大島新監督作品『なぜ君は総理大臣になれないのか』を観た

大島新監督の話題作

「今さら」だが、大島新監督のドキュメンタリー『なぜ君は総理大臣になれないのか』を観た(Netflix版)。立憲民主党の小川淳也衆院議員(香川一区/比例四国)の政治家としての歩みや日常、選挙運動などをカメラで徹底的に追いかけた作品である。2003年の最初の選挙(自民党・平井卓也に敗れる)の映像も含まれている。

昨年(2020年)大評判となり、第94回キネマ旬報ベスト・テンで文化映画ベスト・ワンを受賞した作品である。大島監督は、大島渚の次男であり、『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録』(2007年)やMBS『情熱大陸』、NHK『課外授業 ようこそ先輩』などを手がけている。

 

得がたい資質を持つ小川淳也

ぼくは立憲民主党の支持者ではないし、いまの党の姿勢がつづくかぎり今後も支持することはないと思うが、とりあえずそのことは横に置いておく。

好き嫌いでいえば小川淳也議員は好きだ。野党議員のホープの1人だと思う。政治家の血筋とはまったく縁のない東大出の秀才が総務省(自治省)を10年で辞め、「日本を根本から変えてやる」と決意して政治の世界に飛びこんでいった決断力と熱意は、政治家として得がたい資質だ。ぼくなりに期待している。

映画を観るかぎり、大島は鋭い分析力の持ち主だし、小川淳也も日本の政治家としてはかなりイケテルほうだ。いいことをいう。映画も深いところにまで突っこんでいる。

物足りなさの正体

だが、何かが物足りない。有権者と政治家・政党のあいだにある「溝」とは何なのだろうという根本的な疑問がつきまとい、最後まで出口は見えてこない。大島監督も小川も、香川一区の小川の対立候補で、この映画の準主役ともいえる平井卓也(デジタル改革担当大臣)もこの問いかけをつねづね考えているだろうが、溝は溝のまま終わっている。選挙と国会、もっといえば日本の民主主義とは何なのか、という普遍的な問題提起に対する答えにはなっていない。そこがこの映画のいいところでもあるので、問いかけが問いかけとして終わることはけっして罪ではないが、「で、俺たちはどうすりゃいい?」の解き口も見えてこないことが日本の現状を表しているのだろうか。

さまざまな糸がもつれ合った国政に比べると、自治体議員の政治活動はわかりやすい。最近、地方都市の市議たちの活動を注意深く観察しているのだが、見ているだけでとてもおもしろい。有権者との距離も近い。やるべき仕事をすればしただけ得票にもつながる(そうでない場合も多いが)。それが県議になると一気につまらなくなり、国政レベルになると吐き気がするほど政治は面白くなくなる。

「なぜだろう」と考えたとき、有権者の「手応え」を、国会議員(候補者を含む)も有権者自身も、可視化する手段を持たないからだと思う。世論調査がよくもわるくも恣意的かつ気まぐれなものであることは広く知られており、結局、手がかりは選挙結果だけとなる。だが、なぜ当選したのか、なぜ当選できなかったかといった問題を掘り下げようとしても、中央政界や地方政界における政治力学やそのときどきの社会情勢(モードというべきか)が邪魔をして、候補者自身の能力や魅力と得票とのリンクがはっきり見えてこない。

菅首相の特質

こうした事態に直面して、「民意に応えられない政治」「血の通わない政治」を批判し、あれだけ人気のない菅首相が首相を継続できるシステムや政治態勢を「おかしい!}と糾弾するのは簡単だが、菅首相が首相に選ばれ、いまも首相の座を直接脅かす者がいないのは、やはり市議時代につちかった菅義偉の有権者の読み方(民意?)にヒントがあると思う。そこが彼の最大の強みではないか。「有権者の手応え」を政治家として基本においている、独自に可視化しているからではないのか、と思う。政治を動かす大衆が本当に望んでいるものを地方選挙で体得した菅は、大衆の欲求の満たし方も、裏切り方も熟知しており、どの道をどうやって突っ走れば傷が少ないかを見極める能力がある。選挙に行かない大多数(都市の地方選挙では投票率50%を大幅に割り込むのが普通)のいなし方も心得ている。それが自民党政治の本質に関わるものであることもいうまでもない。

求められる「ノイズ」

 
小川は熱血漢の秀才で、文句なく「いい人」だと思う。が、正直いっておもしろみがない。信頼はできるがおもしろみがないのである。大島監督がいうように小川は「政治家に向いていない」のかもしれないが、それをいったら元も子もない。おもしろくない政治の世界でおもしろみのない候補が必死で闘っても、有権者には届きようがないが、それは必ずしも小川個人の責任ではない。政治制度や選挙制度の現状が小川の資質を簡単には開花させないという面も大きい。
 

そもそも小川のような中央官庁OBは、一般に官庁から直接国会議員になる道しか用意されていない。もし、市議あたりからやるとか、市長からやるとかいうなら、おもしろみのない小川がもっとおもしろい政治家になっただろう。が、それは今さら望めないことだから、これとは別の「成長のための内的要因」を獲得しなければならない。

ぼくは、政治家としての成長の鍵は人間としてのノイズだと思っている。小川のようにノイズがなさすぎる政治家は容易に成功しない。小川はそれほどまでに清廉で透明度の高い政治家なのだが、自らノイズを発することができるようになれば、そのノイズが有権者とのあいだの溝を埋め、選挙区での勝利をもたらす要因になると思う。菅首相自身はノイズを発していないが、彼はノイズがどこにあるかを突き止め、それを利用する術に長けている。それが政治家としての老獪さにつながっている。「菅義偉という政治家はノイズそのものである」という言い方もできるかもしれない。尊敬もされるが、それ以上に嫌われている理由もそれだろう。おそらく二階俊博幹事長も同じ部類の政治家だ。

抽象的な「結論」だが、小器用に何でもできる人が出世しないのと同じ理屈である。かといって、自らのパブリック・イメージに人工的なノイズを混入させるような安直なやり方では、魅力あるノイズは生まれない。ノイズは作られるものではなく体内から自然に発せられるものだからだ。
 
今後、小川淳也がノイズを発せられるかどうか、まったくわからない。だが、10年後の小川淳也は、おそらく今よりはるかに魅力的な政治家になっているはずだ。それを期待するほかない。

香川県民は四国新聞をいつまで許すのか

それにしても、小川の記事は悪意を持って書き、平井の記事は提灯記事ばかりという四国新聞の編集方針は酷かった(平井家は四国新聞のオーナー一族である)。あれではさすがに小川が気の毒だ。平井を応援するにしても節度というものがある。「ジャーナリズムの中立」なんてありえない理想だとしても、それを端から放棄してしまう四国新聞の編集方針は責められてしかるべきだ。小川がわずかの差で平井に負け、選挙区当選できないのは、四国新聞の編集方針とそんな四国新聞を許している香川県民の科だといわれてもやむをえない。
批評.COM  篠原章
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