「小此木八郎立候補」で命運尽きた横浜のIR構想

横浜市長選立候補の現況

8月に行われる横浜市長選挙に立候補するため、神奈川3区(横浜市神奈川区・鶴見区)から選出されている小此木八郎国家公安委員長(国務大臣)が菅義偉首相に辞表を提出し受理された。

横浜市長選挙には、神奈川8区(横浜市緑区・青葉区)選出の江田憲司衆院議員(立憲民主党)が「横浜(ハマ)のドン」といわれる藤木幸夫氏(藤木企業会長)の理解を得て横浜市立大医学部教授の山中竹春氏の擁立に向けて最終調整しているほか、横浜市議の太田正孝氏(立憲民主党)、動物保護団体代表理事の藤村晃子氏、元衆院議員の福田峰之氏(元自民党・元希望の党)がそれぞれ無所属での立候補を表明している。DeNA初代球団社長の池田純氏も立候補の意向を固めているという。

争点はIR誘致

選挙の争点はIR誘致だ。横浜市は山下ふ頭の再開発に際してIR誘致の方針を明らかにし、当初は港湾関係者の理解も得られるかと思われた。ところが、山下ふ頭を含む横浜港全体を事実上差配する藤木幸夫氏がこれに猛反対すると、港湾関係者は一斉にIR反対の姿勢を打ちだした。さらに藤木氏は、立憲民主党などとスクラムを組んで、IR誘致を断固として阻止する意向を示している。これには藤木氏の後援を受けて当選した林文子横浜市長も大いに困惑することになった。

その一方、誘致の是非を問う住民投票を求める署名活動が静かに進められ、いつのまにか20万筆近く集まった。その結果、市議会に住民投票の実施が請求されたが、与党の自民党・公明党が多数を占めていたため、請求は否決された。だが、保守・中道系市民のあいだでもIR誘致反対が根強いことがしだいに鮮明になり、当時の安倍晋三首相や菅義偉官房長官の方針に応じてIR誘致を進めてきた林氏の再選(4選)は危ういとの観測が急速に広がった。以後、市議会与党のなかにもIR誘致に懐疑的な姿勢を取る議員が増えているのが現状である。

菅首相の方針に反する小此木氏の「IR反対」

横浜市長選挙は8月22日に予定されている。林市長はまだ不出馬を表明していないが、「林不出馬」を前提に横浜政界は動きだしている。小此木氏が出馬の意向を示すまで、保守系には「有力候補」と目される人物はいなかったが、横浜での知名度の高い小此木氏が立候補することで、他の候補者の影が薄くなってしまった、というのが実情だ。

辞任にも驚いたが、それよりももっと驚いたことに、小此木氏は、菅政権の方針に反して「IR反対」を掲げるという。しかも菅首相は、小此木氏の反対姿勢を責め立てる様子がない。すべての候補が「IR反対」を唱えている以上、争点は消滅する。現在の予定立候補者の顔ぶれを見るかぎり、小此木氏が最有力候補となることはまちがいない。

だが、なぜ小此木八郎氏は、大臣の椅子を蹴り、IR誘致に反対する「市長候補者」への道を選んだのだろうか。

「菅・藤木対立」の解消

神奈川2区(横浜市西区・南区・港南区)選出の菅首相が、小此木八郎氏の実父で故人の小此木彦三郎氏(衆院議員/建設相・通産相を歴任)の秘書だったのは有名な話だ。いってみれば首相にとって八郎氏はかつての親分の息子で、首相は八郎氏の後見人のような立場にある。そのせいで、「八郎氏の市長選への立候補を抑えられなかったのは首相の大失態」と見る向きもあるが、おそらくそうではない。首相は横浜市がIR反対に方向転換しても、それを認めることになるだろう。つまり、小此木八郎氏の立候補は、横浜市のIR構想の命運が尽きたことを示しているのだ。

小此木氏の市長選立候補は、むしろ、ハマのドン・藤木幸夫氏と、その藤木氏と横浜へのIR誘致をめぐってギクシャクした関係になっていた菅義偉首相との「和解案」あるいは「妥協案」と見てよいのである。

藤木氏の畏るべき力

菅首相も小此木氏も、藤木氏のバックアップで横浜における政治生命を保ってきた。もっといえば、現職の林文子市長も立憲民主党の江田憲司氏も、藤木氏との良好な関係が保たれなければ厳しい選挙となる。「ハマのドン」の横浜におけるカリスマ性はそれほどまでに強く、朝日新聞や東京新聞に劣らない反政府・反権力的な論陣を張る神奈川新聞さえも、菅首相は批判しても藤木氏を批判したことはない。横浜港で働く人たちの大部分、また古くから横浜に住む市民の多くが藤木氏を愛する藤木信者だ。市長選の際にも、個人的な政治的主張は棚上げして「藤木さんが推すなら…」という人は多い。

小此木八郎氏の父・小此木彦三郎氏と二歳年下の藤木氏は、共にミナト・横浜の発展を築いてきた間柄だ。小此木氏は、実父と藤木氏のふたりの背中を見て育ってきたことになる。藤木氏の長男・幸太氏(藤木企業社長)も小此木氏にとって兄貴分のような存在だ。その藤木氏が菅首相の掲げる横浜へのIR誘致に反対の狼煙を上げ、いちばん困惑したのが菅首相にもきわめて近い小此木氏だったと思う。

誰も損しないIR誘致断念

藤木氏がIRを受け入れなかったのは、藤木氏自身の山下ふ頭再開発プランの障害になるからであった。ところが、昨年、トランプ大統領の息のかかったアメリカのカジノ企業、ラスベガス・サンズが横浜でのIR参入を断念し、今年になってからも横浜進出を断念する香港のIR大手企業が現れている。市民の反対運動が高まるとともに、サンズの脱落でトランプ氏への配慮が不要になり、横浜市へのIR誘致という政策の優先度は低下しつつある。菅首相にとって、藤木氏との関係を断裂させ、地元・横浜市を他党に明け渡すような政治的なリスクを犯してまでIRを積極的に推進する理由はない。藤木氏は「横浜を外国企業に売り渡すな!」というつもりでIR反対運動を先導していたが、有力海外企業が参入を取りやめ、まずはひと安心だ。藤木氏にとっても、これ以上菅首相を攻撃する意味は薄れつつある。

ただし、IRをめぐって市民の世論は分断されてしまった。この分断を解消するには、推進派が戦線を縮小するか撤退する必要がある。菅首相がIR推進の看板を降ろすのがいちばんだが、首相としての面目を保つためにそれはできない。首相の意向を受けてIR推進を掲げてきた林文子市長を裏切る結果にもなる。林氏も推進してきた手前、今さらIR断念とはいえない。かといって、誘致派がこれ以上失地を回復するのは不可能だ。

であるなら小此木氏がひと肌脱いで、「IR反対」を標榜して火中の栗を拾うが如く立候補すれば、立憲民主党との「共闘」に向けて走り始めていた藤木氏も足を止めて小此木氏に配慮するだろうし、菅首相もIR推進の立場に固執するのをやめ、小此木氏の立候補を影で後押しする可能性が高くなる。これによって市民間の対立も霧散霧消に向かう。林市長もこれ以上の傷を負うことなく勇退できる。さらに小此木氏が市長に当選すれば、余波も起こらないまま終息に向かうことになる。結果として、IR参入を今も目指している一部の企業グループを除き、痛手を受ける者はいない。万々歳である。

選挙の行方

では、小此木氏立候補という策は、悩みに悩み抜いた小此木氏個人の発案なのだろか。いや、そうとも言い切れない。小此木氏、菅首相、藤木氏の阿吽の呼吸で生まれた「奇策」ではないかと思う。藤木氏が仕掛けた可能性は高いが、三者の緊密な調整の上で出た結論とも思えない。藤木氏が、小此木氏支持を公言することはないだろうが(現にこの件についての藤木氏のコメントは見当たらない)、立憲民主党系の候補者を積極的に応援することもないだろう。少なくとも藤木氏周辺はまちがいなく小此木氏支援で動くはずだ。

立憲民主党にとっては残念な結果となるかもしれないが、市長選最大の懸案がIR誘致であった以上、有力候補のすべてがIR反対を唱える事態を迎えてしまった今、やむをえざる結果として受け入れるほかない。伏兵の池田純氏が小此木氏を排して当選する可能性も残されているが、それもまた横浜らしい波乱だ。藤木氏や横浜市民は素直にその結果を受け入れるにちがいない。その場合、小此木氏はまた国政にもどればいいだけの話だ。

今後、「横浜市はIRを拒むことでさらなる発展の芽を摘んだ」という批判が出てくるだろうが、横浜や大阪のような、一定の確立された評価を持つ都市にIRは不要だ。IRはどちらかといえば田舎者による発想である。横浜ならもっと個性的なプランニングがあってしかるべきだ。事業収益力がIRに劣るものだとしても、それはあまり気にする必要はない。横浜の活力源は人とミナトである。ミナトの将来を地力で切り拓くことができる人材を育成しさえすれば将来の不安はない。そのことを十分知っている候補者こそ次の市長に相応しいだろう。

 

批評.COM  篠原章
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