ぼくは原発事故を本気で反省していない

米国のメディア企業・ブルームバーグは、ユダヤ系の実業家が起ち上げた経済・金融関連の報道機関である。海外ではブルームバーグのニュースは、ビジネスマン必見だから、その存在は知っていたが、ぼくにとってはフィナンシャルタイムズや日経金融新聞よりもさらに縁の薄いメディアだった。とはいえ、最近ときどき刺激的なコラムがあることには気づいていた。

ブルームバーグ(2013年8月13日付)

ブルームバーグ(2013年8月13日付)

FBフレンドでもある渡邉憲一さんが取り上げていたブルームバーグのコラムが気になったので読んでみたら、日本の原発事故対応の問題点が驚くほど的確に指摘されていた。ウイリアム・ペセックというコラムニストの「安倍首相の歴史的評価、鍵は経済より原発事故対応」(原題:Fukushima Replaces Economy as Abe’s Legacy Issue: by William Pesek)というコラムである(8月13日付)。リンクが途切れるといけないので、コラムの主要部分を貼りつけておきたい。

アベノミクスは忘れよう。日本の外交・軍事面での影響力を再び高めるための取り組みも無視すべきだ。安倍晋三首相の歴史的評価は、チェルノブイリ事故以来最悪の原子力発電所危機を収拾するために何を実行したか、何をしなかったかというその一点で決まる。

(中略)

福島の事故は日本株式会社の体制順応的な傾向に起因する人災で、回避可能だった。東電は安全性の記録をごまかし、数千万人の命を危険にさらした。

腐って危険なこんなシステムを増殖させるのは「原子力村」だ。電力会社と規制当局、官僚、原子力産業を擁護する研究者との癒着によって東電は長年、怠慢に対して何の罰も受けないで済んでいた。こんな関係やカネ、メディアへの影響力に裏打ちされた東電は、この2年半にわたり放射能汚染データをごまかし続けてきた。東電の汚染水対策を政府がようやく代行することになっても大したことではない。

日本政府は今こそ現実を見詰め、以下の6つを実行すべきだ。まず原発の廃炉。被害の規模を評価する独立監査人を海外から招致。周辺地域が数十年間にわたり居住 や漁業、農業には安全でない可能性を認めること。革新的な解決策を世界中で模索。原子力村の解体。多額の汚染対策費用について日本国民に真実を伝えること。

こうすることで、世界にとって「何」を意味するかという問題に行き着く。国際舞台では福島はますます日本の不名誉になりつつある。放射性物質はクロマグロから検出されている。日本からロシアに輸出された中古車や自動車部品は言うまでもない。もう一度大地震に見舞われれば福島に再び被害が出て、東京が開催を希望する2020年の夏季五輪までにさらに原子炉が打撃を受ける恐れがある。世界は全く回避可能な大惨事について日本の言い分を2度も認めることはない。

アナリストは安倍首相による日本の財政健全化に向けた取り組みを評価しているが、後世の人々は東電と原子力村が作った惨事の後始末をしたかどうかで首相の手腕を判断するだろう。

ひょっとしたら東京在住なのかもしれないが、外人コラムニストで、日本政府の原発対応についてここまで的確に指摘した例をぼくは知らない。ペセックさんがどういう人物かはまったく知らないが、日本政府の対応について経過を詳細に観察し、相当な資料の読み込みをしていないとここまで書けやしない。

一点、異議があるとすれば、「原子力村」は日本独自の産物ではあるが、米国政府やGEなど原発関連の米国企業と深いつながりのある既得権集団である、という点。米国からはもちろん独立はしているが、米国の権益も反映しながら行動する集団だ。米国側も、自分たちの利益になるからと、原子力村との連携を維持してきたことは事実だろう。もちろん、そのことで原子力村の罪状が軽減されるわけではないが、彼らだけの思惑で動いてきたわけではない、ということは米国人も知っておくべきだ。ついでにいえば、原子力村は、 日米安保体制の一翼も担っているという構造的な特徴も否定できない。

が、総じていえば、ペセックさんのいうことはもっともだ。「日本株式会社の体制順応的な傾向に起因する人災」といわれれば、反論する言葉もない。ぼくも原発や民主主義のことなんか忘れて、「あまちゃん」 の世界に浸っている(あまり関係ないが、親しい友人のジャーナリストは、恵比寿マスカッツの解散を嘆き、毎日彼女たちのDVDを観て夜を過ごしている)。 今や音楽と映像・映画がぼくの最大の関心事で、原発への問題意識は薄れつつある。電力需要が逼迫しないのをいいことに、節電の志も中途半端だ。原発なんかなくとも、ガスと石油をがんがん炊いていれば電力は安泰、電気料金が上がるのはしょうがないと理不尽な値上げも抵抗することなく受けいれている。

原発のことを考えるのも、経済政策を考えるのも、政治家と役人の仕事になってしまっている。彼らだけに厄介な仕事を押しつけているつもりはないが、結果的にそういう構造になっている。その政治家や役人が、いい加減な対応をしたとしても、ぼくらには必ずしも十分伝わってこない。ぼくらは政治家たちにときどき文句をいい、非難もするが、それが彼らに届くとは 思っていない。次の日の朝は「あまちゃん」を観てきゃっきゃっとはしゃいでいる。文句をいったこともすっかり忘れている。ぼくたちはそういうニッポン人 だ。

ペセックさんのいうことはもっともだ。が、安倍首相以外の政治家が首相であっても、原発に対する対応に大きな変わりはないことも、ぼくたちは知っている。具体的な政治家の顔を浮かべて、いろいろ想像してみるが、維新の橋下さんやみんなの党の渡辺喜美さんが首相でも事態はペセックさんのいうような方向には好転しないだろう。

共産党の志位さんが首相だったら変わるだろうか。志位さんは消費税増税はやめるだろうが、一方で目に見える形での「福祉」を充実するだろう。バラマキといってもいい状態になるにちがいない。財源は逼迫して 原発対応の予算はなくなるだろう。東電は国有化するかもしれないが、そうだとしても労働組合に配慮した国有化になるだろう。共産党も原発が票にならないことをよく知っているのだ。威勢はいいだろうが、事態はやはりそう簡単に好転するとは思えない。

ペセックさんは「首相としての歴史的な評価」を求めるが、ほとんどの政治家は「票としての評価」を求めて終わる。ぼくたちの政治家もそういうニッポン人だ。

そういうニッポン人であることを恥ずかしくも思うが、居直りたい気分もある。ペセックさんのいうことは正論だが、ぼくたちは動かないし、動けない。まだまだ反省が足りないということなのだろう。

でも、反省って意外と難しいのだ。後ろ向きに反省することは簡単だ。「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…」と泣きながら48回唱えれば、周りも納得してくれるかもしれない。誰かのクビを切ればそれで終わりということにもなりかねない。

だが、それでは問題の解決にはならない。未来を見つめながら反省しなければならないということだ。未来を見つめながら反省するということは、皆が等しく血を流すということだ。誰かが得をするとか、既得権が温存される事態は許されない。自分だけは血を流したくないと皆が思っていれば、ニッポン人の反省は中途半端に終わる。

嗚呼、もう考えるのも疲れた。さて、あまちゃんダ イジェストでも見るか、という気持ちも抑えられない。結局は、ぼくたちの民主主義の問題なのだ。逡巡しているうちに次の日の朝が来る。どこかでこの循環に 決着をつけなければならないこともわかっているが、自己矛盾のなかでただただ溺れつづけている。原発のことを考えることは忘れるが、「あまちゃん」を観るのはけっして忘れない。それが実相だ。

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket