「忖度を懺悔する国民運動」のススメ

「忖度」(そんたく)という言葉がメディアを賑わして久しい。森友学園が下火になったと思ったら、今度は加計学園である。あまり気が進まないテーマだが、「忖度」に関する国民の関心を「忖度」してみたいと思う。

率直にいって、学校法人のこうした許認可問題を、いつまでもグダグダと問題にする野党とメディアの姿勢には呆れる。森友も加計も今や希少価値となったたんなる「学校屋」にすぎない。「学校屋」とは、私学を利権ビジネスと認識する事業家のことを指している。

団塊の世代の成長に合わせて、昭和30年代〜50年代の日本はこの「学校屋」が跋扈した。その代表が東海大学をつくった松前重義氏である。松前氏が「戦後日本を立て直すにはまず教育だ」と考えたことに疑いの余地はないが、「松前学校」を膨張させるプロセスは「学校屋ビジネス」そのもので、松前氏自身の自己評価はともかく、「私学はカネになる」という風潮が蔓延したことは否めない。

「松前に倣え」「松前に追いつけ」で日本中に「リトル松前」が出現した。戦後日本の「学校屋」の嚆矢を松前重義氏とすれば、加計学園グループの創設者である加計勉氏は中国地方に現れた「リトル松前」であり、森友学園の籠池泰典氏は、「リトル松前」になりたくともなりきれなかった「遅れてきた学校屋」または「学校屋の亡霊」である。

昭和30年代から50年代にかけて、高校・大学への進学人口増大と歩調を合わせるように拡充された各種私学補助金や制度上の優遇措置も、学校屋のビジネス(私学創設・拡大)に大きく寄与した。当時は、国有地・公有地の学校法人に対する無償貸与や低額売却などあたりまえのことだったが、誰もそれを責めなかった。もちろん、進学したくとも進学できなかった多くの若者に勉学や研究の機会を与えたのだから、学校屋の存在にも社会的な意義はあった。他方で、許認可事業としての私学に旨味を求める人びとにとっては、たんなる「利権」としての側面もあり、政治家が暗躍する場面も多々あった。

しかしながら、許認可と補助金を利用した学校屋が、利の厚い商売をできたのは、団塊第2世代の多くが高校・大学に進学した、せいぜい20世紀一杯までで、以後は少子化と許認可と補助金削減が足枷となって伸び悩むようになった。もはや私学商売は旨味のあるビジネスではない。籠池氏がそのことを承知していたかどうかは知らない。しかしながら、氏の描いた「構想」が、ビジネスモデルとしてはもはや時代遅れだったこと、それが経営上のリスクとして籠池氏を苦しめ、首相や首相夫人の名前を出せばそのリスクを回避できると考えたことは籠池氏自身の誤算である。

下火になりつつある「学校屋ビジネス」だが、その事業展開に絡んで、今もって「忖度」が官僚制度を動かすことはあり得る。議会制民主主義というテンプレートの上で、首長や議員の意向を受けて官僚が行動するのは異例なことではない。が、今の時代は、政治家の意向が諸法規や制度慣行に照らして適法かつ合理的であるか否かの判断を抜きに、「忖度」が行われることは珍しい。諸法規や慣行を無視した違法または不正な「忖度」が行われ、それが他の事業者とのあいだの公平性を著しく欠いていれば告発・追及されてしかるべきだが、森友学園問題で明るみに出てくるのは、森友学園の切羽詰まった内部事情と一部官僚の悪しき形式主義だけで、国を挙げて議論するほどの価値があるとはとても思えない。学部設置が地域経済に密着している加計学園の事例でいえば、「忖度」以外に勘案すべき要素は無数にあり、その大半は報道では無視されているように見える。つまり、たとえ「総理の意向」が忖度されていたとしても、それだけで決まるような問題ではないということである。前川前文科省事務次官の「出会い系バー通い」の暴露はやり過ぎだが、前川氏がいうような経緯が事実だとすると、「B級官庁・文科省はいらない」という文科省不要論さえ浮上しかねない。また、二つの事例とも、政治家や官僚に対する学園側からの「見返り」は確認されておらず、「忖度」の実在性を証明するのはきわめて困難だ。結果的にこれらの問題の追及は、「国政の混乱」以外に何の「果実」ももたらさないだろう。

文科省や財務省などの方針との関連で、「学校屋」ビジネスの問題点でも整理して示してくれれば、まだ森友や加計を取り上げる意味もあるかもしれないが、「忖度」ばかりに注目した政治家やメディアの姿勢を見ると、なりふりかまわぬ「安倍政権打倒」のための二流の術策にしか見えない。そんなことをやっている暇があったら、学校屋を復活せしめかねない「高等教育の無償化」でも広く深く議論してもらいたいと思うが、まだその気配はない。

「忖度は悪」という彼らの主張を「忖度」するとしても、そもそもこの世は「忖度」だらけである。誰もが皆、取引先・顧客、上司・同僚、家族・友人・隣人、役所や政治家、外国政府などの意向を忖度しながら生きている。こうなったら、野党とメディアは「忖度を懺悔する国民運動」を始めるほかない。実にバカらしい話である。

批評.COM  篠原章
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