オスプレイ問題を考える

歴史は奪う者と奪われる者の暗闘の時間であ る。奪う者は奪われる者でもある。奪う者はときに奪われる者に変わり、奪われる者はときに奪う者に変わる。奪う者と奪われる者はときに入れ替わりながら血 と汗と涙を流す。それは悲劇であるが、悲劇は喜劇と背中合わせだ。血を流した者は血を流させた者を咎めるが両者の境界はとてつもなく曖昧だ。その曖昧さゆ えに多くの悲劇と喜劇が混在する。この歴史的真理を承知した上で事実を確かめながら前に進むことが(血ではなく)知への道である。

 オス プレイはたしかに問題だ。レイプ事件はたしかに問題だ。空にはオスプレイ、地にはレイプ事件。こんなことでは沖縄県民は安心して暮らせないという。米軍と 日本政府に抗議し、オスプレイもレイプも止めさせるという。では、オスプレイもレイプも止めさせることに成功したら(そして米軍基地が沖縄から撤退すれ ば)、沖縄県民は平和で安心できる暮らしを取り戻せるのだろうか?

 事態はそんなに単純ではない。

 オス プレイを止めさせるには、オスプレイの製造元であるボーイング社から多額の政治献金を受けているオバマ大統領を再選させないことがいちばんだ。オバマはオ スプレイの最大の代理人である。大統領専用機にオスプレイを加えようとしたくらいだ。今回の大統領選挙にあたっても11万ドルの政治献金を受けている。で は、ロムニーが大統領になればオスプレイの配備がなくなるかというとそうはいかない。ロムニーはボーイング社からは5万8千ドルしか受け取っていないが、 オスプレイのもう一つの製造元ベル・ヘリコプターからはなんと26万ドルの政治献金を受けている。つまり、どちらが大統領になっても、オスプレイの製造・ 配備という米政府の方針は変わらない。米軍にオスプレイ配備を中止させるためには、両大統領候補以外の、政治的に清廉の候補を当選させなければならない が、そんなこと、われわれにできっこない。それが無理ならば、沖縄から海兵隊(あるいは米軍)に出ていってもらうほかないが、それは日米関係を根本的に変 えることを意味する。

 日米関係において、われわれはたんなる被害者ではない。加害者でもある。別の言葉でいえば、そこから莫大な利益も享受してきた利害関係者だ。その事実に目を瞑って、前に進むことはできない。

 元外 務省・孫崎享さんの指摘(『アメリカに潰された政治家たち』小学館・2012年)を待つまでもなく、明確な親米でない日本の首相は短命である。それは紛れ もない事実だ。それほどまでに日本の政治・社会・経済はアメリカの体制に組み込まれている、ということだ。その体制を覆すこと、そしてその体制に代わるも のを生みだすこと、その覚悟がなければ、われわれは迷走するだけだ。

 覚悟 がない政治的主張などまるで現実感覚が欠落しているといってもいい。日米同盟が茶番だとしても、それに代わる安保のシステムを提案できなければ、それもま たお笑い草だ。「話せばわかる。中国と外交交渉を」というのもたやすいが、向こうは「日本にとって不当な要求だ」と百も承知で「中国の領土だ」主張してい るのだ。領土問題を先送りできない段階に来ていると中国は認識している。オバマ大統領および米軍の対中軍事政策に危機感を抱いて、日本という国家を試して いるにちがいない。オバマ政権がこの問題について静観しているように見えるのは、大統領選挙が近いからである。混乱を避けているのだ。中国はそれも承知で 尖閣を問題にしている。日本に対する揺さぶり以外何ものでもない。

 沖縄 における米兵の女性暴行事件はこれとは別のレベルの問題だ。 こうした事件が繰り返し起きていることは知られているが、その頻度が米兵を被疑者としない暴 行事件に比べて高いのか低いのか、また本土における同様の事件や発生率と比較して高いのか低いのか、という客観的な事実検証が本格的に行われたことはな い。沖縄における米兵暴行事件を重視する人たちは、1995年に「日本の米軍基地における性犯罪率はどの基地よりも高い」とアメリカの地方紙『デイトン・ デイリー・ニュース』が報道したことを引き合いに出すが、これは米海軍・海兵隊の性的犯罪のうち軍法会議にかけられた件数を調べたもので、アメリカ人同士 の事件か、地元の人を対象とした事件かはまるで明らかになっていない。もちろん、その事件が沖縄で起きたものか日本本土で起きたものかも不明だ。

 戦後 沖縄人がいかに米兵に蹂躙されてきたかを問題視する主張も多い。「ヤマトンチュににはわからんさ」といわれてお終いである。冗談じゃない。沖縄は確かに酷 い目にあったが、本土だって酷い目にあってきている。基地は沖縄だけにあるわけではない。「沖縄は基地だらけだがヤマトは違うじゃないか」という反論もあ るだろう。ほう。量の問題か。基地の街は大小にかかわらずことごとく同じである。そんなことはウチナーンチュなら百も承知のはずだ。「沖縄は植民地だった が、日本は違うじゃないか」という声も聞こえてくる。そうか? 沖縄が植民地だったのなら日本はアメリカの属国である。卑下するわけではないが、ぼくたち は共にパクスアメリカーナの落とし子だ。別に基地自慢をしようというのではない。蹂躙自慢をしようというのでもない。沖縄は酷い目にあったことはまちがい ないが、ヤマトが甘い汁を吸ってきたと羨むのはお門違いである。

 暴行 事件が許されないことはたしかだが、米兵の沖縄における性的犯罪率が著しく高いという検証を抜きに米軍全体の責任を問うことはできない。たとえ過去におい てそうだったからといって、現在の事件を過大視することもできない。事実を冷静に見極める態度は不可欠だ。それが再発の防止にもつながる。「アメリカ出て いけ」だけでは問題の解決にはけっしてつながらない。ミソもクソも同列に扱う議論だ。

 そんなことは誰しもちょっと考えればわかることだが、短期的で盲目的な政治的利害に拘泥する人たちはわかろうとしない。「悲劇の主人公」である状態を好んでいる。それこそ悲劇である。

 こうしてわれわれは、悲劇の世界から永遠に脱けられないで終わるのだろうか。それは限りなく不幸なことだ。

たこ揚げ

※※※ たこ揚げ抗議は危険です ※※※

批評.COM  篠原章
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