夏の終わり(ペナン〜沖縄)(2)

1998年9月7日(月) あーよせばよかった新町めぐり

朝飯もそこそこの忙しさ、9時半には恩納村に。学生たちを引率して名護経由で本部・今帰仁へ。天気はまあまあ。途中、名護の宮里そばで17人いっせいにそばを注文。他に美味しいそば屋もあるのだが、17人いっせいに注文できるそば屋でまともなところは少ない。

海洋博記念公園のエメラルド・ビーチへ。みんなコバル ト・ブルーに感激。ほんとうはこんなもんじゃないんだけど、と言いたいのだが、これも集団行動の宿命である。エメラルド・ビーチはいかにもといった印象の人工ビーチ。きれいだが無味乾燥。ただ、ここは清潔なシャワーとロッカールームがある。最近の学生は、潮のついた体で帰るのをいやがる。男でも、シャンプー、リンス、洗顔用石鹸、ボディ・シャンプーを一揃え持っている。ホテルの石鹸やシャンプーを使わない。基礎化粧品みたいなものをワンセット持参する連中もいるからシャワーとロッカーは不可欠みたい。

ぼくはチェアーとパラソルを借り、大学院受験の学生に英語を指導。半分眠りながらだが、こんなところで受験指導するなんて情けない。
5時にビーチが閉まり、備瀬の集落と今帰仁城を見物。9 月にもなると今帰仁あたりの山にはけっして本土では見られそうもない、独特の鳴き声をした蝉が出現する。カーン、カーンと鳴く蝉、しゃーしゃーと鳴く蝉。とんぼも種類が多い。学生たちはみんな驚いている。「これって蝉なんですか?」ぼくも沖縄初心者の頃にはずいぶん驚いたもの。蝉の声に聴こえないものね。 ただし、地元の人に聴いても何という蝉なのか種類が分からない。彼らにとっては日常だから関心もない。今帰仁と同じ蝉が日本中どこにでもいると思っている。那覇ですら同じ蝉はいないのに。人は自分の目の届く範囲しか基準にできないのだ。

夜、名護のとてもサービスの悪いドライブインで食事。ほんとうは読谷漁協の食堂に連れていって、イカスミでも食べさせたかったのだが、順調に行っても読谷に着くのは8時過ぎ。ひょっとしたら食堂は閉まっているかもしれない。最悪の場合、この人数では読谷のシーサイド・ドライヴ・インということになる。あそこは脂っこい。そこで、「海産物レストラン」と看板を掲 げている、この名護のレストランなら、ま、いろいろメニューもあるだろうと思って入ったわけ。ゴーヤーチャンプルーからステーキまであるにはあったが、学 生たちの評判はあまり芳しくなかった。ふだんこんなレストラン絶対に入らないんだけど、人数が多いと苦労も多いよ。連中はわかってるのかな、この苦労。

学生たちを送り届けた後、WOWOWの中西さんと落ち合うために那覇へ。もうすっかり疲れ切っていたのだが、約束していた手前むげに断れない。本部・今帰仁から恩納村経由で那覇は久米にある「天地」という店 に。ジャズと沖縄音楽の店。雰囲気はまあまあ。林賢の会社にいた新垣さん、WOWOWの若手ディレクター、コピーライター、それに中西さん。笑築過激団の メンバーが結成したグループ、フェーシの新譜をマスターに聴かされるが採点不能。名前は忘れたが、かなり上等な女性シンガーの生録りビデオを見る。ニューミュージック系だが可能性はある。中西さんと今度ライヴへ行きましょうということになる。泡盛をほんの2杯飲んで小一時間で解散。

デイゴへ戻ると学生たちから電話。今から行きますとのこと。もう1時過ぎてるのにさ。とんでもない連中だ。で、ちょっと待っていたら12人も来るんだもの、びっくり。学生たちの到着とWOWOW・中西プロ デューサの帰着が重なって、学生たちと一緒の写真を撮ってもらった。ありがたい。

ライカムにあるバラックへ行って軽く飲もうとしたら休み。参った。で、ふらふら運転しているうちに女の子が帰りたいと言い出したので、どうぞと。男だけになったからこりゃいいやと、一路、新町こと真栄原社交街へ。今思えばどうかしてた。疲れ切っていたからね。車を止めて学生たちと真栄原を歩いて一周。みんなけっこう興奮してたけど、こんなことしちゃっていいわけないよな。後から考えるとまずいことしちゃったかも。自分は教育界に身を置く人間だということを時として忘れてしまう。最近、それが激しい。自戒自 戒。2月に橋本さんと行った焼き肉屋はどうもつぶれたらしい。看板はあるが真っ暗で営業の形跡もない。残念。

帰りがけゴヤ十字路のジャンク・ボックスで軽くビールを一杯。ここにも小一時間。時計をみると朝4時を回ってた。学生たちを帰してぼくもぐったりとベッドへ。

1998年9月8日(火) ビーチパーティは大盛況

10時頃起床。食堂で音楽評論家の青木誠先生と歓談。音楽評論の世界ではすでに長老だが、フットワークは軽い。失礼になるかもしれないが、このお年まで音楽を聴き続ける自信は、ぼくにはない。

きょうはムーンビーチの隣りのタイガービーチでビーチパーティを決行する日。天気も上々。食材の準備はデイゴホテルにおんぶにだっこで、キロあたり150円のバーベキュー用牛肉5キロとおにぎり50個、焼き鳥50本、野菜も切ってもらうことになっている。ホテル中の人がビーチパーティいいですね、だって。ぼくも楽しみではあるが、金のことと沖縄側で来てくれる人の人数が心配。やちむんの奈須重樹にタイガービーチの予約と酒の準備を頼んでいたが、タイガービーチは時間貸しで、そのレンタル時間の単位がものすご い。午後6時から朝8時までだって。14時間じゃあないの。いくらウチナーンチュでも夕方から朝8時までビーチでどんちゃんやるわけない。どうもパーティ が終わってからそこで寝込む人がいるらしく、その分の時間も入ってのことらしい。いかにも沖縄である。が、このレンタル時間じゃ我々にはやりにくいということで、無理を言って午後1時から夜10時という借り方をしてもらった。すっかりヤマトーンチュだよな、借りる時間帯が。終電意識はそう簡単には変わらないね。ちなみに料金はテント一個あたり7000円程度、むろんコンロや鉄板などバーベキュー・セットもついての値段。

パーティが始まる5時まではフリータイム。林賢の新しいスタジオを見学したいという学生が二人いたので、午後1時頃、北谷のアメリカン・ビレッジにあるアジマァ(林賢のオフィス)へ。学生二人を連れての訪問。 林賢も歓迎してくれた。まだ、機材のセッティングは終わっていないが、建物はおおむね完成していた。予想よりはるかに素晴らしいスタジオ。ほんとうに海が目の前で最高の環境である。設計もナチュラル、ほどほどの前衛でなかなかのもの。

5時、食材を積んでタイガービーチへ。なんだか昔の湘南 の海水浴場みたい、と思ったが、海は湘南とは比べものにならない。6時頃奈須重樹がやってきた。奈須、ますよ、寿のナビイ、那覇のわしたショップに勤める やちむんファンの女性。奈須重樹ジュニア、4歳の日向郎もいっしょだ。早速準備にとりかかる。学生たちはいつのまにか役割を分担していて、とくに指示しな くても準備は進行する。女の子たちもよく働く。誰かが必ず日向郎をからかってくれているので奈須も安心している様子。

暮れてくるにしたがって酒も入り盛り上がる。いつのまにか琉球大の八重山民謡研究会で活動する奈須の友人の学生、首里のライヴハウスの支配人、近くに住む写真家の垂水健吾さんのファミリーまで加わって、総勢25人は超える。にぎやかに夜は更けていく。すっかり暗くなってからナビイと琉大生が三線で八重山民謡を疲労。岩場のシルエットが月明かりに浮かび上が り、波の音が三線に絡む。もう最高のシチュエーション。やちむんもバラッドを中心に10曲以上歌う。学生たちは聞き惚れ、半数は涙を流している。ぼくもやちむんの歌は大好きだが、学生たちにこんなに訴える力があるなんて、考えもしなかった。奈須は、月と海と酒と歌というシチュエーションなら誰でも感激する さ、と謙遜するが、やちむんの歌で心が洗われるのはぼくたち<汚れちまった>大人たちだけじゃないと知った。ノーギャラは申し訳ない。

10時を回っても、タイガービーチの事務所(タイガー観光という会社である)の人が「時間ですよ」といいに来ないので、結局宴は12時過ぎまでつづいた。よく見たら事務所はもう閉まってた。なーんだけっこうテーゲーじゃないの。時間制なんてあってないようなものだ。学生たちはみんなすっかり満足した様子。後かたづけもしっかりやってくれた。みな、やちむんやナビイに「ありがとうございました」といって帰投。気分良く寝られるはず。苦労して準備した甲斐があったというものだ。といってもぼくの仕事はまだ終わっ ていない。学生の宿泊するホテルのロビーで、大学院受験生のT君と英文講読。デイゴホテルに戻ったのはまたまた4時過ぎであった。

1998年9月8日(火) 解放の日

10時頃起床。今日は学生たちから解放される日である。 寂しいような嬉しいような。洗濯などに追われているうちに、学生たちがデイゴへ到着。一緒に那覇の公設市場へ。ショッピングの時間を1時間ほどとった後レンタカー屋経由で空港へ。道を間違えたりしながらもぎりぎりセーフでフライトに間に合った。

解放されてほっとしたら急におなかが減ってきて空港内の食堂でそばを一杯。それから奈須重樹の自宅へ。奈須が日向郎を保育園に迎えに行っている間にますよとCOCCOの新作を聴く。ぴんとこないがこんなものかな。どこか作為的なんだよな、ナチュラルじゃない閉塞感あり。

ナビイと待ち合わせて日向郎含む5人で居酒屋へ。昨日のギャラ代わりにごちそうしました。で、デザートはちょっと洒落たレストランへ。こちらは奈須のおごり。
奈須たちと別れて、沖縄でもっとも有能な編集者のひとり、野田隆司と北谷のミスタードーナッツで落ち合う。沖縄本関係の話に花が咲く。野田によれば『ハイサイ沖縄読本』の改訂版が待ち望まれてますよ、とのこと。また、いっしょにやりましょうということになる。

デイゴに帰ったのは今夜も2時過ぎ。忙しいといえば忙しいが、沖縄での忙しさは許せる範囲だな。少なくとも胃は痛くならないからね。

1998年9月9日(木) 嘉手苅林昌のスパゲティ

学生たちが帰って久々にゆっくりと朝食、天気もまあまあ だから洗濯もできるな、と食堂に降りていくと先客あり。飄々とした老人が、ハンバーグに添えられたケチャップ風味のスパゲティをチュルチュルチュルルとすすっている。薄い青地のワイシャツのボタンを首もとまでしっかりと留め、背筋をしっかり伸ばしての食事である。おれはいつもこれと同じ姿勢で歴史と戦ってきたのだといわんばかり。沖縄民謡界最大の歌者・嘉手苅林昌である。ステージは何度も見たことのある林昌だが、その暮らしの一端を覗いたのは初めてなので感動。フォークとナイフを職人のように操ってハンバーグとライスも平らげて水を一杯のみ干すと「お姉さん、お代」とお金をおいてやはり飄々と出ていった。 その間10分あまり。

午後、再び林賢と会って、この話をすると、林賢が高校時 代下宿していたアパートに林昌が住んでいて、スパゲティをつくって毎晩食べていたそうだ。どんなスパゲティをつくっていたんだろう。気になる。昭和30年代末の話だから、ペペロンチーニとかではないはず、やはりナポリタンか?
友人の岩戸佐智夫は、民謡クラブ「姫」で林昌と遭遇、意気投合して杯を交わし合い、歌まで歌ってもらったというから、それにはかないようもないが、ぼくの沖縄経験のなかでは記念すべき出来事だった。

1998年9月10日(金)

帰京する日。昼頃からものすごい雨が降り出した。真栄原の沖縄専門の古本屋に寄りたかったので早めに出たのだが、雨のおかげでどこもラッシュ。本屋にはわずかな時間しかいられなかったが、初めて『ハイサイ沖縄 読本』を発見。これまで20軒以上の古本屋で探して見つからなかったわが愛著である。値段をみたらなんと3000円。定価は1600円ですよ、これって。 嬉しいような困ったようなである。結局、買うのを断念して空港へ。ぎりぎりセーフでJAS便に間に合った。

なんだからあわただしい沖縄であった。

1998年9月15日(火)~9月16日(水)再び合宿~今度は九十九里の夜空

子供の頃の夏は外房だった。生まれた頃から中学生になる までの10年あまり、荒々しい九十九里での日光浴や犬吠埼周辺の磯遊びの記憶ばかり。母の実家が銚子の手前の旭という街にあったので、夏休みになると甲府からたらたらと電車に乗って(電車といっても当時は中央本線も総武本線もディーゼル。あの頃は両国で乗り換えた)、5時間近くかけて旭まで行って、そこでひと夏過ごした。

旭には、医者であった祖父と、母にとっては継母の祖母がいたが、たいていの場合、母の姉たちとその子供(いとこ)が先に到着していて、いつも親戚同士がわいわいと過ごす夏休みだった。ちょっとした定食屋並みの、十人は腰掛けられる食堂があったが、親戚が集合するとたちまち狭い部屋になった。表通りには白い門構えの病院、そこから長い渡り廊下に沿って緑の芝生を敷き詰めた中庭がつづき、母屋と離れと茶室が棟続きになっていた。今思えば巨大な屋敷で、おまけにトウモロコシや茄子やトマトがたっぷりとれる畑を防風林が囲んでいたから、遊び場には事欠かなかったはずだ。が、ぼくはいつも渡り廊下の隅っこの床下にいて、仄かに潮の香りのする白っぽい砂で一日中遊んでいた。あの砂がもともとそこにあったものか、どこからか運んできたものかは今では謎なのだが、きめ細かい白い砂に手を突っ込んだときの、なんともいえない冷たい感触が忘れられない。

1998年の外房は颱風一過の透明な夜空が広がっていた。満天の星、新月だったが、星の瞬きだけで十分明るかった。目を凝らすと、成田に向かう、あるいは成田から離れたばかりのジェット機が、幻想的なオレンジ色のライトを点滅させながら上空を通過する。まるで渡り鳥のように、その数を特定するのは難しいほど、360度見渡すと、7~8機いや10機程度が夜空に舞っている。九十九里浜はまるで夜空の交差点だった。
お尻の下には白子中里海岸の黒っぽい砂でこしらえた小さな腰掛け。颱風で打ち上げられた無数の木片や海草が痛々しいが、背中越しに学生たちが花火に興ずる声。連中は浅草橋で買ってきた1万5千円分の打ち上げ花火で大騒ぎ。

25人を引き連れての合宿はさすがに疲れる。9月15日の夕方から各学生に研究課題をプレゼンさせたのだが、初日はわずか4人で時間切れ。夕食後、8時過ぎから卒論と就職のための個人面談。1時過ぎまでがんばったのだが、それでも10人近く残ってしまった。16日は颱風の凄まじい風に揺さぶられる宿舎の会議室で朝9時から1時までと、夕方3時半から5時半までの2回に分けて残りの20人がプレゼンを終えた (ひとりだけ準備不足を理由に“プレゼン忌避”)。午前中は颱風のおかげで停電、南から颱風が連れてきた生温かい、湿っぽい風が室内を蒸したが、午後はエアコンも復活。だが、ぼくの疲れはピーク。夕食・花火の後に個人面談を9人分。今年の3年生は「フツーのサラリーマン志望」が少ない。これはかなりやばい事態である。どうしても出版社、ぜひとも放送局、はたまたデザイナー志望までいる。マスコミはたこ部屋みたいなものだと説いても、憧れは容易に醒めそうもない。 面談を終えてもまだまだ夜は終わらない。26人うちそろっての宴会が待っている。ほんとうはもうくたくただったが、ビールを1杯、焼酎のグレープフルーツジュース割を1杯。救いとなったのは花火の最中に見た夜空の記憶だけ。11時半過ぎ、狂乱の宴席を抜け出して東京へ。東金付近を彷徨いながら千葉東金道路へ出て1時半近くに自宅着。

もうすぐ夏休みも終わる。

批評.COM  篠原章
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