栄町夜話・カラハーイ開業

1998年10月30日 栄町夜話

寝不足で朦朧としながら4時間目の授業を終え、先輩教授と新学部について短い打ち合わせをした後、学校のバスで東武練馬へ。東上線で池袋へ出て、軽く立ち食いそばでもと思ったが、池袋駅には「味彩」ぐらいしかない。最近社名の変わった日本食堂がJR各駅で急展開中の立ち食いそばチェーンである。だらっとした麺と後味の悪いつゆでは今日は満足しないだろう。お揚げと若芽の入ったあじさいそば320円は安いが、ただそれだけのことである。ホーム地下の立ち食いそばもよろしくない。で、池袋から巣鴨に出て弘済会が経営する「更級」へ。ぼくの大好きだった千駄ヶ谷駅の立ち食いそば屋の姉妹店である。千駄ヶ谷ほど美味しくはないのだが「味彩」に比べればはるかにまし。しまった味のする立ち食いそばである。

350円の天ぷらそばでいちおう納得して浜松町経由で羽田へ。JTA(旧南西航空)の最終便で那覇に向かわなければならない。羽田ではJASもミソっかす扱いだが、JTAとなるともうおまけ以下の扱いで、ゲートから延々とバスに乗ってエプロンまで行き、久々にタラップを上がらなきゃならなかった。離島専用機のためか座席はひどく狭く、これで2時間半も乗るのかと思うとぞっとするも、スチュワーデスの比嘉さんや上原さんが典型的なウチナー面だったので、ま、いいかと相成った。片道1万6千円だしね。しょうがない。

11時に到着したのは第2ターミナル、離島専用の鄙びたターミナルである。タラップを降りて到着ロビーへ。いつものオリオンレンタカーに電話を入れて待つこと10分。ぼく一人のためだけに待っていたアルバイトの運転するワゴンで営業所に行き、例によってミラージュを借りる。室内灯が点灯しない1300CCのハッチバック車でナンバーは2766、この車を借りるのは3回目。ガソリンは満タン返しといわれて、燃料計をみると半分しか入っていない。アルバイトの与那嶺君が、ポリタンクのガソリンを重そうに燃料口へ。結局、ホテルサンワに着いたのは11時半過ぎ。荷物をほどいてすぐに波之上にあるステーキハウスの<ステーツサイズ>へ。ニューヨークステーキ1,350円を食べて、とりあえずホテルへもどる。

最近マッサージが旅の楽しみの一つになっている。10月半ばに神戸に行ったとき、とても上手な人に当たったので、今宵もマッサージをと頼んで待つこと10分。まもなくやってきたのは前にも揉んでもらったことのある指の太いおばちゃん。この人すごくへた。力は十分すぎるほどなのだがなにしろ指が太すぎる。40分のあいだ一度たりとツボを捉えない。しかも「きょうはサービスするね」と20分のおまけ。いやあおまけなんていらないよともいえずじっと耐える。3,600円は安いが苦痛に耐える60分間だった。

マッサージのおかげでかえって肩こりが増し眠れない。深夜1時半頃、エイヤとばかり起きあがって、タクシーで前島へ。泊港近くの色街。ピンクサロン風の店が密集している。ちょっと色気のある店で飲むのもいいかと思ったのだが、この街はやはり怖い。客引きの多さに恐れをなして、これまでもちゃんと足を踏み入れたことのなかった街だが、今回もタクシーを降りる前から「来るんじゃなかった」と後悔。いったんタクシーを降りるも、「若いお●●●が一万円」と言い寄る客引きを振り払うようにして別のタクシーに乗り込み、今度は栄町へ。

栄町への道すがらタクシーの運ちゃんに「前島にはフツウに飲める店があるの?」と聴いたら、「前島はダメですよ。クスリ飲まされて身ぐるみはがれちゃうから」という返事。いやあ、ほんとうにそうだったのか。「なにしろこの私が経験済みですから。いつクスリを盛られたのか最後までわからなかったけど、たいして飲んでもないのに急に意識を失って、気がついたときには道路に放り出されていた。もちろん財布はすっからん」だって。あぁ怖い怖い。

栄町は首里の入り口にある色街。ちょっとした規模の市場もあって、ディープな沖縄フリークなら要チェックの町。一見フツウの社交街なのだが、間口一間に満たない程度の「旅館」が密集した一角がある。「旅館」の入り口には物欲しげな様子の女性が立って力のない声で呼び込みに務める。多くがピンクの照明というところがまた妖しい。60代・70代も珍しくない吉原ほどではないが、30代後半から50代半ばぐらいまでの娼婦ばかり。

謎が解けた今はさすがにこうした旅館に騙されることはないが、沖縄初心者の91年頃、どこのホテルも満杯、迷い込んだこの街で「旅館」の表示を信じ込んで門を叩いてしまったことがある。

「すみません、旅行者ですが泊まるところがなくて」
「は~あ、お客さん、泊まりたいんですか?ここは普通の旅館じゃないんですよ」
「ええっ、泊まれない旅館ってどういうこと」と言いかけてようやく事態を呑み込んだ。

40代半ばの、どう贔屓目にみても口紅の濃い団地の小太り主婦にしかみえない女性は「ちょっと待ってください、ママさんに泊まれるかどうか聴いてきますから」といたって親切。

「女性が付くのは30分だけですが、その分も含めて一万円払っていただければ泊まってもいいそうです」
「あ、そうですか…。ちょっと他も探してみますから、また来ます」

結局、その晩は飲み明かすことに決め、久茂地のバーに直行して心を消毒するように泡盛を流し込んだ。なかなか充実した体験、と思うようになったのはだいぶ後のことである。

前島を這々の体で逃げ出したぼくは市場の入り口でタクシーを降り、ふらふらと歩く久々の栄町、「旅館」の火が消えていないのが、嬉しいような悲しいような複雑な心境である。一巡りするうちにとある旅館のお姉さん(45歳前後?)につかまってしばらく話し込む。この近所にいい飲み屋はないかと問うたら、「ここでも飲めるわよ、あたしをつまみに食べながら」という答え。2月に沖縄を旅したとき同行者だったソムリエ志望の仏文学者・橋本さんは「哀愁に満ちたブスがいい」といってぼくをずいぶん喜ばせたが、ブスなのだが哀愁のかけらもない女性に哀愁を見出す努力をするほどぼくも若くはなくなっていたので、「いやあ、きょうはそういう気分じゃない」と断った。それでも執拗に迫るお姉さんは、バイトの元主婦なんかじゃなく、スナックの元売れっ子ホステスだったに違いない。同じようなやりとりを10分ほど続けた後、じゃあまた明日ねといったら、携帯番号を渡された。ありがたいようなありがたくないような。

栄町をふた巡りほどしたら、けっこう気分がすっきりしたので、オリオンビールを2本ほど買い込んで、ホテルへもどった。色街はやはりいい。この次は気心の知れた誰かとここへ来てじっくり飲みましょう。

11月1日 アジマァとカラハーイ

9時に目覚めてノリ、納豆、焼き鮭の朝食をとった後、荷物を整理してネクタイを締め、林賢のスタジオ/レストラン落成式へ出席するため北谷に車を走らせる。さすがに5億の金を借りて造った施設だから、いつも楽観的な林賢とはいえ相当な覚悟で臨んだビジネスに違いない。その前途を祝福するのは友人として当然の義務である。休講の上の一泊二日の旅は辛いが、礼を失するわけにはいかない。林賢夫妻にはぼくの出版記念会に来てもらったこともある。

9月にも施設は見ていたのだが、行ってみると<こりゃものすごい>という印象。5億と聴いてもピンとこなかったのだが、東京なら同じ施設で40~50億はかかると知ってピンときた。ネクタイを締めた人間をこれだけ見たのは沖縄では初めてのことである。考えてみればあたりまえのことなのだが、林賢までネクタイに革靴なのでびっくり。初めてみたよ、林賢のネクタイ姿。しばらく会っていなかった玉城満はアロハという正装で安心。こういう人もいなくっちゃねえ、沖縄らしくないよ。お祝いに駆けつけた人のほとんどは役人とビジネス界の人たち。ミュージシャンが少ないのは残念だったが、たぶんミュージシャンには招待状をあまり出してなかったのだろうし、オフィシャルな式典はこれでいい。沖縄県、北谷町などもバックアップする半パブリックなビジネスになっているというが、どうやら利子は沖縄振興開発の予算から補給されるらしい。官民協力のひとつの理想型である。政府はこういうことに金をつかうべきなのだ。商品券かなにか知らないが、ばらまきゃいいってもんじゃない。

型どおりの儀式の後、林助が2曲、女の子3人組のりんけんバンドジュニアが初のお披露目で3曲。ジュニアはここのエンターテインメント・レストラン<カラハーイ>のハコバンとして活動する予定らしいが、やはり見目麗しい若い美女たちこそ、沖縄ポップの担い手になるべきなのだ。彼女たちの実質的なプロデューサーである上原知子さんはジュニアの歌唱力にはまだまだご不満らしいが、知子さんに比較したらたいていの歌手は駆け出しになってしまう。ぼくの聴いたところ十分である。少なくともネーネーズよりもはるかにいい。ハーモニーがある!!ネーネーズ・ファンの橋本さんには申し訳ないが、ハーモニーがないネーネーズをぼくはあまり評価していない。橋本さんのごとく、<哀愁に満ちたブス>だからネーネーズがいいといわれると、こちらも答えようがないんですが。

祝宴は2時間ほどでおわり、林賢と特に親しい仲間だけで静かに飲み続ける。宴の後のなんとやらで、この時間がやはりいい。版画家の名嘉睦稔、沖縄でもっとも元気なビジネスマンでアメリカ屋社長の池原慎一郎、那覇のライブハウス<ケントス>の社長・深瀬俊夫(作曲家・船村徹の従兄弟。顔も似ている)、元りんけんバンドのディレクターでぼくと同じように東京から来た津久間孝成、りんけんバンドの<専属デザイナー>で元ハードロッカーの吉田春樹、りんけんバンドのキーボーディスト・山川清仁の父で山原でブタ5000頭を飼う偉大なる発明家・山川清安、それに林賢とぼく。初めて会う人もいるのだが、昔からの知己のように親しく杯を交わしあう。最初は<カラハーイ>のフロアで飲んでいたのだが、日が暮れかけてから中庭にテーブルを移して、バーベキューのステーキを食べながら宴はつづいた。

宴の間、林賢の母で林助の細君である照屋澄子さんがぼくのところへ来て「先生、ほんとうに遠いところからわざわざありがとうございます」と繰り返し繰り返し頭を下げる。かえって恐縮するほどである。照屋家を真に支えてきたのはこの人なのだ。「林助、林賢という素晴らしい人格、希有のアーティストを育てていただいてこちらこそありがとうございます」とぼくのほうから感謝したいくらいである。確かに一抹の不安もあるのだが、アジマァ・スタジオ、レストラン・カラハーイにぜひ成功してもらいたい。そのためには微力ながらできる限りのことをしようと思った。人を動かすのは偉大なる母の力である。

6時を過ぎて、ステーキのお代わりをパクついていると(これが柔らかくてうまい)、睦稔さんや知子さんが、これから那覇に行って東京便に乗るんだったらもう出たほうがいいという。フライトは8時半だからまだ2時間以上もあるじゃないのと言ったら、睦稔さんが「沖縄のラッシュを甘く見てるな」だって。みんな口を揃えて「もう出たほうがいい」というが、珍しく酔っぱらっている林賢だけは「帰っちゃダメ。泊まっていけ」だって。こんなに酔っぱらった林賢を見るのは初めて。仲のいい睦稔ですら林賢が酔っぱらった姿を初めて見たという。今日はよっぽど嬉しかったんだろう。わざわざ沖縄に来た甲斐があったというものだ。

6時半頃、知子さんに見送られて北谷を後に。後ろ髪引かれる思いだったが、どうしても東京に戻らなければならない。おかげで8時半発のJTA便には十分間に合ってゆったりとした気分で帰ることができた。往路と同じようにバスとタラップを使ってのボーディングだったが。来年には新しい空港ターミナルがオープンするので、連絡船気分で飛行機に搭乗することはもうないかもしれない。

気がついたら、東京であんなに痛んでいた胃が昨日今日はすっかり落ち着いていた。明日からまたストロカイン(胃薬)の日々がつづくことになる。

批評.COM  篠原章
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