やちむん・寿 / りんけんバンドJr. / クラブ・シャングリラ(1)

1999年3月18日(木) 片栗粉入りコーンスープ

アムロのママの殺人事件(3/17)が心に引っかかって、今回の沖縄入りは必ずしも爽快ではなかった。事件のあった大宜味村・喜如嘉は心優しい老人と子供たちの住む村。芭蕉布でも有名だ。車で轢き、ナタ様の凶器で切り刻んだ後、自らも農薬をあおるといった陰惨な殺人事件の舞台にはまったく不似合いで、そんな場所にワイドショーのレポーターが結集すると思うといっそう気分はよくない。

那覇着は夜11時、JALの最終便。機内ではレポーターや番組製作会社のスタッフらしき人物も散見。レンタカー屋の出迎えを受け、今回の愛車・キャロルを駆ってサンワホテルへ。荷物をほどいた後、波之上のステーキ屋・ステーツサイズに直行。例によってニューヨークステーキ1250円也の遅い夕食。進駐軍の名残としか言いようのない片栗粉入りコーンスープ、サザンアイランドをたっぷりかけたミニ・サラダ、250グラムのアメリカ産ビーフ(ミディアムレアで)、そしてライスのセットメニュー。店のインテリアもすっかりAサイン・デイズ。バーカウンターの壁にはA-signの営業許可証もちゃんと掲げられてる。初めてここに来たときはエアコンだってGE(ジェネラル・エレクトリック)社製だった(今は国産品)。

思えばこのテイストがぼくを沖縄に駆り立てたといってよい。「なぜ沖縄に?」と問われると、人には「海と音楽に惹かれて」と答えることにしているのだが、ほんとうは沖縄に色濃く残された60年代の痕跡に惹かれたから通い詰めたのである。

今ではあまり語られることはないが、60年代半ば以前の東京には数えるほどしかまともなホテルはなかった。帝国ホテル、東京ステーションホテル、山王ホテルが老舗、東京オリンピックを当て込んで建てられた銀座東急ホテル、ホテル・ニュージャパン、東京プリンスホテル、赤坂プリンスホテル、ホテル・ニューオータニ、ホテル・オークラなどが新興勢力。日本人利用者は政財界人や地方の金持ちなど一部の階層に限られ、客の多くは外国人、なかでも米軍将校や米軍関係者などが目立っていた。山王ホテルは米軍専用だったが、ベトナム戦争の激化とともに米軍関係者が急増して収容しきれず、ニュージャパンや銀座東急などが将校や軍属の宿舎として利用された。24時間営業のコーヒー・ショップが売り物だった銀座東急の場合、<US・・・>というシールやネームタッグが貼られたカーキ色のバゲージを抱えた軍服姿で深夜・早朝のロビーがごった返すということも珍しくなかった。客室や廊下に四六時中コールポーターが流れていた時代の話である。不思議だったのは朝靄に包まれた銀座東急のエントランスに人力車が寄せられ、芸姑さんが外国人に見送られるといった光景だった。歌舞伎座があり、芸姑さんがいて、人力車がある。一方でフルエアコンの近代的なホテルとハリウッド映画の主人公にも見えた西洋人にキャディラック。ルーツの異なるカルチャーがおなじアングルの中に収められるというミステリアスでエキゾティックな60年代東京が好きだったのはぼくだけではないはずだ。

米軍基地から鹿鳴館都市・東京に滲み出たカルチャーは、もっと大衆化したレベルでいうと基地近在のレストランに発する米軍食メニューに姿を変えて現れる。60年代の記憶でいえばピザは米軍食であって、いわゆる洋食ではなかった。だから、街のレストランにピザはほとんどなかったはずである。ホテルのコーヒーショップを除けば六本木や福生にあった「ニコラス」(今は「ニコラ」という)のような、米兵向け基地外レストランの専用メニューだった。このニコラスのような性格のレストランで供されるスープは、ヘインズやキャンベルのスープの缶詰に片栗粉を入れて水増ししたようなコーンスープと決まっていた。今のわれわれの味覚に照らせば「やめてよお」だが、このスープが街のレストランにも浸透して「ジャパニーズ・アメリカン・テイスト」となった。異形のアメリカン・カルチャーが日本という風土で誤解され、加工された結果が片栗粉入りコーンスープというわけだ。

沖縄には異なったカルチャー同士の混在と融合の痕跡が、いたるところに素朴な形で残っている。時としてそれは60年代東京の風景にも似て、かぎりなくノスタルジックでもある。コザの街角などに立っていると襲われる既視感は、60年代~70年代初めにかけての赤坂・六本木・青山の記憶がベースになっているのかもしれない。こうしてぼくは、「基地の街・コザ」「基地の街・福生」「基地の街・六本木」のイメージをだぶらせることで日本のポップ・カルチャーの構造が見えてくる、といって憚らない人間になってしまったのである。

ステーツサイズを出て波之上の街を歩く。この風俗地帯の亜熱帯な感じの闇が好き。この感じは基地カルチャーとはまた別物である。ステーツサイズ隣の24時間営業・辻スーパーはほぼ水商売専用といえる店で、ソープの呼び込みのおっさんや使い走りの兄ちゃんが揚げ物中心の300円弁当なんかを買っていく。通りを挟んで店の反対側にある、ぶっきらぼうなコンクリート建ての一階にある仕込み部屋(野菜や肉をパッケージする場所)に妖しくまたたく蛍光灯が湿っぽい闇夜をいっそう謎めいたものにする。ははは、ここはアジアでもあるのだよ。嬉しくなる。これだから沖縄はやめられない。

1999年3月19日(金) そば三昧も楽じゃない

二日目は那覇から与那原経由でコザへ。気温は24度だが雨模様。だが、さすが沖縄、降り続くわけじゃなく断続的。ときおり遠くの空が明るくなる。この南の島っぽい感じがいい。

5月28日に『沖縄旅の雑学ノート~路地の奥の物語』(写真:折原恵・奈須重樹他 挿し絵:中沢由美子/ダイヤモンド社)を上梓する友人の岩戸佐智夫の情報源となるべくそば屋を数軒チェック。世が世ならこの地のお姫様だったはずの与那原恵がなかなかうまいと言っていた与那原家は、正直なところ褒められたものではなかった。ただ、昼時ということもあって相当な混雑ぶり。営業サラリーマン風と近隣家族風が主体。4人掛けはほぼ満席状態。客席稼働率85%程度で客の回転も速い。スープはあっさり・こってりを選べるが、いずれもかえしに化学調味料が入っていて気にし始めるとけっこうつらい。麺は縮れ麺で量は多い。奈須重樹がいたら「製麺屋はどこどこ」と教えてくれるはずだが、当方には不明であった。70点。

与那原から泡瀬へ抜ける国道沿いの西原町に入ったあたりにあるドライブイン風の木灰そばめん膳。客席稼働率60%程度とまあまあの混み方。畳席には土木作業関係の団体。残りは営業サラリーマン風。たしかにカジマル灰らしきものが入った薄い灰色の麺。つるっとした触感。ぼくとしては不満。スープは「薩摩地鶏+薩摩黒豚+鰹」で出汁とりしているという。濃厚だがやはり化学調味料系が気になる。与那原家の後でおなかいっぱいだったせいもあるかもしれない。小そば400円を頼んだが、他店ならフツウの量、開店何周年とかで脂っこいジューシーまでついてきた。隣を見たら定食は死ぬほどの量。こんなもの毎日食べてたら太る一方のはずだが、なぜか肥えている人が少ないのも沖縄の不思議である。ホームレスが駐車場に座り込み沖縄タイムスを読んでいた。68点。

コザに向かう途中、真栄原の古書店、ブックス・ジノンに寄って自著『ハイサイ沖縄読本』を購入。定価1,600円だったのに今や2,100円もする。嬉しいような悔しいような。わが経済学の恩師・中村英雄先生は自分の本が古書店市場で高騰するのを密かに喜んでいたし、音楽上の親分・大滝詠一師匠は、誰もが知るビンテージ・マニア、レアなアイテムを自ら作ってしまうことにかけては右に出る者がないほどだった。師匠たちの血を受けているはずのぼくだが、さすがに自分の本を定価より高く買うことには相当な抵抗があった。が、ストックが底をついている以上やむを得ない選択と諦めた。

デイゴホテルに着いてまどろんだ後、ディスコ街として有名な諸見にある諸見食堂へ。ディスコの方は潰れてしまった店が多く寂しい限りだが、相変わらず得体の知れない料理屋や定食屋は健在。もっともコザの街自体のパワーは衰えるのみで、このままでは廃墟になってしまうだろう。午前10時から朝7時までと、ほぼ終日営業の諸見食堂ではやはりそばが名物。ごくスタンダードな沖縄そばだが、化学調味料を使わない純粋な鰹出汁はGOOD。麺はもちろん手打ちではないが、これもスタンダードなつるつる麺。コザでは宮古そば「愛」が有名だけどぼくはこっちのほうが好き。さすがに一日三食以上もそばを食べるとからだじゅうが沖縄そばになったかのようで、正当な評価をしようにもできないって感じ。でも72点かな。

我ながら忍耐強い胃袋、そばをすっかり平らげてから元りんけんバンド・笑築過激団の芸人・藤木勇人の店「マーチュ」へ。今まで一度も足を運んだことがなかったので、藤木に敬意を表する意味で初の訪問。ひとりカウンターで生ビールとキムチ。安くて美味いとの評判はどうやらほんとうのようだ。パンチパーマのよく似合う料理人のきびきびした動きが素晴らしく、できあがった料理の見栄えもいい。

マーチュの先客に照屋林助がいたので合流、林助の連れだったNHK沖縄の若いディレクター諸氏も含めて民謡界のうわさ話に花が咲く。やがて藤木が帰ってきたが、なにか賞を受賞したグスージ(お祝い)するとのこと。藤木のデュエット曲がヒットしていたのは聴いていたが、どうもその曲が受賞したらしい。作曲か何かを林助の一番弟子・照屋政雄(「政雄のキジムナー」or「チョンチョンキジムナー」で知られる歌者)が担当していたらしく政雄も藤木と一緒。糖尿が悪化する前の林助にはいろいろな酒場に案内してもらったものだが、あの頃は政雄やマーニンネーラン・バンドのギタリスト、松田ギター大臣の店にも何度か通った。いかにも田舎といった風情のつまらない店ばかりだったが、なぜか居心地がよかったなあ。当然のことながらもう潰れてしまったが。

夜11時を回り、わがキャロルで林助を家まで送りとどけた後吉原へ。例の高齢化が進んだ色街である。が、高齢者といっても引退した人もいるようで、比較的若い人(といっても40代)が目につく。たたずまいは今まで通りしょぼく渋く情けない町だが、なんだかあんまりコーフンしない。20分ほどで散策を切り上げてホテルにもどるが、途中林賢から携帯電話。

「今、どこにいるんですか?」
「コザですよ」「なあんだそうだったの。きょうは池澤夏樹とカラハーイ(林賢の北谷の店)でトークライブがあったのに。こっちに来てからいっしょに喋ってもらえばよかったなあ」
「昨日そう言ってもらえれば喜んで行ったのに、残念です」

池澤さんには会いたかったがしょうがない。また別の機会にじっくり話したいものだ。

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批評.COM  篠原章
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