やちむんヒストリー24/25 祝・結成25周年

奈須重樹のユニット、沖縄を中心に活躍する〈やちむん〉が結成25周年を迎え、4月29日、沖縄最古といわれる「首里劇場」で記念ライブを行います。

やちむん結成25周年ライブat首里劇場 15時〜/19時〜(2回開催) 前売2000円 当日2500円 出演:●やちむん刺激茄子(奈須重樹/さとうこうすけ/長谷川淑生/育/比嘉正一郎/ヤギフミトモ)●ゲスト 有田康信/ 島田篤/和田充弘/関島岳郎(栗コーダーカルテット) ●シークレットゲスト 新○○人/ロ○リ○

この記念ライブに向けて作成されたタブロイド判パンフレット「しげなすノート」に、篠原はやちむんの歩みをまとめた長文「やちむんヒストリー24/25」を寄稿しました。批評.COMではその全文を掲載しました。

やちむんヒストリー25分の24

音楽評論家 篠原 章

 僕らの「やちむん」が星霜を重ね、結成から25年という節目を迎えた。やちむんが誕生したのは1991年、「キング・オブ・やちむん」こと奈須重樹さんと僕との付き合いが始まったのは1992年だから、やちむんの歩みの「25分の24」を知っていることになる。
奈須さんに初めて会ったのは、恩納村にある万座ビーチホテルだ。その頃の僕は『ハイサイ沖縄読本』(宝島社・1993年3月刊)という〝特殊観光本〟を執筆中で、同書で使う写真を撮影するカメラマンを探していたが、執筆協力者だった新城和博さんに候補者として紹介されたのが、「ナス・シゲキ」なるカメラマンだったというわけだ。
当時、世界的に人気の高かった日本のサルサ・バンド、オルケスタ・デ・ラ・ルスによる万座ビーチでのライブ取材を兼ね、ゴールデンウィークの最中の4月29日、奈須さんとホテルのロビーで待ち合わせた。このライブの撮影も奈須さんに依頼していたが、「スタッフが知り合いだから大丈夫よ」といいながら、奈須さんは、内地から来たカメラマンなら入れない立入禁止エリアにまで入りこんで、縦横無尽にシャッターを押しつづけた。その姿を見て、『ハイサイ沖縄読本』の写真も奈須さんにお願いする決心をした。
その後、何度か会って打ち合わせするうち、奈須さんが呟くようにいった。
「僕、バンドやってるんです」
「へえ。なんていうバンド?」
「やちむん、っていうんです」
「あ、焼き物の意味だよね」
あか抜けないネーミングだと思ったが、口には出さなかった。
「いつか聴かせてよ」とはいったものの、その機会が訪れないまま、『ハイサイ沖縄読本』の新しい沖縄音楽を紹介するページに、やちむんの記事を書いてしまった。音楽評論家として、聴いたことのない音楽を紹介したのは、後にも先にもこれ一度きりである。
初めてやちむんを聴いたのは、1993年2月の東村のつつじ祭でのことだった。りんけんバンドが出演するというからつつじ祭りに馳せ参じたのだが、その前座がなんとやちむんだったのである。
この時のやちむんは、ベースとドラムを欠いているにもかかわらず、ホーンセクションを含めて総勢6人はいたと思う。リズム隊がなければ普通はフォークだが、フォークという枠組みでは捉えきれない。かといって、ずばりロックというわけでもない。コード進行やメロディには意外性があったが、素人丸出しという見方も可能だった。ヘンチクリンだが、記憶の片隅を妙にくすぐられる、個性的な歌ばかりだったことは確かだ。
終演後、奈須さんから感想を求められたが、どう返答したのか正確には憶えていない。たぶん「よくわからないが、可能性を感ずる」と素直に答えたと思う。
やちむん最初の作品となるカセット・アルバム『チムがある』を聴いたのは、その直後のことだった。音楽的には荒削りとしかいいようがなかったが、「モクマオウのトンネルを抜けて」「君といっしょに」という2曲のバラッドには心を奪われてしまった。図らずも、十代の頃の忘れていた記憶が次々甦った。「パイプラインそばでそばを食べて」「タコス屋で逢いましょう」の潔さにも脱帽した。音楽的な意匠をこらすことを半ば放棄したストレートな歌詞とサウンド。説明がなければけっしてわからない歌詞なのに、説明がなくともわかった気にさせてしまう不思議な力もあった。「マキシ・オン・マイ・マインド」「バイバイバルブボックス」の切なさも魅惑的だった。やちむんを応援する宿命のようなものを感じた。
早速「もう少しちゃんとしたアルバムをつくろう」と提案して、当時胡屋十字路のパチンコ屋の2階にあった照屋林賢さんのスタジオを借りる段取りをつけた。りんけんバンドのドラマーだった上地一成さん(現しゃかり)がディレクター兼エンジニアとして手伝ってくれることになった。
この頃のやちむんは、奈須さんと、沖縄県立芸術大学を中退してやちむんに「就職」した山里満寿代さん(ヴァイオリン)のデュオになっていた。収録曲を選ぶため、録音の日が近い新月の深夜、人気のないパークアベニューの植え込みに腰掛け、やちむんに演奏してもらった。寂れた歓楽街に、やちむんの歌はよく似合っていた。
そこで誕生したのが『プリン』(1996年12月)だ。恩納村・瀬良垣ビーチ(2016年3月現在閉鎖中)へと誘う橋が青い空と碧い海にくっきり映えている。盤面にプリントされたやちむんの似顔絵は、夏目房之介さんにお願いしたものだ。音も温かくクリアで、当時のやちむんの持てるものすべてが織りこまれていた。今となっては気恥ずかしいが、『プリン』の帯用に書いた「心の時計をちょっとだけもどしてください。懐かしくて新しいタイム・トラベルの始まりです」というキャッチ・コピーは、仕事としてさんざん帯コピーを書いてきた僕にとっても自信作だった。
『プリン』を携えて、レコード会社やプロダクション、雑誌社などを訪ね歩いた。こちらの目当ては「やちむんのメジャー・デビュー」だったが、思惑通りには運ばなかった。当時仕事での絡みがあった矢野顕子さんに『プリン』を聴いてもらい、『「イチャンダビーチ」が好き』というコメントを頂戴したのが最大の成果かもしれない。そういえば、『プリン』が誕生する前年、僕の開催した私的なパーティで、細野晴臣さんを前にやちむんに歌ってもらったが、この時は残念ながら感想をもらえなかった。ほぼ同じ頃、やちむんのことを大瀧詠一さんに電話で説明したこともあったが、大瀧さんもあまり興味を示さなかった。
ルポライターとして活躍していた岩戸佐智夫さんがやちむんの応援団だと知ったのは、『プリン』が出来上がった頃のことだ。『プリン』にも岩戸さんのボイスが収録されている。岩戸さんもやちむんを取り上げるよう雑誌社に売りこんでくれた。
「メジャー・デビュー」という野望は容易にかなえられなかったが、やちむんの沖縄内外での精力的なライブ活動と、岩戸さんや僕などのメディアへの働きかけが功を奏したのか、しばらくすると、やちむんは「内地で最も有名な沖縄の無名バンド」といわれるようになった。
2作目となる『トゥナー、ストゥ&ピーツァ』(1998年7月)には、名曲「ロード・トゥ・ナミノウエ」が収録されている。この曲は、1960年代後半から1970年代初めにかけての波の上(那覇市辻)を舞台に展開する甘く切ない曲だ。波の上にあったステーキ・ハウス「ステーツサイズ」(現在は閉店)のジュークボックスに収められていた、異国からやって来たロック・バンドのシングルがモチーフだが、そのバンドがカナダのミュージシャン、Ronnie Frayのバンドだと判明したのは10年以上経ってからのことだ。
表題曲「トゥナー、ストゥ&ピーツァ」も名曲で、外人住宅という切り口から青春歌謡をつくってしまったやちむんには脱帽した。何気ない日々の暮らしから人間世界の深淵を覗くようなやちむん独特の楽曲づくりが定着したのもこのアルバムだ。「風が見える、海が聴こえる、月も微睡む」が本作のキャッチ・コピーだが、やちむんのフォトジェニックな世界の広がりには感激した。センチメンタル・シティ・ロマンス中野督夫さんの参加も彩りを添えている。満寿代さんがボーカルに力を入れ始めたのも本作以降のことで、やちむんファンならぬ満寿代ファンも以後急増した。
この時期は、やちむん楽曲をメジャーなアーティストに売りこもうとプロダクション詣でを重ねており、無謀にもジャニーズ事務所に足を運んだこともある。SMAPを念頭におき自信を持って売り込んだが、噂のマネジャー女史に丁重に断られた。無念。
20世紀の最後を飾った3作目『ニューハウスミュージック』(2000年3月)も斬新なアルバムだった。慶良間諸島にある小島・慶留間島にある屋号「新屋」(英訳が「ニューハウス」)を持つ民家で合宿録音された本作から漂ってくる「島の時間」を愛おしいと思うファンも少なくないはずだ。「空色のペダル」に見られる少年時代の時空感覚も捨てがたいが、島の暮らしを切り取った「パラソル組合」や奈須さんが那覇市宇栄原で遭遇した実在のドライバーを素材とした「wishbaru highway」などは、やちむんならでは。北中正和さん(音楽評論家)は「wishbaru…」がお気に入りだった。なお、奈須さん自身も「最も記憶に残るアルバム」として本作を挙げている。デュオでなく、バンドとしてのやちむんを世に問う最初の作品だったからかもしれない。
21世紀最初のアルバムである4th『チムがある』(2001年3月)は2枚組。カセット『チムがある』をCD化しただけでなく、それをセルフカバーした『チムがある 2001』も制作されている。収録曲については紹介済みなのでここでは割愛したい。
2003年11月リリースの5th『そばとロックの日々』は、等身大の世界を描くやちむんの世界が頂点に達した作品だ。「沖縄ソバを(小)を愛する人なら思わずニタニタしちゃう上等スモール・ハッピネス」というキャッチ・コピーにもあるように、本作には「この世界は、人びとの小さな幸不幸、小さな喜怒哀楽が折り重なることで成り立っている」という奈須さんの世界観が土台にある。「そばとロックの日々」「バディ、ハニー」などがその代表例だ。今もライブでお馴染みの「恋とライブと弁当は足りないくらいが丁度いい」も本作収録だが、特筆すべきは「台風天国」。この楽曲については、當間早志さんが監督したPVが製作されているが、これは日本ポップスPV史に残る一大傑作だ。奈須・當間という二つの才能が合体して、比類のない映像世界が展開されている。
『そばとロックの日々』リリースから半年ほど経った2004年の4月末から5月上旬にかけて、学生時代からの親友である川勝正幸君(エディター)をエスコートして、僕は沖縄を旅している。その折にやちむんを紹介し、那覇市栄町の居酒屋「生活の柄」の二階を借り切って、川勝君と篠原の友人だった某全国紙文化部所属のM記者を前に、贅沢なプライベートなライブをやってもらった。ライブが終わってから、「やちむんはこんなに素晴らしいのになぜ売れないか」をテーマに皆でケンケンガクガク議論し、川勝・篠原による改善策を提案した。改善策は「奈須色を薄め満寿代色を前面に出す」だったが、やちむんにはその場で却下されてしまった。
6th『床屋の孫』(2006年12月)は、やちむんとして初めてプロデューサーを立てた作品で、細野さん、大瀧さんに対する「雪辱戦」とでもいえそうな(?)鈴木茂さんのプロデュースと録音。元はっぴいえんどの鈴木茂さんである。ダメ元で交渉したが、茂さんは快く引き受けてくださり、その後一度だけだが、吉祥寺MANDA-LA2でのライブにゲスト出演してくださった。やちむんが初めて「音楽」を本格的に追求した作品というと失礼だが、じっくり聴くとそれ以前にはない深みのあるサウンドが奏でられている。茂さんは、モノクロ系の渋いやちむんワールドをつくりあげたが、もっと広く聴かれてよい作品である。「床屋の孫」「Maybe Malaria」「新版ソウル沖縄移民数え唄」など個性的な作品が揃っているが、「宮崎も沖縄もインドも結局は同じじゃん」という視点は、ありふれていそうで、実はとてもクールで新しい視点だった。このアルバムのプロモ用チラシには、サエキけんぞうさんからも言葉を寄せてもらった。
『床屋の孫』であらたな方向性を見いだしかけたやちむんだったが、予想もしなかった事態が発生した。2008年2月、満寿代さんがやちむんから脱けてしまったのだ。ファンのあいだに大きな衝撃が走り、一部の満寿代ファンはやちむんから離れた。やちむんサポーターは、「満寿代脱退事件」の話題でもちきりだった。彼らの魅力は何より楽曲だと思っていた僕でさえ、奈須=満寿代のやちむんしか知らなかったので、満寿代脱退の後遺症から立ち直るのに2年ほどかかった。熱心な応援団だった岩戸さんしかりである。
が、少なくとも表面上、奈須さんは「どこ吹く風」だった。満寿代さんのヴァイオリンのフレーズを補うべく、ギターの表現力向上に淡々と取り組んでいるかのように見えた。
そんな「逆風時代」を支えてくれたのが関島岳郎さんだ。僕らがおろおろしているあいだに出来上がった7thアルバム『ふるさとは胸にセマルハコガメ』(2009年6月)をプロデュースし、「フルサトハムネニセマルハコガメ」「明日天気になぁれ」「さぁふぅふぅ」といった名曲を巧みに仕上げてくれた。池澤夏樹さんのライナーノーツも胸に染みた。現メンバーのさとうこうすけさんは、「このアルバムがいちばん好き」といっていたが、奈須さんのちょっとした孤独感が、作風に力強さを与えたせいかもしれない。
やがて「新生やちむん」とでもいうべき時代を迎える。毛利甚八さんによる愛情溢れるエッセーが添えられた、結成20年記念首里劇場ライブ『やちむんLive at 首里劇場(2012年4月)を経て、『青春の落とし前』(2014年3月)がその第1弾としてリリースされた。さとうこうすけさん(ドラム)、長谷川淑生さん(フルート)という二人の新メンバーを迎え、やちむんは見事に生まれ変わった。
しかも、傷だらけになってしまった僕らの21世紀を朗々と歌い上げた、稀に見る大傑作「一生売れない心の準備はできてるか」と、「ヒッピー」を主役にした名曲「ヒッピーと結婚しよう」を引っ提げての登場だ。
新生やちむんの第2弾は、時代に逆行する流儀に長けた奈須さんらしく、カセット・オンリーの『人生はロード・ムービー』(2014年12月)。ムード歌謡然としたジャケット写真の佇まいも衝撃的だった。
新しいやちむんは、時代に抗いながら時代の甘い蜜を求めてもがく、「清く正しい情けなさ」を具えた中年男たちへの讃歌を謳う一方で、今も「記憶の魔術師」として僕たちの生きてきた時空間や僕たちのささやかな幸不幸をやわらかく切り取って、さりげなく映しだしてくれている。
この原稿に登場した岩戸佐智夫さんは2011年2月に、川勝正幸君は2012年1月に、それぞれ不慮の死を遂げ、2015年11月、毛利甚八さんも鬼籍に入った。次の5年あるいは10年、僕たちが生き延びられるかどうか全くわからない。が、僕たちにはもはや失うものは何もない。よろけながらもやちむんと共にあれば、記憶の彼方から小さな「勇気」が生まれるかもしれない。信じられるものがあれば、それがたとえささやかなものであっても未来に紡いでゆく。それがやちむん流だ。やちむんの25年を心から祝福したい。

しげなすノート(1)

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しげなすノート(2)

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