米兵の犯罪を糾弾すれば基地問題は解決するという妄想

(12月3日更新)

ぼくは米兵の犯罪やオスプレイについて騒ぎ立てるのは間違いだと、このコラムやフェイスブックで繰り返し書いてきたが、一部に誤解があるようなので、この際はっきりさせておきたい。

 たとえば、米兵の犯罪については数値を示しながら以下の点を指摘した。

  • 日本本土で起こる米兵の事件・事故と比較して沖縄のそれが多いとはいえない。
  • 基地が沖縄に集中している割には米兵の犯罪は少ないし、時系列的にも漸減傾向にある。つまり、米軍の犯罪防止のための啓蒙活動・教育活動は効果を挙げている。
  • 実際には凶悪犯の事案は本土のほうが深刻である。ただし数字は公表されていない、つまり政府も警察庁も問題化するのを怖れて隠している可能性が強い。

たまたま米兵の事件がつづいているからといって、こうした「事実」が覆るわけではない。が、しかし、今やそんな事実関係もどうでもいいという気分だ。

米兵の事件を問題にしている人たちに声を大にしていいたいのは「米兵の事件がゼロになればそれでOKなんですか?」ということだ。SF的なことをいうようだが、たとえば米兵が人間でなくて全部ロボットに入れ替われば、レイプ事件なんて起きない。そのときは皆で万歳するのだろうか? あるいは日米地位協定が改定されれば、問題は解決するのだろうか?

もっとはっきりいおう。オスプレイが欠陥のない、墜落もしない、騒音もない完全無欠の航空機だとしたら、オスプレイ反対派の人たちは幸せになれるのだろうか?オスプレイにOKを出すのだろうか?

ぼくは米軍を擁護するためにこうした事実を指摘しているわけではない。「米兵の犯罪」などいくら問題化しても基地問題は解決しない、といいたいのである。在日米軍の存在自体を、そして「日本の安全保障」や「沖縄の貧困」※1を議論すべきなのであって、米兵の犯罪なんか大した問題ではない。オスプレイもどうでもいい。これらはトリビアルな数字で語る程度の問題である※2

「迷惑だから」とか「危ないから」とかいう視点で基地問題を語るのはあまりにもナイーブだ。「犯罪があるから沖縄の基地はダメ」「騒音があるから沖縄の基地はダメ」「墜落するから沖縄の基地はダメ」なんて いう議論では基地問題は一向に解決しない。犯罪も騒音も墜落も本土の基地で十分起こりうる問題だからである。

現下の米軍基地反対運動がいかにくだらないか、本質を突いていないかは明白である。とても「本気」とは思えない。本気で安全保障を議論すべきだ。沖縄への基地集中は歴史的産物であると同時に経済的産物であ る。そういうこともひっくるめて議論することが肝要なのだ。沖縄の貧困や日本の安全保障を正面から論じなければ、基地問題はけっして解決しない。そういうことがいいたいのである。

いつまでも米兵の犯罪やオスプレイばかり問題にしていると、本当のに大切な問題はどんどん見えなくなっていく。

※1 『新潮45』(本年6月号)で 指摘したとおり、沖縄における階層関係が基地の存在を必要としているのである。沖縄の県民所得の約3割を占める公務員などの支配層が基地を利用して既得権 を守っている、というのが実情だ。公務員は基地反対運動という圧力をかけることによって予算上の特別扱いを政府から引き出し、自らの立場を維持し続けているのである。公務員の既得権益が沖縄の貧困層を固定化し、基地問題の解決を先送りしている。基地問題の本質は貧困問題でもあるのだ。貧困問題の解決を考えない限り、基地問題もけっして解決しない、というのがぼくの基本的な見解である。

※2  「オスプレイも米軍の犯罪もトリビアルな数字の問題」と書いたことを批判された。もし深刻な事故や事件が起これば、もちろん大きく報道されるだろう。反基地感情も高まるだろう。犠牲者・被害者にとっても、沖縄の人びとにとっても、「トリビアルな数字の問題」では済まされないだろう。そういう批判を承知した上で、「トリビアルな数字の問題」と書いたのである。未来は予測できない。何があるかわからない。だから、「危ないものは排除する」のか、それとも「リスクを覚悟で受け入れる」のか。その判断は難しいが、判断の材料になるのは過去のデータ以外にはない。

はっきりいおう。オスプレイの重大事故率はセスナの重大事故率よりも低い。米軍の犯罪率は沖縄県民の犯罪率より低い(本ブログ11月26日付け記事を参照)。 「外国にお邪魔しているのだから米軍人は大人しくすべき」というが、米兵の犯罪率は沖縄県民の犯罪率の十分の一程度だ。明らかに遠慮している。沖縄の基地内犯罪率は米本土より逆に高い。基地外で遠慮している分、基地内で暴れている。そのことはむしろ評価すべきではないだろうか。

犯罪がゼロになればいいのか? それは不可能だし、 期待することもできない。事件事故は起こる。ゼロにしろというなら、米軍に沖縄から出ていってもらうほかない。反対運動の目的はまさにそれではないか。反対運動の目的は米兵の事件事故を減らすことではけっしてない。 反対運動の目的はオスプレイの事故を減らすことでもない。事件事故が減っても、反対運動は継続するに決まっている。目的が事件事故を減らすことではないのだから、あたりまえだ。

12月2日の報道によれば、犯罪防止のために、米軍当局は「基地外飲酒措置」に決めた。基地外飲酒禁止措置は、大半の米兵を基地内に封じこめることを意味するから、首長たちは喜ぶはずである。なのに首長たちは「実効性が問題」などといって動揺している。本音は、「基地外でお金は使ってもらわなければ、地域の経済がダメージを受ける」というところにある。飲酒が禁止になれば、米兵は買い物も飲食もしなくなる。たちまち地域経済に陰りが出る。「米兵を封じこめろ」とさんざんいってきたのに、基地外飲酒措置が現実化すると、今度は困っている。住民の暮らしが気になるなら、首長たちは基地反対に力を注ぐのではなく、基地がなくなっても成り立つ地域経済のあり方について真剣に考えるべきだ。そのほうが「米兵の犯罪」に抗議するよりはるかに基地を削減する効果がある。

本気で「基地反対」なら地域が不景気になろうが、有権者の経営する店が潰れようが、その意思を貫けばいい。それはそれで見上げたものだ。だが、沖縄の首長たちは腰がすわっていない。有権者の歓心を買うために一方では「米兵出ていけ」といい、他方では米兵にお金を使わせたいと願っている。そういう態度はとても許せない(この註のみ12月3日記)。

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批評.COM  篠原章
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