「メニュー偽装」は誰の罪なのか

世の中はニセモノだらけである。ニセモノの数とホンモノの数を比べれば、おそらくニセモノの数のほうがホンモノの数を上回るはずである。ニセモノの存在が、なんらかの法律に抵触するとすれば、それは司法の問題となるが、法律に抵触しないニセモノはいくらでもある。粗悪なニセモノもあれば、ホンモノそっくりのニセモノもある。いつのまにかニセモノがホンモノと入れ替わり、ホンモノが駆逐されてしまうことだってある。

ニセモノを利用することで儲ける連中はいる。それによって損をした人が腹を立てるのはわかるが、ホンモノとニセモノの違いに無頓着な多数派がいるのだから、ニセモノを商売に利用した連中だけが悪いとはいえない。ニセモノづくりは市場の欲求に応えただけだともいえる。もっと踏みこんでいえば、ニセモノづくりは人間の性みたいなもので、それを全否定することは不可能だ。ニセモノが世界を混乱に陥れる例もなくはないが(たとえば贋金)、「ニセモノはすべて駆逐すべきだ」という発想が「正当性」をもつとはかぎらない。

たとえば、ぼくにとってフォークとは、高田渡であり、早川義夫であり、遠藤賢司であり、あがた森魚であり、友部正人であり、西岡恭蔵だった。彼らがぼくにとっての芝エビ(または車エビ)である。かぐや姫やアリスやさだまさしやアルフィーはもちろん、吉田拓郎や泉谷しげるですら、ぼくにとってはバナメイエビだった。人気が沸騰したのはバナメイエビのほうで、芝エビはマニアの楽しみに過ぎなくなった。個人的にはとても残念だったが、「バナメイエビこそ正真正銘のエビである」と思う人が多数派であるという現状には抵抗する術もない。バナメイエビもエビに変わりはないし、たしかに不味くはない。世間が、バナメイエ ビこそエビだと思いこんでいるのに、「ざけんな。車エビこそエビだ、芝エビこそエビだ」といいつづけることに勇気は要る。「車エビや芝エビこそ正真正銘のエビである」と発言しつづけることに一定の意義はあるとは思うが、「バナメイエビこそ正真正銘のエビである」と皆が思っている現状にツバすることはできない。

そもそもホンモノとニセモノとのあいだの線引きは意外なほど難しい。あらゆるホンモノがニセモノづくりから出発しているといってもいいからだ。

ニセモノづくりというと語弊はあるが、日本の自動車産業の黎明期には、フォード、ゼネラルモータース、オースチン、ルノーなど欧米の車の模倣品・代用品をつくることで糊口をしのいでいた。今や、トヨタもホンダも日産も、れっきとしたオリジナル・ブランドだが、1960年代まで、欧米における日本の自動車の評価は「猿真似」以外の何者でもなかった。韓国産の自動車も90年代まで「日本の猿真似」だったが、現在の品質は日本の自動車にほぼ匹敵する水準に達している。音楽にしてもアートにしても、いかにして模倣品・代用品をつくるかが諸先輩の最大の関心事で、長い年月を経てオリジナリティを獲得するようになった。オリジナリティといえるものの多くはつい最近生まれた、といってもいい過ぎとは思わない。模倣の時代、ニセモノの時代はけっして短くはなかった。ほとんどの商品や作品が、「偽フォードの時代」を経験しているということだ。世界はニセモノで溢れている、というのはそういう意味である。

「芝エビVSバナメイエビ」「車エビVSブラックタイガー」に象徴されるメニューの偽装問題についても、ぼくは同様の見方をしている。エビの種類を偽ってビジネスをしていたことが倫理的(あるいは法律的)に許されないという話だが、顧客(消費者)の側は本気で「許しがたい」と思っているのだろうか? 「俺は芝エビだからこそチリソースを注文した。それが偽りだというなら、顧客を欺く行為だ。社長や支配人は辞任せよ」と思っている人間がどのくらいいるのだろうか? ぼくのようなこだわりの薄い人間だと、芝エビだろうがブラックタイガーだろうがバナメイエビだろうが、美味しければ何でもいい。不味ければ二度と行かない。正直いうと、その程度の反応しか示せない。だが、メディアは挙ってこの問題を取り上げ、政府も(違法行為があるならしょうがないが)対応を求められている。

たしかにメニュー偽装は顧客を舐めた行為ではある。多くは「芝エビとバナメイエビの違いなんて客にはどうせわかりっこない」という確信犯だろう。が、ほとんどの客は芝エビを目当てに「エビのチリソース」を注文するのではなく、「エビのチリソース」が食べたいからこの料理を注文するのではないか。それが美味しければ苦情は出ないはずだ。実際、「ホントに芝エビなのかね」という苦情が過去にいくつか出ていれば、店の側も表示をあらためていただろう。だが、今回明るみに出たケースの多くは、店の側の自己申告である。店の側が言いださなければ、客は「バナメイエビ」に気づかないまま終わったろう。客を舐めた行為であるという汚点は消せないが、客の側にも舐められるだけの弱点がある。騙すほうが悪いが、騙されるほうにも問題はあるということだ。

騒ぎが大きくなればなるほど、「お前たちにはホンモノとニセモノを区別する能力もないんだな」といわれているような気分に陥る。テレビも雑誌も、食と食材に関するテーマの番組や記事が花盛りだが、“グルメ”の実態なんてそんなものなのかとも思う。「偽装はダメだが、偽装に気づかなかった俺たちもダメじゃん。ま、とりえあえず、CPがよくて美味しければOKなんだけどね」という結論がいちばん真っ当な気がしてくる。ヒステリックに「糾弾」するような問題じゃないってことだ。

批評を仕事とする立場からすれば、出版・音楽・アートとは比べものにならないほど巨大な“食“業界で禄を食んでいる批評家・評論家・ライター・ジャーナリストは、今までこの問題を取り上げたのだろうか、という疑問は残る。メニューの偽装なんて今までいくらでもあったろう。芝エビとバナメイエビの違いはそう簡単にはわからないかもしれないが、輸入牛と和牛の区別や加工肉であるか否かぐらい、専門のモノ書きにわからないわけはない。もし、そういう“告発”がメ ディアなどを通じて行われていないとすれば、この業界には「批評は不在」ということになる。

偽装した側を責めるだけではなく、やはり偽装を見抜けない(あるいは見抜かない)側にも責任はある。その責任を忘れてメディアが大騒ぎしているのなら、ちょっとした“お笑い”である。

ホテルオークラ東京お詫び

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批評.COM  篠原章
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