断っておきたい。ぼくはフツーの人たちのフツーの暮らしが守られることがもっとも大切な ことだと信じている。国家や権力がフツーの人たちからフツーの暮らしを奪うことはけっして許されない。同じことだが、個人の自由と人権を保障する民主主義 のシステムは尊重されるべきであり、一部の人たちや一部の集団が全体を支配しようとする動きがあれば、みんなで立ち向かわざるをえないと思う。

 残念ながら、日本にも世界にも、しばしば強権的に民 を支配しようとする動きがみられる。そうした動きを、うっかり見逃してしまうこともある。昔と違って「敵」はやわらかいかたちをしているし、情報もコント ロールされているから、ぼくたちが気づかないこともある。B級ハリウッド映画のように、支配者が支配者然としていることはむしろ稀だ。彼らは軍服も着てい なければ、戦車にも乗ってはいない。むしろ戦車を否定し、自分たちは民の味方だと公然と言ってのける。言葉とお金を巧みに操り、ときには笑顔で、ときには 泣き顔でやってくる。始末が悪いことに、支配者が支配者であることに気づいていないことさえある。特定の利益を守るために、特定の集団が盲目的に行動し、 自分たちの利益を最大限確保する。それが民からの収奪であることに気づいても、悪いのは自分たちではないと主張するはずだ。

 こんなことを長々書いたのも、これから取り上げようとする問題が非常にセンシティブだからある。沖縄の人たちや沖縄を愛する人たちが不快になる可能性の高いコンテンツだからである。でも、この問題は避けてはいけない、と思う。

琉球新報

琉球新報(2011年12月16日)

 沖縄振興特別措置法(72年に本土に復帰した沖縄の“本土からの遅れ”を取り戻すための各種優遇策を定めた法律)が今年度で期限切れになるのに伴い、沖縄県が年間3000億円にのぼる一括交付金の制度化を求めているのはご存じの向きも多いだろう。

 1972年の復帰から40年間、沖縄はつねに財政的 な特別扱いを受けてきた。総額で約10兆円が沖縄財政に投入されている。しかしながら、沖縄の社会的経済的基盤は「本土並み」にはなっていないというのが 沖縄県の主張だ。そこで出てきたのが「一括交付金」という発想である。

 現在の補助構造を説明するために、公共事業を取り上げてみよう。公共事業の場合、補助金の多くはいわゆる「国庫支出金」という名目で配分される。

 沖縄のある自治体で60億円の建設費がかかる道路が 必要だとすれば、60億の経費のうちの95%、57億は国庫支出金として国が負担することになる(事業によって補助率は異なる)。沖縄県以外の自治体であ れば補助率は66.7%の40億円。国庫補助と経費の差額分は地元負担となるから、沖縄県には大きな優遇措置が与えられていることになる。が、沖縄県はそ れでもまだ足りないという。その差額(この例でいえば3億円)が地元負担になるが、それもご免被りたいということである。そこで、一括交付金という発想が 生まれた。使い途は沖縄で考えるから現金を直接渡してくれ、というのがこの交付金の趣旨である。

 一括交付金という発想自体は必ずしも悪いことではな い。中央政府(霞ヶ関)の都合に合わせてお金を使う地方自治・地方財政の仕組みは、長いこと地方自治体の足枷になってきたからである。橋を架けたいが、費 用の半分程度(事業によって補助率は異なる)は自分たちで負担しなければならない。が、 財政力の弱い自治体では その半分が工面できないから「橋を架けるのはやめよう」となる。その結果、必要なものが手に入らない。逆に、相対的に財政に余裕のある自治体のなかには、 経費の半分を国が負担してくれるなら、「一つだけじゃなく橋を二つ架けてしまおう」というところが現れる。要するに無駄な公共事業が生まれてしまうわけ だ。片方は必要なものが手に入らない、片方は無駄なものがつくられる。国としては、地方がつくるものを一括管理できるシステムであり、自分たちの職権が確 保できるから悪い制度ではないが、地方から見れば「カネは出すが口も出す」システムであり、先に触れたように「必要なものが手に入らない、不要なものまで つくってしまう」というケースもあるため、国庫支出金はこれまで大きな問題になってきた。

 地方分権が話題になっているここ20年近く、政府も ようやく重い腰を上げ、「じゃ、いっそのこと紐付きでないお金を増やして、自治体に好きなように使ってもらおう。そうすれば自治体も今までよりもお金を大 事に使うだろう。その代わり補助金の総額は減らすからね」という方向に動き出した。たとえば、税収の配分を地方に有利にしたり、もともと紐付きでない補助 システムである地方交付税交付金という仕組みを変更するなど、それなりに改革を実施してきた。その代わり、「財政力の弱い自治体はなくなってくれ」とばか り平成の大合併を推し進め、効率の名の下に弱小自治体を地図上からデリートしてきた。気がついてみれば、「村」という行政単位は200団体程度まで削減さ れてしまった。今や「村」のない県すら珍しくない。

 日本政府は借金まみれだから、余分な経費を削るとい うのが至上命令である。厳しい財源のなかから地方財政・地方自治の自立化・分権化を進める以上、補助総額の減額や自治体数の削減は我慢してくれよ、という のが本音だろう。その結果、多くの自治体が「我慢」を強いられている。しかもここにきて震災とその復興が最大の課題。ちぐはぐな政府のやり方は今も変わら ないが、政府に注文をつけながらもほとんどの自治体は現行制度の中でやりくりしているのが実情である。もっとはっきり言えば、どのような政府であっても、 形式的には国民が選んだ政府だから、自治体や国民は政府の方針に大人しく従わざるをえない。現在のような社会経済情勢の下では、たとえ相手が頼りない政府 であっても、過大な財政負担を求めることなどできないはずである。支援の必要な被災地の自治体、被災地の住民が政府に突きつける要求ですら、涙を禁じ得な いほど控えめなものだ。

 ところが、沖縄県は年間3000億円の一括交付金を 求めている。それもこの先ずっと継続して出してくれ、という条件までつけているのだ。その理由は「長い米軍支配のおかげで本土より社会経済の基盤が脆弱だ から、本土に追いつくためにはさらなる財政資金の投入が必要である」というもの。復帰から40年もたってまだ本土に追いつけないというのも首をかしげたく なる話だが(ちなみに米軍統治は27年間)、それはあくまで“たてまえ”であって本音ではない。本音は「米軍基地という負担があるからお金で補償してく れ」というところにある。にもかかわらず、沖縄県は本音を本音として認めたことはない。「基地が大変だからお金を出してくれ」と沖縄県がいえないのはなぜ なのか、ぼくはこの20年間ずっと考えてきた。別に本音をいったっていいじゃないか。基地負担がそんなに大変なら他県に住む日本国民は喜んでお金を出すは ずである。でも彼らは基地負担を補助金で補償せよとはけっしていわない。最近になってその理由がようやくわかった。

 理由は最低二つはあると思っている。その一つは、 「米軍基地そのものを認めない」というスタンスを貫くためだ。そもそも米軍基地は沖縄にはあってはならないものだから、あくまで「お金の問題ではない」と 強調したいのである。補助金というかたちで補償金的な性格のお金を受け取れば基地の存在を認めることになってしまう。逆方向から考えれば、「カネを出すか ら我慢しろよ」とはいわれたくないのである。だからこそ、「日本政府が配分するお金ではこれまでインフラ整備が十分できなかった」という怪しげな話をタテ に補助金を求めてきたのである。

 もう一つの理由は、基地負担を多額の補助金の根拠にすると、一部の市町村しか補助金がもらえなくなるからである。

 これはいったいどういうことか。

 本土では「沖縄は基地に苦しんでいる」と思ってい る。ところが実情は違う。基地のある市町村は限られている。たとえば宮古・八重山地方に米軍基地はない(ただし、石垣市の沖合海上に二つの射爆場はあ る)。沖縄県の市町村数は41。これに対して何らかの基地のある市町村は24(石垣市含む)。しかも、この24の市町村のうち、たとえば那覇市には「港湾 施設」があるが、騒音や犯罪とはほとんど無縁である。石垣市の射爆場も基地被害はまずない。はっきりした基地被害があるのは、本島中部の嘉手納町、沖縄 市、宜野湾市、具志川市、北中城村、北谷町など、本島北部の名護市、金武町、宜野座村などに限られる。さらに、名護市のように相対的に広い行政区域をもつ 自治体の場合、その行政区域内で基地被害が明白な地域も特定される。だからといって、「基地負担・基地被害は軽微である」というつもりはない。しかし、 「沖縄全体が基地に苦しんでいる」というのはきわめて穏当さを欠いた表現だといわざるをえない。そのことは政治家、自治体関係者、ジャーナリスト、知識人 も十分承知しているはずである。県庁のある那覇の町にいれば、基地問題の深刻さを意識することなどまずありえない。マスコミ報道で被害を知るのみである。 つまり、基地被害・基地負担を根拠とした全県的な補助金の要求などけっしてできないことを、彼らはしっかり認識しているのだ。その結果、補助金の根拠は 「経済的遅れ」とされているのである。

 他方で、知事を筆頭に自治体幹部連や沖縄ローカルの ジャーナリズムおよび知識人の多くが「沖縄は基地負担・基地被害に苦しんでいる」と主張している。それが大きな圧力となって多額の補助金が配分されている ことは、東京の小学生でも知ってる。ほんとうに負担や被害が全県的な問題なら、これを表向きの理由に掲げても誰も文句はいわない。しかしながら、けっして そうはなっていない。あくまでも基地負担は裏側からの圧力である。基地負担を根拠に補助金を算定するとなると、負担の度合いを客観的な基準で計測しなけれ ばならない。そうなれば、現在一部の特別交付金の算定基礎となっている「基地面積」「勤務する米軍人軍属の実数」などが基準となり、基地負担のない市町村 や基地負担の少ない市町村は補助金がもらえなくなってしまう。したがって、「沖縄全体が基地負担に苦しんでいる」というのが補助金獲得のための裏根拠とし て使われているにもかかわらず、これを表に出して予算折衝をすることは今後もありえないことだろう(続く)。

批評.COM  篠原章
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