「在特会」について考える

在特会(在日特権を許さない市民の会)のメンバーを含む「行動保守」の人たちに招かれて、野間易通さんと松沢呉一さんが「レイシズム」(とくに在日に対するそれ)について議論する動画がYouTubeで配信されている(VOL1〜5+特別編)。新大久保を中心に行われている、例の在日排斥デモをめぐる討論である。配信しているのは在特会関係者だが、ほとんど編集されていない。まんまのアップである。野間さんも一緒に仕事した仲だし、松沢さんも古くからの知り合いだが、在特会デモに抗議する「レイシストしばき隊」の旗振り役だということはこの動画で初めて知った。

事実上の進行役は「行動保守」側のせと弘幸さん。在特会とも関係の深い、もっとも右翼的な「ジャーナリスト」である。会場には在特会関係者も多いはずだが、怒号や罵声はほとんどない。びっくりするほど粛々と議論は行われていた。

では、議論はかみ合ったかといえば、もちろんかみ合ってはいない。お互いに疑問をぶつけ合うというかたちで進められていたが、本格的な討論には至らない。が、至らないことはけっして悪いことではない。主張の違いを確認するというだけで十分だ。お互いに、自分たちの主張を点検するチャンスにはなったとは思う。

だが、新しい何かが生まれたわけではない。いや、そもそもそんなものが生まれるとも思えない。在特会の、いわゆる「ヘイトスピーチ」は、少なくとも民主主義や人権を尊重する社会では認められない。「よい朝鮮人も悪い朝鮮人も皆殺し」といったようなシュプレヒコールやプラカードは反社会的である。在特会の側もそのことは十分承知している。「反社会的」であることを覚悟した確信犯である。確信犯に対して抗議するのはどだい無理がある。

在特会内部でも、こうしたヘイトスピーチについては 議論の余地があると考える人びともいるという話だったが、在特会はまだヘイトスピーチをつづけているし、今後もつづけるだろう。なぜなら、メディアが喜んで彼らの主張を批判するからである。野間さんや松沢さんが反発して「肉弾闘争」に近い抗議活動に訴えれば、メディアはさらに大きく取り上げる。それこそが在特会の狙いである。ヘイトスピーチは在特会の宣伝活動にほかならない。

ぼくは在特会の活動は新しいと思う。メディアの活用などは実に効果的だ。ヘイトスピーチも、宣伝活動にもっとも適した言葉を選んでいる。活動の現場も、これまでの右翼が気づかなかった、あるいは足を運ばなかった場所にまで及んでいる。

たとえば、辺野古の(普天間基地)移設反対派のテントに抗議活動に出かけた右翼も在特会だけだ。辺野古に行った在特会は「普天間基地移設反対に反対」と叫んだのではない。公有地に勝手に設置された反対派のテントは「不法占拠物」だとして、撤去を求めたのである。法令違反という観点から見れば、在特会が正しい。法を犯しているのは基地反対派である。その違法なテントを沖縄県警の警察官たちが守っている。警察官は、法を犯している基地反対派を排除するのではなく、不法占拠に抗議する在特会を排除しようとする。 実に異様な光景だ。

その在特会は、新大久保のデモという場面になると、 攻守入れ替わって警視庁機動隊に守られている。レイシストしばき隊とその同調者の罵声・怒号が飛び交うなか、在特会は機動隊に守られながら、「よい朝鮮人も悪い朝鮮人も皆殺し」をシュプレヒコールする。皆殺しを叫ぶ側を警察官が守っている。これもまたとんでもなく異様な光景だ。

在特会は「異様な光景」を演出する術に長けている、ということだ。ヘイトスピーチについて議論をすれば、「理」は明らかに野間さんや松沢さん側にある。だが、パフォーマンスや演出力については、「分」は明らかに在特会側にある。意図的に異様な光景を創りだし、その衝撃力を使って勢力拡大のためのPRを行っている。ハードな演出をする一方で、ホームページの デザインやスローガン、シュプレヒコールの選択など、一般の市民運動と見紛うソフトな演出も巧みだ。硬軟の使い分けは見事である。

在特会を支持するつもりはない。他の「行動保守」と同様、理論的な基盤はやはり脆弱だ。綻びは山ほどある。代表の桜井誠さんの演説は名調子だが、理知に裏づけられない主張が多い。にもかかわらず、在特会の支持者・活動家は増えている。

いちばん重く考えなければならないのは、在特会のヘイトスピーチに惹かれる人びとが少なからず存在する、あるいは増えているという事実である。この事実を徹底的に考えつくさないと、次のステップは見えてこない、とぼくは思う。

まだまだ考えなければならないことはいろいろある。

zaitokukai

批評.COM  篠原章
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