もうひとつの移設問題:那覇・孔子廟移転の謎(改訂版)

仲井眞弘多知事が中国福建省から帰化した中国人を祖に持つことはよく知られている。琉球王朝では、14〜17世紀に中国から琉球にやって来た移民たちを久米村(現在の那覇市久米)に住まわせ、「久米36姓(久米人 クニンダ)」(36家族という意味だが実際には25家族といわれる)として行政・経済・文芸などの分野で重用した。記録上は、1683年生まれの十一世・蔡文河まで遡ることのできる「蔡氏」の家系の子孫が仲井眞さんである。久米人のなかでももっとも有力な一門だという。蔡温という、琉球史上もっとも偉大な政治家の一人も同じ蔡氏だが、この蔡温は、仲井眞さんとは異なる系統(具志家)の蔡氏だ。

孔子廟

孔子廟

17世紀以降の琉球王朝の歴史は、中国派と薩摩派(大和派)の覇権争いの歴史でもある。中国が「琉球は中国の属国だった」というような、半ば公式的な見解を人民日報に掲載したが、琉球が中国の属国だったことは一度もない。少なくとも17世紀以降は、つねに薩摩の方を向いた政治体制だった。ただ、政治・経済・文芸・風俗が薩摩風・大和風によりすぎると、「もっと中国寄りに修正せよ」という動きが、久米人の側からあったことは事実だ。

といっても、琉球は薩摩との関係なくして経済的に生きられなかったので、中国派といえども、薩摩と完全に切れるようなリスクは冒せなかった。薩摩による琉球のコントロールは、那覇に駐在するわずか15名から20名の薩摩藩士によってマネージされていたが、彼らは誰一人として暗殺もされていなければ、傷つけられてもいない。琉球士族は数万人にのぼるのだから、武力で薩摩藩士を殺害したり、追い出したりすることはわけもないのだが、王朝側は一度もそうしたアクションを起こさなかった。

王朝が「薩摩切り」という荒っぽい手段に訴えれば、幕府と薩摩が大挙してやってくる。つまり、琉球に勝る薩摩(大和)の武力が脅威だったということもあるだろうが、薩摩を切って中国との関係を深めることにメリットがなかったからだ。琉球から中国に冠船を派遣し、中国から冊封使を迎えるというのは、外交・安全保障というより貿易の性格が強いが、東シナ海を渡 るのは当時命がけだった。外航船が遭難するのは日常茶飯事だった。薩摩を切って、中国から応援を求めるとしても、ただでさえ数か月の期間を要する。船が遭難でもすれば、さらに時間がかかる。おまけに中国側が軍事的・経済的に負担の大きい大和との戦争を引き受ける保証もない。そんなリスクの高い外交政策をとるよりも、薩摩とうまくやっていたほうがはるかにマシだ。久米人たちのなかにも、たとえば、前出の蔡温などのように「大和化」を推進した政治家も少なくない。王朝時代においては、やはり中国よりも薩摩との関係が優先されたのである。

仲井眞さんのことを「中国の手先」呼ばわりする、ある種のバッシングがネット上で盛んに行われている。だが、そんな数百年も前のことを持ち出して知事個人を非難するのはフェアではない。そのやり方は「構造的差別論者」とあまり変わりがない。王貞治は今も台湾籍だ。孫正義は在日コリアンだが今は日本国籍で、先祖は中国人だ。彼ら個人を出自でバッシングすることは、歴史をバッシングするのと同じで、誰も責任をとることができない。王さんや孫さんよりもはるかに古い時代の「中国系」である仲井眞さんをそのことで叩くのは、天皇家の出自を再点検し、「外国の手先」呼ばわりするのと同じだ。薩摩侵攻や琉球処分を持ち出して、「日本民族の沖縄民族に対する差別」を主張する連中と同じ土俵に立つ行為だ。

ぼくが問題だと思うのはそんなことではなく、久米人たちの子孫が未だに沖縄の政治に対して大きな影響力を持っていることだ。たとえば、久米人の子孫(久米崇聖会 / 仲井眞知事も構成メンバー)が運営する孔子廟と明倫堂が波之上神社の隣接地(若狭)から久米の郵便局・国税事務所跡地(福州園隣の市有地)への移転を進めている。その敷地面積は約7500平米、2300坪に近い(推計面積)。現在の孔子廟の3〜4倍だ。那覇市の説明では、そこに外国人向けの免税店や中華街もつくるような話になっているが、それはまだ具体化していない。具体化しているのは孔子廟だけだ。この3月に竣工しており、あとは6月の開業を待つばかりだ(最上段の写真参照・下段の写真はその全景)建物は出来上がっている建物のある場所以外は芝生が敷かれて公園になっている。とはいうものの、目と鼻の先に松山公園という、よく整備された大きな公園があるので、比較すれば公園というには情けない設計だ。緑地といったほうが適当か。暫定的に公園にしたという印象である。

いずれにせよ公的施設ができる前に、その土地に宗教色の強い民間団体の建造物が先行して建つというのは、やはり解せない。「久米人」が歴史的無形資産のような存在であるとすれば、博物館的な施設も併設すべきだと思うが、そんな計画も聞かない。

殺風景な芝生公園。奥の建物が至聖廟。

殺風景な芝生公園。奥の建物が至聖廟。

約二千坪もの土地を、事実上一民間団体に貸与するのに、那覇市議会で取り上げられた形跡もほとんどない(註:建築費用2億6千万は崇聖会が負担、土地は無償貸与であることが6月16日の報道で判明)。孔子廟・明倫堂は歴史的に重要で、観光にとってもプラスになるという質疑はあるが、市民の財産や税金に関わる部分の話はまったく出てこない。移転に関わるお金の話がいちばん大切だと思うのだが、誰もそのことは気にしていない。 沖縄タイムスも琉球新報も移転に関わる記事をほとんど書いてない。納税者にとって、それが有償か無償かとか、整備にこれだけお金がかかるとか、免税店や中華街はできるのか、できるとすればその資金は誰が負担するのか、といった問題がいちばん重要なはずだ。市議会でそうした話が出てこないならメディアが書くべきだが、そろいもそろってお金の話には触れない。これはおかしいではないか。孔子廟が公有地を使うのがダメだといっているのではない。それだけ公益性が高い事業なら、「公益性」の根拠を示すと同時に、移転先・移転元の所有関係の状況や跡地土地の利用計画も当然公開すべきだろう。この事業は明らかに不透明だ。

※5月27日註記:移転元にある現在の施設は現況のまま残されるらしい。若狭から久米に移るのは「孔子廟」と「明倫館」の二つの施設のみで、同所にある他のふたつの施設(天妃宮と天尊廟)は動かないという (下の写真を参照。手前が天尊廟、奥が天妃宮)。もともと天妃宮と天尊廟は、孔子廟・明倫館と由来の異なる聖所なので当然といえば当然だが、所有関係・貸借関係など大いに気になる。久米崇聖会は、今後はふたつの施設を運営することになる。民間団体なので、財務関係の文書の公開義務はないだろうが、公共財産を使って運営する以上、市民に公開するのが筋である。

※6月16日註記:6月15日に新孔子廟・明倫堂(=至聖廟)がオープン。土地は那覇市から崇聖会への無償貸与、建物の建築費用2億6千万は崇聖会の借金と寄付(2600万円)で賄っていることが明らかになった(沖縄タイムス、汲汲新報の報道)。土地についてはもともと国有地で、那覇市が公園整備を理由に、国から三分の二を買い上げ、残りの三分の一を(国から)無償で借り上げる方式で活用することが平成15年頃に決まっていた(沖縄総合事務局資料より)。市議会議事録を精査した結果、土地の買上価格は7億 6600万円、総事業費は22億4200万円(計画段階)。計画段階での予定国庫補助率は5割だが、その後、一括交付金が導入されているから、事実上の国庫補助率はおそらく5割を超えている。シンボルとなる五本爪の龍の彫像(龍柱)は1億2400万の製作費で中国に発注されたが、その原資は一括交付金。国民の税金である。22億中少なくとも11億以上の資金が国民の税金から支出され、その残余も市民の税金から支出されていることは明らかだが、メディアはこのことをまったく問題にしていない。

手前が天尊廟、奥が天妃宮

手前が天尊廟、奥が天妃宮

沖縄には支配・被支配の封建的な関係がまだ色濃く残っている、とぼくは思う。支配する側は公務員であり、公務員の労組であり、旧時代の公務員である旧有力士族や旧久米人だ。彼らの利害だけが沖縄の利害ではないか、と思わせる出来事がなんと多いことか。「普天間基地移設問題」はもちろん、「孔子廟移設」もそうした利害関係に含まれているのではないかとぼくは訝っている。

沖縄では、上に立つ者が、自分の身を削らずハルサー(農民)を抑圧してきた悪しき伝統の上に、今もあぐらをかいている。「封建時代の遺制」が今も見え隠れする沖縄の社会経済こそ最大の問題なのだ。

2013年5月11日(5月27日改訂)

批評.COM  篠原章
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