日本のポップの未来は明るい〜麻生香太郎さんの新著で考える

麻生香太郎さんが『誰がJ-POPを救えるか?マスコミが語れない業界盛衰記』(朝日新聞出版)を出版した。麻生さんはこの本の中で、「ソニー」「韓流」「つんく」「歌番組」「圧縮技術」「スマホ」「世界の不況」「マスコミがなくなる」の9つの 要因を挙げて、J-POPの衰退を語っている。

『誰がJ-POPを救えるか』麻生香太郎

『誰がJ-POPを救えるか』麻生香太郎

「ソニー」を筆頭に、「衰退の要因」はいずれももっ ともだが、今にして思えば「それでよかったのだ」という気がする。80年代後半から90年代前半にかけてのJ-POP全盛期に音楽に魅惑されて創作の世界の門を叩いた若者たちが第一線に立つ時代に入って、日本のポピュラー・ミュージックの層と質は、過去に例のない高いレベルに達しつつある。

日本のポップのレベルの高さについては、8/12付コラムの「ワールドハピネス2013」とニッポン・ポップの「今」でも触れているが、もう一つの“指標”となるのは「あまちゃん」である。

「あまちゃん」現象の重要な側面のひとつは、60年代末から80年代にかけての日本のポップが、それこそアイドル歌謡・演歌から前衛的なロックやジャズに至るまで(クラシックさえも含むかも)音楽として同質化・並列化され、新しいフュージョンの時代に向かう兆しを示しているという点にある。音楽を通じた「泣き笑い」の世界が、長い対立と協調の期間を経て、 初めて本当の「融合」に至る道筋を見つけたという意味だ。別言すれば音楽の普遍化である。そこでは、流行に敏感な人も流行に関心のない人も、演歌を好む人もクレツマー音楽を好む人も等しく同質化され、同じ土俵の上に立って心から音楽を楽しむことができる。垣根がなくなったというより、宮藤官九郎さんと大友良英さんは「あまちゃん」を通じて垣根を跳び越える技を教えてくれたのだ。人は皆、音楽の前では平等なのだという快楽、なんという悦楽。

もし、ソニーが最初からiTunesに門戸を開き、 docomoがiPodを早々と扱っていたとしたら、日本のポップは上手いこといったのだろうか? ぼくは逆に、日本のポップは今のようなレベルに達していなかったのではないか、と思う。もっと「いい気なもん」のポップが発信されつづけたにちがいない。短期的なビジネスでは勝利を収めたかもしれないが、 「音楽」そのものはもっとおろそかにしただろう。ソニーやdocomoがほんとうの勝者になるためには、iTunesやiPodに優る商品を開発しなければダメだが、彼らにはハナからその力はなかったわけで、負けるのが早かっただけマシである。ソニーの(docomoも)業界におけるイニシアティヴの低下(というよりグローバル・レベルでのメジャー各社の凋落)は歓迎すべきコトだ。

そうはいっても、対立・協調・融合・離合集散のプロセスで、優れたアーティストが売れなくなっている、食べられなくなっているというのは「間違っている」とは思う。彼らが質の高い創作活動・表現活動をつづけるためにも、一定の経済的な保障は必要だ。だが、結局は「切磋琢磨」である。前に進むのを止めたら、あるいは音楽への志が折れたら、いとも簡単に潰れてしまう現実は受けいれなければならない。

麻生さんはJ-POP救済の鍵を握るのは、動画サイトを楽しみつつ成長した、ボーカロイド(ボカロ)で楽曲を作る世代( 平成10年代生まれ)だといい、メディアによるボカロの過小評価を懸念している。たしかに子どもたち(おもに小学生)の日常を見ると、いまやボカロが音楽の主潮流だということはよくわかる。音楽創作の手段としてのボカロがスタイルそのものにまで成長するかというと、ぼくはまだ懐疑的だ。ボカロが、日本の ポップが積み上げてきた「層」と巧いこと連結すれば、5〜10年後の日本のポップはそれこそものすごいことになると思う。その意味では大いに期待してい る。

10年ほど前、ぼくは麻生さんに無理をいって講演を引き受けてもらった「負い目」もあるので(笑)、 その問題意識と予見には敬意を表したい。だが、10年近くにわたるこの“暗黒時代”に、実は日本のポップ(あえてJ-POPとはいわない)は大きく成長したのだ、ということは強調しておきたい。たとえボカロに依存できなくとも、日本のポップには未来を切り拓く力が十分ある、とぼくは確信している。その未来は明るい。

2013年8月19日
篠原 章

【追記】

ボカロの可能性について考えるとき、アナロ グ・メディアがデジタル・メディアに移行したときのことをついつい考えてしまう。デジタル技術は、録音・録画の“一般的”なクオリティを格段に向上させると同時に価格破壊ももたらした。インターネットがこの動きを加速したことは触れるまでもない。この「革命」は、ハードにもきわめて大きな影響を与えた。精密な製造技術が求められるアナログプレイヤーやビデオデッキがICチップや関連部品のシンプルな組み立てで済むDVDデッキに変わることによって、ハード生産の大半が、日本のような先進国から後発国に担われるようになった。「アナログ」の模倣は熟練した技術・技能が必要だが、「デジタル」は誰にでもコ ピー・模倣できる。その結果、世界の工場は日・米・西欧から、中国・インドを始めアジア諸国、東欧諸国などに移った。日本発のボカロもむろんデジタル技術だから、その応用は中国だろうが韓国だろうがどこでも可能である。デジタル化は世界同時進行する以上、技術的な意味では世界中どこでもボカロ・ポップの “生産”は可能だということだ。だが、それが長く継続するか否かは(つまり音楽としてのクオリティを長く維持できるか否かは)、やはりボカロ・ポップが生みだされる土壌がいかに肥沃かにかかっている。少なくとも日本にはその肥沃な土壌が生まれつつある。別に、ぼくがビジネスのことまで考えなければならない理由はないのだが、国際競争の面でもこの点は有利に働くと考えてよさそうだ。

批評.COM  篠原章
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