この国に五輪を開催する品格があるのか?—森後任を巡る混乱に思う

どのような人事も完全な透明性の確保は難しいし、またすべきでもない。内部での調整を経て最終的に発表するのが筋で、そのプロセスで議事の詳細や候補者名が公開されると、必ずといっていいほど横やりが入る。組織内部はもちろん、外部からもさまざまな介入が起こる。介入を排除し、組織の自律性を確保するために、人事の透明性を限定する必要があることは、あらゆる組織や人事に共通している。組織の人事を経験した者にとって、これは初歩の初歩である。

東京五輪大会組織委員会が公益財団法人だ。たしかに公共性は強いが、「完全な透明性」を求めるのは狂気の沙汰だ。「社会的な問題になっているからこそ強い透明性が求められている」という意見も根強いが、まるで逆だと思う。社会的な問題になっているからこそ、情報開示を限定して内部でしっかりと話し合い、合意が形成されたら公表すればいい。

東京五輪大会組織委員会は、会長選考委員会委員の名前を伏せたが、これも当然の措置である。委員名が公表されれば、委員への電話やメール、面談申込みが急増し、メディアやSNSは委員についてあることないこと書きたてるに決まっている。そんな環境で仕事ができるわけがない。結果的に委員名はバレてしまったが、本来ならまったく好ましくない。

政府首脳から野党、メディアやSNSに至るまで、「透明性」を強く求めているが、会長選出手続きの流れが明確で、後日、議事も含めた詳細を発表できる準備さえ整っていれば、透明性はそれで十分ではないか。現段階で、「委員同士のバトル」「候補者同士のバトル」「政府や東京都の有力者の思惑」につながるような内部情報まで露出する必要がどこにあるのだろうか。

役所だろうが、政党だろうが、企業だろうが、大学だろうが、労働組合だろうが、反戦平和団体だろうが、人事選考について「メンバーに対する完全な透明性の確保」を掲げている団体がいくつある? ほとんどないはずだ。そんなことをしたら、組織自体がガタガタになる。五輪が国民的行事であるとしても、国民に会長選出の過程を漏れなく開示する必要などまったくない。完全な透明性を確保したら、五輪委員会、五輪大会組織委員会はガタガタになる。「開催の是非」を話し合う前に組織が瓦解しかねない。

森辞任をめぐる一連のヒステリックな動きは、女性差別問題の本質を覆い隠したが、「森会長後任問題」では組織の自律性をぶち壊すような動きが続いている。ぼくはけっして五輪推進派ではないが、国民もメディアも政治家も五輪がよほど嫌いと見える。女性差別問題に総出でフタをした連中が、今度は五輪自体にフタをしようとしている。こんな品格のない国で五輪を開催する必要はないよ、とIOCに告げ口してやりたい気分だ。

批評.COM  篠原章
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