密林の秘境・オーシッタイ(3)— 完結編

「密林の秘境・オーシッタイ(2)」からの続き

オーシッタイの集落は、蛇行する源河(げんか)川がつくった小さな湿地帯を丸く取り囲むように形づくられている。低地の河岸はまるで密林の闇。川幅は3〜4メートルほどしかない。光さえ差し込めばその水は碧く深く澄んでいることだろうが、光が届く場所はわずかで、その時間も短い。

昼とはいえ闇が広がるオーシッタイ

2メートルほどの高さに生い茂った草木が絡みつくのを避けながら、人ひとりがようやく立てる場所を見つけてでカメラを構えた。だが、ファインダーに写るのは闇だけだ。川のせせらぐ音、草木が擦れあう音、虫の羽音、蛙の鳴き声も、密林の闇に吸いこまれてたちまち消えていく。樹木の吐き出す青臭い息吹と、土カビが放つ温かくねっとりした気体が混じりあう闇のなかでは、四肢を自由に動かすこともできない。二度とここから抜け出せないのではないか、という恐怖感に襲われ、冷や汗がドッと出る。数百年のあいだほとんど変わることのない自然の営みは、大いなる畏れでもある。開拓や開墾はこうした畏れとの闘いだったのだろう。自然の営みと人間の営みの対峙が僕たちの歴史を刻んできた。その基本的な構造は今も変わらない。

歩き回るあいだ、さまざまな記憶がオーシッタイの風景に重なった。そのなかには、かつて三里塚(千葉県)にあったという沖縄の人たちの入植地の話もあった。

戦争直後、軍務や就業や疎開のために内地に滞在していた沖縄県民は24万人いたといわれる。GHQの帰還プログラムで占領下の沖縄に戻った者もいたが、帰還を拒否して内地に残る者も少なくなかった。食糧難の時代のこと、彼らは自らの食い扶持を求めて開拓者となり、全国各地に散っていった。

そのなかには開放された(天皇家の)御料牧場(千葉県三里塚)に集まり、開拓村を築いた者たちもいた。営農は必ずしもうまくいかなかったようだが、それでも20年余り畜産や農業に勤しんだという。成田空港造成の話が持ち上がったとき、「沖縄開拓村」の人びとは真っ先に土地を譲ることを決めたといわれている。その後の彼らの消息は必ずしも明らかになっていないが、内地に留まった者もいれば、沖縄に帰った者もいたようだ。少なくとも三里塚に踏みとどまって、三里塚闘争(空港建設反対運動)に加わった者はいなかったらしい。三里塚のウチナーンチュ集落は、「空港反対」を訴えることなく静かに立ち退いていった。この村への入植者はもともと教員だったり、勤め人だったりしたそうだが、「もう潮時」と思ったのだろうか。それとも土地への拘りがあまりなかったのだろうか。まさか「お国のため」と考えたのではあるまいが、現在の沖縄における土地への拘りからすると対照的だ。

いずれにせよ、異郷の地で入植者としての苦難を甘受してきた者たちの「宿命」を正しく理解することなど不可能だ。しかしながら、日本の近代化のなかで、あるいは戦後復興のなかで引き受けざるをえなかった「役割」を着実にこなしてきた、名も無き無数の人びとのこうした「犠牲」こそ、僕たちの「今」の礎(いしずえ)であることはたしかだ。そのなかには東北人もいれば沖縄人もいた。「日本の繁栄」が怪しくなり始めた今にあっても、彼らの払った犠牲は尊い。僕たちは、捉えきれないほどの犠牲と無数の屍(しかばね)の上に生きている。近代化・現代化・繁栄と引き換えに、多くのものを失っている。失ったものはけっして取り返せない。取り返すことができるとすれば、それはあらたな犠牲を払うことを意味する。そのことは肝に銘じたい。

行く手を遮る巨大蜘蛛

近代化・現代化のプロセスで「東北人」「沖縄人」あるいは「入植者」がこれまでに払った犠牲を突きつめていくと、すべての犠牲は等しく尊い、という結論に辿り着く。「土人発言」が物議を醸す現在の沖縄だが、数十年、数百年という歴史の流れのなかでは、ほんの「ひとこま」にもならない出来事だ、といったら、批判を浴びるだろうか。「いつまでも被災者、被災者とはいっていられない」(宮藤官九郎)という視点こそ、自立への大いなる手がかりである。

オーシッタイの人びとは、「国家権力」に入植を余儀なくされたわけではない。入植を勧奨されたわけでもない。自ら苦難を選び、自ら道を切り開いてきた人びとである。大きな犠牲を払ってきたとしても、また廻り道をしてきたとしても、自らの命と人生を賭けて「現在」を勝ち取ってきたことはたしかである。小那覇舞天(おなは・ぶーてん)や照屋林助ではないが、今は「ぬちぬぐすーじさびら」(命のあることのお祝いをしましょうよ)という気分だ。

「しゃし☆くまーる」に戻り、特製のはちみつと『30年史』を買って、オーシッタイを後にした。「後ろ髪をひかれる」ことはなかった。とりあえず源河の集落まで行ってみようと車を走らせたが、山中で未知の林道に迷いこんでしまった。さて、大変だ。ナビを見ると、くねくねと蛇行する林道は10キロほど先で県道に戻ることになっている。とはいえ、前方からダンプでも来たら一巻の終わりだ。戻りたくともUターンに適した待避所も見つからない。

いやいや、前に進むことを恐れてはならない。前に進むことこそ肝心だ(笑)。というか、後退を諦めて林道をひたすら前進しようと決意した。

走っても走っても山中から抜けられる気がしない。沖縄だからクマがいないのは救いだが、イノシシや野犬に取り囲まれるかもしれない。しめしめ久方の獲物がやってきたと、マジムン(魔物、悪霊)も集まってきそうだ。

行けども行けどもこんな感じ

いつのまにか山のてっぺんに近いところを走っている。絶景だが前にも後ろにも人気(ひとけ)はなく、携帯電話の電波すら届いていない。「なんでこんな辺鄙な場所に長尺な林道をつくったんだよ。ただの自然破壊じゃないか。農林水産省利権か?環境省利権か?沖縄県利権か?」などと呟きながらしばらく車を走らせると、端っこに軽トラックを止めて、荷台に間伐材らしきものを積み込んでいる40歳前後の男を見つけた。逞しく日焼けした男はちょっと驚いたような表情をしていたが、こちらは、こんな山の中でも人の手が入っているんだとホッとする。

「すみません。この林道、県道に抜けられますかね?」

「大丈夫よ」

「そうですか。それはよかった。道に迷って困ってたんです。お仕事ですか?」

「ここは植林してあるから、余分な木は切らんとね。持って帰って薪にする」

男はそう言うやいなや荷台の方を向いて、何事もなかったかのように再び作業を始めている。

「ありがとう」といいながらこちらもハンドルを握り直してアクセルを踏んだ。

山頂付近のヒカゲヘゴ

高江のテントを初めて訪れたとき、ガイド役の初老の男性が「国は山原に十数本もの林道を通している。これは許しがたい自然破壊だ」と怒りを露わにしていた。その時は「土建屋の利権が環境を破壊したんだろう」と納得しかけたが、林道を走っているうち、それは間違いだと気づいた。たんなる「自然破壊」などではなく、杣山(そまやま)を守るために切り拓かれた林道なのだ。

杣山とは王朝時代からの入会地である。森林の維持と木材の供給を目的に、各地域の共同管理下に置かれた山林のことだ。住民は地域ごとに決められた杣山に入山して、建築や薪炭に用いる木材を伐採し、収益を受ける権利を保障されていた。その入会権は今も事実上引き継がれている。昔は徒歩で杣山に入山し、手作業で山林を管理したが、今どきそんな面倒な作業を歓迎する住民はいない。軽トラックでの入山を望み、電動の器具や燃料で駆動する器具を使いたがる。器具を積んだ軽トラックが杣山に入るためには林道が必要だ。杣山は各地にあるのだから、地域ごとに林道が造られても一向に不思議はない。もちろん、土建業者の利権云々という話もあるだろうが、入会権という共同の利益を守るための林道なのだから、土建業者の利益を優先して林道が造られたとはいえない。自然は破壊されるが、古くから定められた経済権を守るための林道である。そう考えると、林道の多さも合点がいく。

10キロほどの林道を30分ほどかけてようやく県道に抜け出ることができた。出てきた場所に見覚えがある。先ほど通ったオーシッタイの入口から1キロも離れていないところだった。これだけ走ってまだこんなところにいるのか。参ったな。やはり畏るべき山原だ。

彼方に太平洋が眩しく光っている。このまま国道に出て辺野古に向かおう。辺野古にも杣山がある。辺野古の杣山に迷いこむのも一興か。いやいや辺野古の杣山はキャンプシュワブへの提供区域だ。入山することはできない。訓練に利用しているわけではないが、そこからも賃料が発生している。その賃料もまた伝統的な「経済権」ということなのだろう。これもまた、杣山がもたらす「恩恵」だと考えられているのかもしれない。

沖縄はやっぱり大変だな、と溜息をついた。(了)

批評.COM  篠原章
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