普天間・辺野古症候群と県民投票「どちらでもない」の可能性

「辺野古移設」問題ほど、曲解され、本来の目的を外れて利用されてきた政治課題はない。目的と意義が忘れられ、手段をめぐる、ほとんど意味のない議論だけが膨らみ続けてきた。これは容認派・反対派の双方にあてはまることだと思っている。

「普天間基地の辺野古移設」が政治課題として浮上しなかったなら、つまり政府と米国が普天間基地の移設を言いださなかったら、沖縄は「日本最大の闘争現場」にもならなかったろうし、「利権・既得権の草刈場」にもならなかったろう。

普天間・辺野古をめぐり今起こっていることは、基地問題でも安保政策の問題でも環境保全の問題でもなく、「沖縄」という舞台を借りて、「普天間・辺野古症候群」に感染した三文役者が演ずる「猿芝居フェスティバル」の性格が強い。その最たるものが「県民投票」であるともいえる。

「何が本当の問題なのか」と問われれば、「変化を嫌う沖縄の極端な保守性」と「沖縄の保守性を利用し尽くしたい人々」の存在である。もちろん、これは他山の石などではない。「沖縄問題」は、日本という国の隅々まで浸透した「ダメダメさ加減」の象徴でもある。

「変化を嫌う沖縄の極端な保守性」に対する対応策は、政府による辺野古撤退である。振り出しに戻してしまうというやり方だ。「県民の皆さんのご希望通り辺野古移設は諦めます。あとはご自由に」おそらく大騒ぎになることだろう。問題は棚上げされたままになるが、変化を望まないというなら致し方ない。

政府が辺野古移設を断念すると、反対運動は勝利の美酒に酔うという。これを契機に日本全体が燃え上がり、どこかの国のように「民主主義フェチスト」に煽られたポピュリズムが蔓延すると危惧する人びともいる。

だが、そうではない。移設断念は「沖縄切り捨て」である。もはや沖縄など相手にしないという宣言である。これに対しては不健全だという批判が左右両派から巻き起こるだろうが、「われわれはもはや沖縄にかかずらっている余裕はない。145万人よりも1億2千万人だ」という本音がぶつけられることになるだろう。

これはこれで望ましくない事態だから避けるべきだが、自殺や貧困の連鎖が深刻な社会問題となっている現状に背を向けて、「基地容認・基地反対」というレベルでの闘いを選んだ「普天間・辺野古症候群」の罹患者への荒療治としては「有効」である。

県民投票にはほとんど意義がない、というのが私の基本的な立場だが、実施が決まっている以上、投票結果には注目している。

いちばん気になるのは、「どちらでもない」の票数とその比率だ。「どちらでもない」が一定数を占めれば、おそらく「辺野古撤退=沖縄切り捨て」という荒療治は不要となるだろう。「どちらでもない」という玉虫色を選んだ人々は「普天間・辺野古症候群」を免れているからだ。

いろいろ悩んだが、「どちらでもない」こそ現段階における沖縄の「潜在的民意」と観ることができると思う。この曖昧模糊とした選択肢の多寡(得票数)が、沖縄の「救い」になる可能性もある。そんな気がしてきた。

批評.COM  篠原章
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