『はだしのゲン』と平和教育—広島が生んだ戦後想像力の二重性
昨年12月25日に〈『はだしのゲン』再読—「正義」の物語か「暴力」の物語か〉をアップしたが、81回目の原爆忌を迎え、拙稿に訂正や微調整を加えて、平和教育そのものを主役とする「決定版」を作成した。ご一読を。
毎年八月六日の原爆忌が近づくたびに、『はだしのゲン』(中沢啓治作)が脚光を浴びるのが「年中行事」になっている。2025年は『はだしのゲンはまだ怒っている』というドキュメンタリー映画(込山正徳監督)まで公開され、広島県知事推奨・文部科学省選定というお墨付きまで得て、一部で評判になった。『はだしのゲン』は今や平和教育に不可欠の「教材」である。
一方、保守論壇は『はだしのゲン』とこの作品から派生した思想的主潮流を、左翼偏向にまみれたものとして批判を重ねてきた。だが、この種の批判もまた、ナイーブでシンプルすぎるイデオロギーに支配された一面的な読み方だ。礼賛論も否定論も、『はだしのゲン』が抱える多層的な構造を見落としている。
筆者はかねてから、両者にひとしく違和感を抱いてきた。なぜなら、『はだしのゲン』は実は二つの異なる物語を語っているからである。
前半は、戦争の愚かさを告発し、言葉と理屈によって人間は過ちを正せるのだという「平和と希望の物語」である。父・大吉は戦争を拒み、ゲンは怒りを言葉に変えて社会に訴えようとする。だが後半では、その希望が一つずつ壊れていく。正しいことを言っても、世界は動かない。正義は力の前で踏みにじられ、弱い者は守られない。
後半で前面に出てくるのが、ゲンの子分・隆太である。多くを語らず、しかし力によって結果を引き寄せる存在だ。隆太はピストル=暴力こそが事態を改善すると信じて行動する。
この隆太という人物の造形に、私は深作欣二監督『仁義なき戦い』(1973年)の影を見い出さずにはいられない。同作は、まさに被爆地・広島を舞台に、第一次・第二次広島抗争を素材として、焼け跡から立ち上がった男たちが、いかにして暴力によって戦後を生き延びたかを描き切った。中沢啓治と深作欣二は、ほぼ同時代に、同じ広島という土地から、似た問いを引き出している。すなわち──正義が無力化したあとの世界で、人はいかに生き残るのか、という問いである。
『はだしのゲン』前半が『少年ジャンプ』に連載されていた1973〜74年、映画館では菅原文太と金子信雄が血みどろの抗争を演じていた。正確を期せば、隆太が拳銃を握りしめるのは単行本第五巻以降、すなわちジャンプにおける連載打ち切り後、後述する左派系媒体での連載時代──ちょうど『新仁義なき戦い』シリーズの時期──のことである。だが、この数年のずれはむしろ示唆的だ。実録路線が続篇へと突き進んでいったのと並走するように、『ゲン』もまた言葉の物語から力の物語へと深化していった。両者は無関係ではない。広島という土地が、戦後日本にもたらした想像力の二つの顔である。一方は反戦平和の象徴として語られ、もう一方は東映実録ヤクザ映画の舞台として語られた。だが、根っ子は同じだ。原爆と焼け跡が剝き出しにした、言葉が効かない世界の現実である。
そもそも、隆太的なるものは時代の空気の反映である以前に、中沢啓治自身の内部に最初から存在した。『はだしのゲン』に先立つ『黒い雨にうたれて』(1968年)は、被爆者の殺し屋を主人公に据えた、まさに「言葉が効かない世界で力が語る」物語である。一年ものあいだ各社に掲載を断られ続け、ようやく芳文社『漫画パンチ』に載ったというこの作品の来歴まで含めて考えれば、『ゲン』後半の転換は突然変異ではない。前半の「平和と希望の物語」にも力の論理は伏流しており、転換は断絶というより勾配なのである。
隆太に焦点が当たることで、『はだしのゲン』は次第に「正義を語る話」から「生き延びるための話」へと移っていく。この転換こそが、本作を〈名作〉にし、同時に危険な作品にもしている。作者の思想がぶれたのではない。言葉が無力化する地点まで、現実を描き切ってしまった結果である。
宗教社会学者・大田俊寛は、被害の記憶があまりに正義の位置を独占すると、それはやがて「疑ってはいけない正しさ」に転化し、他の経験や別の現実を押しのけてしまうと指摘する。断っておけば、この危うさが宿るのはテクストそのものというより、本作を「平和教育の聖典」として祀り上げる受容の側である。テクストはむしろ、聖化に抗う毒を最初から含んでいた。正しい怒りはある。だが、その怒りだけでは社会は動かない。その隙間を埋めるように、力が入り込んでくる。中沢啓治はそれを覆い隠さなかった。
この本作の「制御できなさ」が、二度にわたる教育現場の混乱として噴き出したのが、この十数年の実情である。
第一の論争は、2012年から13年にかけての松江市教委「閲覧制限」問題だ。きっかけは2012年8月、市民から「歴史認識をめぐって」学校図書館からの撤去を求める陳情が市議会に出されたことだった。議会は不採択としたものの、「過激な描写」を問題視する声を受け、市教委は同年十二月、市内全小中学校に閉架措置を要請する。理由は旧日本軍による斬首場面や性暴力描写であった。翌13年8月に報道されると全国規模の論争が起こり、市教委は手続き不備を理由に撤回に追い込まれる。
ここで注目すべきは論争の構図である。撤去を求めたのは保守系市民であり、彼らが問題視したのはまさに後半部分──軍の残虐描写と暴力場面──だった。一方、撤回運動の中心となったのは『しんぶん赤旗』をはじめとする左派陣営である。前半の「反戦平和」を擁護する立場が、結果として後半の「暴力の現実」をも擁護せざるをえなかった。論争の力学そのものが、本作の二層構造を浮かび上がらせている。
第二の論争は、2023年の広島市教委「平和ノート」削除問題である。市教委は小学三年生向け教材から『ゲン』の引用場面を削除した。削除されたのは、家計を助けるため路上で浪曲を歌う場面、栄養不足の母に食べさせようと池の鯉を盗む場面、家の下敷きになった父がゲンに逃げるよう叫ぶ場面──いずれも、原爆そのものよりも、戦中・戦後の貧困と生存の現実を描いた箇所である。市教委の説明は「漫画の一部では被爆の実相に迫りにくい」だった。
だが本質はそこではあるまい。教育現場がついに扱いきれなくなったのは、「正義」や「反戦」では括れない、生き延びることの剝き出しの現実だったのではないか。皮肉なことに、削除報道後、本作の売り上げは急増したという。教育の場から外されたとき、初めて作品本来の姿が読者の手に戻った──そう読むこともできる。
二つの論争は、立場こそ逆だが、同じ一点を指している。『はだしのゲン』は、平和教育という枠に収まりきらない作品なのだ。保守も左派も、教育委員会も、それぞれの仕方でこの作品を持て余してきた。
学校教育が必要とするのは「戦争は悪い」「平和は尊い」という、明確で希望につながる教訓である。マスメディアと、それに接する大衆が好むのも、こうした単純な教訓だ。後半の『ゲン』は、その教訓をいとも簡単に裏切ってしまう。平和を唱えるだけでは足りない。正しい言葉が通じない場面が現実には存在する。そして、ときに力がすべてを決めてしまう──この認識は、間違っているどころか、あまりに現実的である。だからこそ扱いづらい。制御できない読みを生み、教える側の足場を揺るがしてしまうからである。
ところで、興味深いのは『はだしのゲン』連載誌の変遷である。1,973〜74年に『少年ジャンプ』(集英社)で連載された前半部分(単行本第一〜四巻)は、漫画という表現でしかなしえない手法で原爆の実態を描いた「平和と希望の物語」として、広く読者を獲得した。
ところが『ジャンプ』連載が打ち切られた後、後半部分(第五〜十巻)は、『市民』(旧ベ平連系市民団体発行)、『文化評論』(日本共産党発行)、『教育評論』(日教組発行)と、左派系媒体を渡り歩いて連載された。この掲載誌の変遷自体は、福間良明・吉村和真らの受容史研究(『「はだしのゲン」がいた風景』梓出版社、2006年)が丹念に跡づけている。だが、確認したいのは書誌的事実ではない。
ここに、本作をめぐる最大の皮肉がある。「平和」を標榜する党派や団体の機関紙誌で、正義が通用しない世界、暴力のみが意味を持つ苛酷な現実を描いた物語が連載されていたのだ。掲載側がこの転換をどこまで自覚していたのかは、いまもって判然としない。あるいは、ゲンの怒りは自陣営の怒りと同じものだと素朴に信じ、隆太の暴力を読み飛ばしていたのかもしれない。
『はだしのゲン』は反戦の教科書ではない。言葉が効かない世界で、人はいかに生き延びたのかを描いた、戦後史の冷静かつ冷徹な記録である。中沢啓治と深作欣二は、広島という土地から、戦後日本がついに正面から引き受けなかった問いを差し出した。本作が今もなお「危険」なのは、理想を否定せず、しかし理想だけでは足りなかった現実を、覆い隠さず描き切ってしまった点にある。
暴力の物語が「平和」を標榜する媒体で連載されたという皮肉──この皮肉こそが、戦争と平和の真実を映し出している。『はだしのゲン』が平和教育の枠に収まらないのは、この国が広島の慰霊と核の傘の同居に、いまだ収まりをつけられずにいるのと、おそらく同じ理由による。
