照屋林助さんのこと

ときどき照屋林助さんに無性に会いたくなる。ぼくは一時鞄持ちのようなことをさせられていたので(笑)、気分としては今でも「林助の弟子」である。

林助さんが亡くなって8年。命日は1週間前、3月10日だった。

混乱した沖縄の現状をみるにつけ、林助さんが生きていたらなんというだろうか、と考えこんでしまう。真の自由人である林助さんならいろいろヒントをくれたことだろう。沖縄が自由から不自由に向かわなければいいが、と思う。

2005年の『ミュージック・マガジン5月号』に掲載した、ぼくの林助さん追悼原稿(元原稿)を、以下に貼りつけておきたい(印刷されたものと若干異なります。あしからず)。

写真提供;(株)アジマァ

写真提供;(株)アジマァ

“てるりん”こと照屋林助が、(2005年)3月10日早朝、沖縄県内の病院で亡くなった。享年75歳、戒名は「藝導院林線仁徳居士」。林助の一生を見事に体現した素晴らしい戒名である。名実ともに「沖縄大衆芸能の父」であり、沖縄ポップの原点にある巨星だった。

照屋林助は、1929年4月4日、琉球古典音楽の大家・林山の長男として大阪で生まれた。36年に沖縄に戻り、50年にコザ(沖縄市)の歓楽街・ビジネスセンター通り(現パークアベニュー)に三線店を開業、以後亡くなるまでコザを暮らしと仕事の拠点とした。

45年に歯科医で漫談家の小那覇舞天(おなはぶーてん)に弟子入りし、芸人としての道を歩み始めたが、民謡歌手としてのデビューは54年の「年中行事口説(くどぅち)」。ただし、林助の本領が発揮されるの は、57年に前川守康とうるま喜劇倶楽部を旗揚げしてからのこと。あきれたぼういずなど“ぼういずモノ”に触発された民謡漫談エンターテインメントであった。

林助のショーは、58年にRBCラジオで「ワタブーショー」(林助が出っ腹の巨漢=ワタブーだったことに因む)として番組化され、戦争の後遺症に喘ぐ沖縄に笑いの渦を巻き起こした。沖縄三大悲劇のひとつ 「ハンドー小(ぐゎー)」を喜劇に改作した「珍版ハンドー小物語」などが十八番だったが、アメリカのヒット・ソングを取り込んだ新作民謡を劇中に挿入した り、自作のエレキ・ギターやエレキ三線を使ったりと、その革新的な手法は後の沖縄音楽の展開に決定的な影響を与えた。

人気者になった林助だが、持ち前の凝り性からビッグ・バンドを雇い入れ、セットや楽器にも多額の費用をかけるなど、たちまち莫大な借金を作ってしまった。59年には出奔し、八重山地方を放浪するが、その間に島々の民謡を発掘するなど、後の創作活動の土台となる材料をたっぷり仕入れている。

コザに戻ったのは61年。ベーシストや司会業などで糊口をしのぎながら沖縄国際大学に聴講生として通い、国文学、民俗学、心理学などを修めた。70年代以降、林助は芸人から博覧強記のエンターティナーに変身するが、その出発点はこの修学体験だった。

60年代~70年代は作詞家・作曲家としても熟成した時期で、兼村憲孝・当山達子「ベールベール」(66年)、フォーシスターズ「あやかり節」(69年)、知名定男「ジントーヨーワルツ」(78年)、喜納昌吉「東京讃美歌」(78年)などの主要作を音盤化している。林助自身も歌う「生き返り節」「道具の清(ちゅ)らさ」「チョンチョンキジムナー」もこの時期に創られた作品だ。

74~75年には、嘉手苅林昌、登川誠仁、知名定男などが出演した琉球フェスティバル」(企画・竹中労)が東京・大阪などで開催され、沖縄民謡に対するヤマト(本土)側の認知が始まったが、その構成とMC は林助が務めていた。同時期に沖縄の民謡や大衆芸能を網羅した『沖縄/祭り・うた・放浪芸』という大作がソニーから発表されているが(LP四枚組・75 年)、ここでも林助は構成と解説を担当した。林助はヤマトとウチナーの音楽的な橋渡しができる知性の芸能家だったのである。

80年代でとくに目立つのは映画出演。高嶺剛監督の『パラダイスビュー』(主演・小林薫 音楽・細野晴臣/85年)、『ウンタマギルー』(主演・小林薫 音楽・上野耕路/89年)の二作では、重要な役どころを印象的に演じている。後に林助が出演した大塚製薬「ポリカイン」のCM(高嶺剛監督/91年)や沖縄産映画『パイナップルツアーズ』(中江裕司・當間早志・真喜屋力監督 音楽・照屋林賢/92年)が評判になったこともあり、その笑顔はヤマトでも広く知られるところとなった。

沖縄の本土復帰20周年(92年)に絡んで生まれた 沖縄ポップブームは、林助の長男・林賢が率いるりんけんバンドが先導したが、彼らの主要作にも林助の作品(作詞)は少なくない。「べーるべーる」「年中口説」などは林助の旧作に林賢があらためて曲をつけたものだが、今も定番の「黄金三星」「いちゃいぶさ」「ハタスガシー」などは林助が彼らのために書き下ろした作品だ。

90年代の林助は“チャンプラリズム”という“思想”の伝道者でもあった。沖縄の文化は、南方の文化、ヤマトの文化、中国の文化、アメリカの文化などのミクスチャであるという主張だ。固有の文化などありえない、異文化同士の融合によって新しい文化は生まれるという一種の文化相対主義で、これを林助はチャンプルーという料理に喩えて表現した。チャンプルー文化が展開する原動力を「遊びの精神」と見るのも林助らしい考え方で、遊び心でコザを元気にしようと、91年には「コザ独立国」なるプロジェクトも立ち上げ、自ら“大統領”に就任した。

博覧強記のヒューマニスト・林助が唱えた“チャンプラリズム”というキーワードが、現代沖縄に開花したポップカルチャーの原点にあることは疑いない。現在の沖縄移住ブーム、沖縄ポップブームの背景には、林助の描いた沖縄観が透けて見える。が、林助の沖縄観は特殊でも排他的でもなかった。彼の知性は、沖縄から日本を俯瞰することもあれば、日本から沖縄を俯瞰することもあった。沖縄から世界を見直すと同時に世界から沖縄を見直そうともした。その本旨は、「楽しく生きること」「音楽を楽しむこと」の普遍性を訴えることにあったのである。

林賢はもちろん、知名定男、喜納昌吉、BEGINといった沖縄ポップの旗手たちが林助のひいたレールの上を走っているのは間違いないが、その影響はカッチャンなど沖縄ロック、モンゴル800、オレンジレンジなど最近の沖縄発ミクスチャ・ポップにも読み取ることができる。細野晴臣や上々颱風など、日本のポップの担い手にも有形無形の影響を与えているはずだ。

かくいう篠原自身も林助の弟子を自認している。91年7月に林助率いるマーニンネーランバンドの稽古を覗かせてもらったのが最初で、以後沖縄を旅するたびに林助邸の扉を叩いた。コザの街をさんざ飲み歩き、鞄持ちをしながら講演会のお供もした。

得たものは計り知れない。沖縄のほとんどすべてを教わったといってもいい。音楽や芸能の本質も林助の助けがなければ見失っていただろう。篠原の作った二冊の本、『ハイサイ沖縄読本』(93年)と『沖縄ナン クル読本』(2002年)も林助の教えがなければ世に出ることはなかった。

眠るように逝ったという林助。夫人の澄子さんは「本人は死んだと思ってないはずよー」と笑いながらおっしゃっていたが、派手なメガネをかけたあの笑顔が、「ハイサイ」といいながら、いつかまたコザの路地裏にぬーっと現れるような気がしてならない。

【参考】照屋林助(北中正和編集)『てるりん自伝』みすず書房・1998年
http://www.amazon.co.jp/dp/4622042541

 2013年3月17日

写真提供;(株)アジマァ

写真提供: (株)アジマァ

批評.COM  篠原章
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