罪と罰と投票率

 昨日のこのコラムで『「米兵の罪は許されない」のか?』という問題を提起をしたら、友人か ら「罪と罰をどのような文脈で論じるのかを整理しないと、いたずらに延々と続くスパイラルにはまりそうな命題ですね。罪と罰を哲学的に考えるのか、民主主 義法治国家におけるシステムとしての意義を論じるのか…」という指摘を受けた。もっともである。宗教的命題と政治的命題を混在させている。まったく 指摘通りだが、実はぼくの意図は命題を混在させるところにあった。

 今回の米兵事件に限らないが、この種の事件が起きる と、沖縄の政治家・運動家・マスコミは「沖縄を蹂躙している」「沖縄の心を無視している」「沖縄を差別している」という主張をバックグラウンドに米軍や米 兵を批判する。本人が謝っても、司令官が謝っても、あるいは米国の国防長官が謝ってもその責めは続く。「これはたんなる一兵士の事件ではない。米軍基地の 存在は沖縄では社会問題になっているということだ」「米軍基地という存在が沖縄の善良な民の暮らしを脅かしているのだ」と彼らはいう。米軍基地を排除する ための便法として、一兵士がやり玉に挙げられているということになる。

 被害者には加害者を責めつづける権利がある、のかも しれない。一住民の声では米軍や米国に届かないので、自治体の首長やマスコミも一緒になって被害者を応援しているということであれば、それはそれで美談か もしれない。だが、首長やマスコミの反応は、被害者の声なき声を代弁するというより、「基地があるからこうした問題が起こる」という主張に帰結する。<基 地がある→米兵がいる→米兵は犯罪を犯す→沖縄の人びとは危険な状態に置かれている>という構図である。

 それほどまでに沖縄の人たちが苦しんでいるのかと 思って調べたら、(1)沖縄の米軍の事件・事故は本土のそれよりも相対的に少ない(2)時系列的にみると沖縄の米軍の事件・事故は近年大幅に減少してい る、というふたつのことがわかった。そのことは以前に書いたから(『「繰り返される米兵犯罪」はほんとうか?』11月4日付け)もうクドクドいいたくない が、こうしたデータを冷静に分析しなければ、再発防止策すらままならない。 本土に比べて沖縄のほうが事件事故が少ないのであれば、その理由をちゃんと解明すべきだ。 沖縄における米兵の犯罪が近年減少しているとしたら、米軍内部で何からの対応策がとられている可能性があり、そうした対応策があるのなら、それを強化すれ ばいい。沖縄全体が米兵の暴力に晒されているような物言いは、百害あって一利なしだ。事実に基づかない議論は、米軍人全体に対する差別に発展しかねない。

 だが、沖縄の政治家もマスコミも事実に基づく議論は しない。一米兵の偶発的な事件を「沖縄の危機」であるかのように言い立てるだけである。データを突きつければ、「あんたは沖縄を蹂躙している。沖縄の心を 無視している。沖縄を差別している」という議論を持ち出す。「沖縄の心とは具体的に何か」とこちらが問えば、戦中戦後の苦痛や負担の話になる。

  「沖縄の人たちがさんざんな目にあってきたことはよくわかった。じゃあ、どうすれば問題は解決するのか」とこちらが応えれば、「基地を撤去せよ」「基地を持ち帰れ」という返事が返ってくる。

 沖縄という地域に基地負担が集中する現状を否定する わけではない。だが、基地はどういうふうに負担となっているのか。誰の負担となっているのか。住民が騒音や事故に迷惑しているのはわかる。だが、それはど の範囲なのか。どの範囲の住民なのか。普天間基地に隣接する普天間第二小学校は“日本一危険な小学校”というが、それほど危険ならなぜもっと安全な場所に 移設しないのか。辺野古の多数派区民は、普天間基地の機能を自分たちの地域に移設することに賛成しているが、彼らは苦痛や負担を感じない特別な人たちなの か。次々に疑問が浮かんできてしまう。マスコミや政治家、政治運動家はこうした疑問には応えてくれない。返ってくる答えがあるとすれば「米軍基地に根拠を 与えている日米安保を廃棄せよ」とか「基地撤去は県民の総意だ」というスローガンである。

  「日米安保を廃棄せよ」というスローガンにはあま り触れたくない。戦後の日本は対米追従外交と日米同盟を基軸にしてきた。米国を最大限尊重した経済システムにもなっている。TPPや原発もその産物であ る。米国に依存しない政治・外交・経済のシステムを構築するには、あらゆる制度と慣行を見直さなければならない。そのなかには日本国憲法も含まれる。その くらいの覚悟が必要な議論だということだ。だが、「日米安保を廃棄せよ」という論陣を張る人たちにはその覚悟があるとは到底思えない。代替的な安全保障に 関するプランもほとんど見えてこない。「全方位外交・マルチプルな安全保障」「日中同盟」「東アジア共同体」とかいわれても、具体的なイメージが湧いてこ ない。政治と経済を完全に切り分ける議論など無効だ。経済は政治を規定するが、政治は経済を翻弄する。ただ、 「日米安保を廃棄せよ」という立場からの米 軍基地反対運動=反米運動ならわかりやすい。それはイデオロギーだからだ。

 大半の政治家もマスコミも、 「日米安保を廃棄せ よ」と明確にはいわない。その代わり彼らは「沖縄県民の総意」を根拠に、基地の撤去を要求する。沖縄の人たちが皆苦しんでいるなら、基地の撤去は急ぐべき だ。その一環として行われたオスプレイ反対運動も「10万人集会」で盛り上がった。沖縄の人たちは皆、基地やオスプレイ配備から大きな負担と迷惑を被って いるのだ。そこで、注目されていたのが昨日11月11日に行われた那覇市長選挙である。

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 これだけ政治が盛り上がっている沖縄だから、最大の 人口密集地である那覇市の選挙はそこそこ盛り上がるだろうと観測していた人も本土には多い。ところが、である。予想通り現職の翁長雄志さんが四選したもの の、投票率はなんと39.43%(上掲画像参照・出典は沖縄タイムス)。これは過去二番目に低い数字だ。今回は、保守派の翁長さんが「オスプレイ反対運 動」の先頭に立ったおかげで、他の革新系候補が立候補する芽が摘み取られた。共産党は候補を立てたが、民主党も社民党も社会大衆党(地域政党)も候補は立 てられなかった。これは翁長さんの戦略勝ちである。有力対立候補も争点もない選挙であったことはまちがいない。

 が、「オスプレイ反対・基地反対の声は県民の総意 だ」と報じられるなかで、ここまで酷い投票率を記録するとは、ぼくも俄に信じられなかった。正直いうと、投票権を行使しない市民が半数程度はいると思って いた。多選の弊害が唱えられてもいいのに有力な対立候補はいない。おまけに市政に大きな争点はない。だが、翁長さんを支持することはオスプレイ反対への立 場を明確にすることにもなる。投票率は低いだろうが、反対派の名誉にかけてある程度の投票キャンペーンは張るだろうから、投票率は50%前後だろうと予測 していた。ところが、予想を10ポイントも下回る結果となった。

 これでは「日本でいちばん政治的な活動が盛り上がっ ているといわれる沖縄が、実は政治に無関心で無責任な地域である」という印象さえ与えてしまう。加えていうなら、過去最低の投票率25.97%を記録した 年は、米兵による少女暴行事件が起こった1995年の翌1996年である。95年〜96年というのは、「日本政府の対応に嫌気が指した沖縄は独立するかも しれない」といわれたほど政治的に熱くなった時期だ。政治的に熱い時期に投票率がとんでもなく低くなる、という事態をいったいどう考えればいいのだろう か。

 いずれにせよ沖縄は一枚岩ではないことははっきりし た。少なくとも沖縄の多数派は政治には無関心か無責任だ。だから、「沖縄県民の総意」などという表現を多用していいはずがない。政治家やマスコミは、この 事実をもっとも深刻に捉えるべきだ。基地やオスプレイが全県的に問題なら、県都の首長選で投票率40%を切るなどということはありえない。もっと悲痛な叫 び声が投票率に反映されてしかるべきだ。が、実態はそうなっていない。「総意」という言葉がすっかり宙に浮いてしまった。

 にもかかわらず、これからもマスコミ・政治家・政治 活動家は、「沖縄は苦しんでいる。この苦しみの元凶は基地だ。だから基地を撤去せよ。これは沖縄の総意だ」 と主張するだろう。が、米軍基地による「全県 的な苦しみ」の実態はいつまでたっても見えてこないまま、「沖縄の心」「蹂躙」「差別」といった表現が繰り返されるだろう。いずれも政治や制度の領域に属 する表現というより、宗教や倫理、哲学といった領域に属する言葉であり、客観的な計測を拒むものばかりだ。

 沖縄の現状を見れば、不公平な所得再分配(貧困)、 補助金依存の経済構造、公務員の優越(階層化)、低い教育水準、「官」による自然環境の破壊、地域社会の崩壊、貧困や階層化から派生する社会的諸問題(シ ングルマザーの増加・未成年に対する暴行・劣悪な労働条件…)など、解決すべき課題が山積みだ。そのほとんどが、客観的に計測できる問題である。これらの 問題の深刻さを前にすると、基地問題など霞んでしまう。

 率直にいえば、マスコミ・政治家・政治活動家は、こ うした問題の責任まで基地に転嫁することによって、自分たちの責任を回避しているとしか思えない。彼らが、政治的・経済的・社会的な課題の大半を置き去り にして、あくまでも「沖縄の心」「蹂躙」「差別」といった宗教的・倫理的・哲学的世界に訴えるなら、こちらも同じ土俵に立とうじゃないかという思いから、 冒頭で書いたように、ぼくは「罪と罰」、すなわち心の問題に触れたのである。

 本土の人間にも米兵にも罪はある。罰も受けなければならないだろう。だが、「沖縄の心」にはまったく罪はないのだろうか。沖縄の人たちは、本土の人間や米兵に向かって、躊躇することなく石を投げつけられるのだろうか。

 しつこいようだが、ヨハネによる福音書(共同訳)の一節(7章53節~8章11節)をいま一度引用して、稿を閉じることにしたい。

 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の 境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえ られた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法 の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、 指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた 女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と 言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」

批評.COM  篠原章
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