那覇市全面敗訴となった孔子廟差し戻し審の意義—地縁血縁社会・沖縄に打ち込まれた楔

1.差し戻し審判決

批評ドットコムの2013年5月11日付記事「もうひとつの移設問題:那覇・孔子廟移転の謎」がきっかけとなって、那覇市民の金城テル氏が那覇市長・城間幹子氏を相手取って提起した「孔子廟違法確認訴訟」の差し戻し審の判決が、2018年4月13日(金)、那覇地裁(劔持淳子裁判長)にて言い渡された。

  1. 被告が、補助参加人(財団法人久米崇聖会)に対し、平成26年4月1日から同年7月24日までの間の松山公園の使用料181万7063円を請求しないことが違法であることを確認する。
  2. 訴訟費用は、差し戻し前の第1審、控訴審及び差し戻し後の答申を通じて、補助参加によって生じた費用は補助参加人の負担都市、その余は被告の負担とする。

2018年4月13日 那覇地裁(差し戻し審)判決 主文

被告・那覇市長の全面敗訴、原告・金城テル氏の全面勝訴である。これについては、翌14日付けで沖縄タイムスが一面トップ記事で報道したほか、琉球新報、八重山日報などの地元紙、毎日新聞、共同通信などの全国メディアも記事を掲載している。

この訴訟は、一般財団法人久米崇聖会(会員数195名・2012年)の施設である孔子廟(儒教の創始者である孔子を祀った霊廟/別名:至聖廟)の設置のため、那覇市が管理する同市最大の都市近隣公園である松山公園内の敷地の一部を無償で貸与した那覇市長の行政行為が、日本国憲法(第20条1項後段・3項・第89条)に照らして違法であることを確認する訴訟である。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

日本国憲法(第20条1項後段・3項・第89条)

2.判決の及ぼす影響

簡潔にいえば、歴代那覇市長(翁長雄志前市長および城間幹子現市長)が、久米崇聖会による孔子廟設置の用地として市有地を無償貸与したのは、政教分離を定めた憲法に違反する行為であり、那覇市に対して、久米崇聖会から適正な土地使用料を徴収することを命じた判決である。久米崇聖会は、琉球王朝時代に中国から来訪した帰化人(久米36姓)の子孫で作る「一般財団法人」だが(以前は社団法人)、事実上他の血統には開かれていないクローズドな団体である上、儒教にもとづく祖霊崇拝の宗教性・秘儀性などを考慮して、判決では「宗教団体」として認定された。

判決によると、久米崇聖会が払うべき使用料は、2014(平成26)年4月1日から同年7月24日までの181万7063円となっているが(1日あたり約1万6千円)、これは訴訟のため便宜的に設定された期間についての使用料にすぎず、久米崇聖会が那覇市に払うことになる使用料の総額は、孔子廟が竣工した2013(平成25)年5月に遡って算出すると(約5年間)約3000万円に達する。使用開始時期を、孔子廟が着工した2012(平成24)年春頃まで遡れば約3600万円、那覇市による孔子廟の設置許可が発出された2011(平成23)年3月28日まで遡れば約4200万となる。

判決後、原告の金城テル氏や原告側弁護団長の徳永信一弁護士は喜びのコメントを発表したが、那覇市および久米崇聖会から公式なコメントはまだ出されていない(4月17日現在)。両者は「孔子廟は宗教施設ではなく文化・歴史施設である」という主張をもって、これまで原告に真っ向から反論しており、また数千万円の使用料を支払う義務を負う久米崇聖会がこの判決に納得するかどうかは疑問である。したがって、原告側が今後控訴する可能性は高いが、この訴訟は、2014(平成26)年11月29日の第一審判決(那覇地裁)では棄却による原告側敗訴、2017(平成29)年6月15日の控訴審判決(福岡高裁那覇支部)では原判決取り消しによる地裁差し戻しという経過をたどってきた以上、被告が最高裁まで闘ったとしても敗訴する事態が予想される。

3.判決の意義

2013年春頃、私は、那覇市久米にある旧久米郵便局・沖縄国税事務所跡地が約7億円で那覇市(当時は翁長雄志市長・現沖縄県知事)に譲渡され、同市が管理する松山公園を拡張するための用地に転用されたことを知り、土地利用の状況や市の事業予算を調査したが、その過程で、那覇市若狭にあった久米崇聖会の孔子廟を同地に移転する計画に気づいた。計画によれば、公園整備のために土地代金を含め20億円を超える事業予算が投入され、久米崇聖会に対して孔子廟の用地が無償で貸与されるだけでなく、事業予算の一部には国費が充当されるという。そこで、他の自治体における同種の公園整備も調査したところ、事業の規模に比して予算の規模が大きいこと、使途のはっきりしない予算が組まれていること、宗教性の強い団体に土地を無償で貸与することは憲法違反の可能性があることがわかり、先にも述べた本サイトの記事「もうひとつの移設問題:那覇・孔子廟移転の謎」を公表した。

当初は、翁長雄志那覇市長の政治資金とこの事業計画のあいだに何らかの関連があるのではないか、との予断を持って調査を始めたが、そうした事実は明らかにならず、「宗教性の強い法人に対する土地の無償貸付は政教分離を定めた憲法に違反するのではないか」という問題だけが残された。原告の問題意識も篠原同様「政教分離」に集約されていたが、一審では敗訴。控訴審から差し戻し審にかけて原告は訴えの対象を絞り、「孔子廟設置許可の取り消し」という要求を取り下げて「使用料を徴収しないことの違法性の確認」を求める姿勢に転じた。この「戦術転換」は原告側弁護団の着想だったが、差し戻し審ではこれが見事に功を奏したといえるだろう。

法的な評価はともかく、私はこの判決には、「地縁血縁」に根ざした沖縄の社会構造と政治構造に対して一定の楔(くさび)を打ち込んだところに社会的意義があると考えている。

問題は、儒教的な価値観に基づく宗教的血族団体として沖縄でもっとも有力な久米崇聖会に対して、那覇市という地方公共団体(地方自治体)が「忖度」したことに端を発している。忖度に法的な瑕疵がなければ問題は倫理の内側に留まるが、その忖度が不法に行われれれば「公共性」を損なうものとなることは明らかである。まして市民・県民・国民の納めた税を原資とする事業に関連して不法行為が行われ、公有財産の価値も毀損している以上、那覇市など沖縄県の行政は、血縁団体の政治的要請や政治的圧力に対して、今後はもっと毅然とした姿勢で臨む必要がある。もっといえばこの判決は、非近代的な地縁血縁関係を過剰に重視した伝統的な政治力学を許容している「沖縄社会」そのものを本質を問うきっかけとなる。

以上を簡略化すると、首里士族由来の出自を持つ那覇市長・翁長雄志氏(当時)が、久米士族由来の出自を持つ仲井眞弘多県知事(当時)などといった有力者が属する宗教的血縁団体に対して公有地を無償で提供した構図となる。いってみれば旧支配階級内部での馴れ合い行政の産物であり、王朝時代(封建時代)の支配構造を引きずった沖縄の時代錯誤を象徴するものだ。それは政治的保守派による行政の「私物化」でもなければ、政治的左派の支持を得た翁長雄志氏による中国派に対する優遇策でもない。久米崇聖会には仲井眞弘多元知事だけでなく、各界の人士が会員となっており政治的にはむしろ中立だ。中国とのパイプもあるが、会としての姿勢はどちらかといえば台湾寄りである。

今回の案件で政治的イデオロギーを問題とするのは間違いであって、最大の問題は沖縄に残る封建制の残滓が、県民や国民の諸権利・諸権益を踏みにじるかたちで露出したところにある。したがって、歴史的な観点からすると、那覇市の対応は、孔子廟設置に用地を無償で提供することにより、封建制下における久米人の特権的立場を復活させたことになる。「政教分離」という日本国憲法の条文に照らしてその違法性を明らかにした裁判所の判断並びに原告・弁護団の弁論は、沖縄社会に今も根強く残る非近代的要素をあぶり出すと同時に、今後沖縄が進むべき方向性を示したものであるといえるだろう。

【孔子廟に関する補足】
久米崇聖会の「久米」とは現在も部分的に残る地名である。現在の那覇市久米とその周辺は王朝時代に「久米村」(クニンダ)と呼ばれ、中国からの帰化人の「租界」だった。孔子廟はもともと久米村の入口に位置していた泉崎橋付近(国道58号線沿いの那覇商工会議所付近)にあったが、廃藩置県後にいったん荒廃し、1914(大正3)年に結成された久米崇聖会の手により復興された。沖縄戦で建物等は焼失し、米軍により建設された1号線(現在の国道58号線)に敷地も削られたため、那覇市若狭の護国神社隣地で再建された。戦後最初の釋奠祭礼(せきてんさいれい:孔子など儒教の先達を祀る儀式・孔子祭り)は1975年に若狭の孔子廟で行われているが、1980年代後半以降、崇聖会は旧地・久米に回帰する運動を興している。

1992年、那覇市と中国・福州市との友好を記念した施設として中国式庭園「福州園」が松山公園併設施設として久米に開設されたのち、崇聖会は久米地区を孔子廟を中心としたチャイナタウンとして再生させるまちづくり計画を提示したが、この計画が孔子廟を若狭から久米に移転・新築する久米復帰運動の橋頭堡なったことはいうまでもない。この時期、崇聖会は福州園に近接した私有地を買収して「孔子廟の久米回帰」に備えたが、その用地だけでは不十分と判断したのか、国から那覇市に安価で売却された松山公園拡張のための用地(那覇郵便局・国税事務所跡地)に狙いを定め、那覇市に「無償貸与」の陳情を繰り返した形跡がある。福州園を含む松山公園の拡張計画全体が、崇聖会の主導で立案された可能性も排除できない。これに対して那覇市(当時翁長雄志市長・現県知事)は、当初「政教分離の原則」に対する違反を恐れ崇聖会の計画に難色を示したが、崇聖会に縁の深い政治家が動いた結果、2011年3月28日、孔子廟の設置申請は許可されるはこびとなっている。久米士族(久米人)の血統である仲井眞弘多知事(当時)など崇聖会の有力メンバーに対して、首里士族を祖先とする翁長氏が市長を務める那覇市側が「忖度」した結果だろう。「孔子廟は宗教施設か文化・歴史施設か」を争う裁判だったが、原告側の「孔子廟最大の行事である釋奠祭礼に象徴されるように、孔子廟が信仰のための施設であることは明らか」という主張を全面的に受け入れ、裁判所は「孔子廟は宗教施設である」と認定したことになる。那覇市および久米崇聖会側は、孔子廟の文化施設としての意義を強調したが、沖縄における儒教は、祖霊崇拝を中心とした信仰(宗教)として受容されてきた側面が強く、本土の湯島聖堂(孔子廟)のような、多くの人に開かれた「学問(儒学・国学)・教育の府」としての機能を具備していなかったことは事実である。

那覇市は、孔子廟内に明倫堂という教育機関が併設されている点を捉えて、孔子廟の学問・教育の府としての性格を強調したが、明倫堂は中国からの帰化人の子孫である久米人(クニンダ)に開放された教育機関であった(1718年創設)。明倫堂で教育を受けたエリートのみが中国への官費留学を果たし(官生〈かんしょう〉制度)、帰国して王府の重役を占めるようになったため、琉球王朝(尚温王)は、1798年、首里城内に「国学」を開設して官生への門戸を他の血統の士族にまで広げ、久米人の官生独占を排した。このとき、久米村が王府の方針に反対する運動を展開したため、王府が指導的な立場にあった久米人を逮捕・拷問する騒動も起こっている(官生騒動)。

なお、孔子廟は1836年に首里の国学にも設置されているが、この孔子廟は、あくまで教育機関である国学に併設された施設であり、孔子廟という宗教施設に併設された久米の明倫堂とは根本的に異なっている。国学の孔子廟は、本土の孔子廟と同様、儒学を補完する施設に過ぎないが、久米人の孔子廟は祖霊崇拝という信仰の場であり、儒学はその付属物である。

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批評.COM  篠原章
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