川勝君と黄昏れる

YMOのコマ劇場公演ウィンター・ライヴ1981

1981年12月24日 YMOのコマ劇場公演(ウィンター・ライヴ1981)でのスナップ。左端が川勝君。

川勝正幸君があり得ないような事故で亡くなってしまった。ショックは今も尾を引いている。辛い。

 特別な存在だった。そのことはすでにfacebookやツイッターにも断片的に書いたが、ここでも触れておきたい。

 たぶん1977年前後だ。つかこうへいの芝居で川勝君に声をかけられた親友の伊東武彦君を介して付き合いが始まった。川勝君もぼくもともに“はっぴいえんど至上主義者”の大学生だった。同志であり、盟友だった。

 当時の川勝君の外見はお洒落とはほど遠かったが、そ の頃からお洒落なモノと情報に対する触覚と嗅覚は人一倍優れていた。マニアックなんて言葉も知られていない時代だが、徹底してモノや情報を集めるこだわり の男、努力の人だった。初めて川勝君に会ったとき、「あの篠原クンでしょ?」といわれて驚いた記憶がある。大瀧さんがDJを務めていた「ゴー!ゴー!ナイ アガラ」(ラジオ関東時代)に“ナイアガラ浪人サークル会長”を自称して投稿していたぼくのことを、エアチェックしたテープを聴き直してあらかじめ調べて いたのである。

 話題の中心はもちろん“はっぴいえんど”だったが、 当時の最先端を行くライブや芝居の大半は川勝君と一緒に観ている。YMOも山下達郎も大瀧詠一(DJパーティ)も、つかこうへいも野田秀樹も竹中直人&シ ティボーイズも、そして来日外タレも。ときにはぼくのために、前の晩から徹夜で並んでくれたこともあった。

 まだ健在だった麻布十番温泉で、川勝君の誕生会を 大々的に催したこともあった。何度かリハーサルをした後、近所のおじいちゃんやおばあちゃんを前に、ステージで川勝君と一緒にはっぴいえんどを熱唱した。 川勝君の結婚式でぼくは“CLOSE YOUR EYES”を歌い、ぼくの結婚式では川勝君が司会を引き受けてくれた。

 ふたりとも音楽を愛し、芝居を愛し、活字の世界に焦 がれていたが、ぼくは大学教員・研究者への道を選んだ。が、川勝君はメディアの世界へと突進していった。 浅井慎平さんのご子息の家庭教師に“抜擢”されたことが縁となって、まもなく広告代理店に就職した。キッコーマンの『ワインクラブ』というワイン頒布会広 報紙の編集が最初の大きな仕事だったと思う。毎号、入れ替わり立ち替わり著名人が「責任編集」するスタイルの雑誌だったが、実質的には川勝君がほぼ一人で つくる雑誌だった。事務所に寝泊まりする生活はその頃すでに始まっていた。加藤和彦・安井かずみご夫妻が責任編集する号のときはいつになくコーフンしてい たが、その企画の一環でご夫妻と一緒にヨーロッパを旅して帰国したときは、すっかり憔悴しきっていた。よほど気を遣ったのだろう。

 やがて代理店を辞め、テレビ、ラジオの台本を書きな がら、映画やライブのパンフ、マガジンハウス系雑誌などの記事を手がけるようになり、彼独自の丁寧な手法で「ポップの磁場」を作り始めた。当時川勝君の事 務所は千駄ヶ谷にあったが、ぼくの自宅はそこからほど近かった。サエキけんぞうが所属する事務所(高護さんが社長)もそこから歩いて数分のところにあった ので、3人でぼくの家に集まり、「ロックとはなにか」「ポップとはなにか」と飲みながら一晩中議論することもよくあった。あの頃は「日本にはロックなんて ない、あるとすればポックだ」なんて3人で騒いでいた。「いつかここでの話を本にしましょうよ」と川勝君が提案し、テープまで録った。テープ起こし原稿ま でできていた記憶があるが、あれはどうなったんだろう。

 ぼくも大学に勤めながら音楽評論活動を始めていたの で、80年代後半から2000年頃までは、川勝君とした仕事も少なくない。『日本ロック大系(上)(下)』(白夜書房)の執筆陣にも加わってもらったし、 高護さん、黒沢進さん、中村俊夫さんなどといっしょに作業した70年代フォークやロックの復刻の時も手伝ってもらった。ティン・パン・アレーが復活したと き、プログラムの一部をぼくが執筆したのが最後の共同作業だったように思う。2005年にぼくが出した『日本ロック雑誌クロニクル』を執筆するための資料 も、川勝君から多数提供を受けている。資料は今も借りっぱなしだ。

 7〜8年前、ぼくがガイド役を務めて川勝君と沖縄を 旅した。朝日新聞の宮崎健二記者も途中合流した1週間ほどの旅。りんけんバンドやかっちゃんや“やちむん”のライブを楽しみ、あちこちでジャンクフードを 食べつづけた。数あるジャンクのなかで、川勝君は、公設市場二階の食堂「ふるさと」のもやしチャンプルーがとくにお気に入りだった。ぼくが知るかぎり4回 は注文している。どうってことのない食堂のどうってことのないもやしチャンプルーなのだが、「どうってことのないこと」の魅力を深く感じとってくれた川勝 君らしいアンテナがステキだった。訃報がもたらされたとき奇しくもぼくは沖縄にいた。近くにいなかったことを悔やみながら、「ふるさと」に足を運び、もや しチャンプルーで魂を弔った。ヘンな弔いだが、正しい弔いだという気がした。宮古島や石垣島も一緒に行きたいね、といっていたが、もう果たせぬ夢である。

 3年ほど前、川勝君と新宿ゴールデン街「プラスチッ クモデル」の関根君から、「お店のアニバーサリーがあるから一緒にトークしましょう」と誘われたことがあった。「山下達郎の沖縄公演に行くから引き受けら れない」と断ると、「沖縄と山下達郎の組み合わせじゃ、篠原クンがそっちを選ぶのは仕方なし」と笑っていた川勝君が懐かしい。

 大学に嫌気が指し始めていた2年前、川勝君は自分が プロデュースした松本隆さんのアニバーサリーコンサートに招待してくれた。打ち上げでは高校の同級生の武部聡志に久々に会い、沖縄のアーティスト“やちむ ん”をプロデュースしてもらった鈴木茂さんとも再会した。もちろん、松本さんの話も聞いて、『ミュージック・マガジン』に記事も書いた。川勝君は、ぼくの 追い詰められた心情を察した上で招待してくれたわけではないのだが、川勝君のつくった「ポップの磁場」は、川勝君とはまったく別のアプローチでポップに関 わるぼくにも勇気を与えてくれた。

 ぼくは昨年からずっと半死の状態にある。川勝君はそ のこともずいぶん心配してくれた。その話も川勝君とちゃんとしなければと思っているうちに、予想もしない訃報に接することになってしまった。川勝君と一緒 に、同時代のポップを総括するような仕事がしたかった。それが残念でならない。

 悲しんでばかりもいられないが、悲しみは深く、心が宙を彷徨う日々が続く。まだ合掌はしたくない。

批評.COM  篠原章
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