試論「琉球独立論」の見取り図〜沖縄独立のために県民は何をなすべきか

『「琉球独立論」の見取り図〜「沖縄独立」を実現するために県民は何をなすべきか』

という論考(未発表)を書いてみました。なぜこんな論考を書いたかというと、沖縄の独立を“真剣に”考えることによって、沖縄のダメな点、日本のダメな点、もっといえば現代国家のダメな点を浮き彫りにしたいと思ったからです。ここ数か月、ぼくのFacebookへの投稿やWEBサイト「批評ドットコム」の更新が滞っていたのは、この壮大な(且つひょっとしたら単なる徒労に終わるかもしれない)テーマにすっかり捕らわれていたからでした。

さて、琉球あるいは沖縄が独立する——そう聞いて、多くの人はまず「ありえない」と思うでしょう。実際、独立を支持する県民は数パーセントにすぎません。それでもこの問いを考える意味はある、というのが本稿の出発点です。極端な問いを立ててみると、ふだん見えないものが見えてくるからです。日本という国は、いったい何によって一つにまとまっているのか。法律なのか、力なのか、それともお金なのか。

たとえば、こんな想像をしてみます。県議会が独立を決議し、日本の法律をすべて生成AIに「琉球共和国の法律」へ書き換えさせ、矛盾のない法典を一晩で完成させる。かつて明治政府が何十年もかけた作業が、いまなら短期間で終わってしまう。では、それで独立できるのか。

答えは、翌朝の風景を思い浮かべればわかります。手元のパスポートは日本国発行のままで、新政府が出す旅券はどの国の入国審査も通りません。運転免許も年金手帳も健康保険証も日本の制度につながっていて、その原簿は国のコンピュータの中にあります。銀行口座も、携帯電話の電波も同じです。新しい裁判所が判決を出しても、法務局が登記を書き換えず、銀行が差し押さえを実行しなければ、それはただの紙切れになる。つまり、独立を阻んでいるのは法律の知識でも設計能力でもなく、誰が実際に人を動かし、記録を握り、給料を払っているかという、もっと生々しい事実なのです。

そして最大の壁はお金です。ここで本稿は、よく語られる話をひっくり返します。「沖縄は基地で食べている」という言い方に対して、県は長く「基地関連収入は県民所得の五パーセント程度にすぎない」と反論してきました。数字は正しい。けれど、それは基地依存が消えたことを意味しません。米軍から直接入るお金が減った分を、基地負担への配慮を理由とする国の補助金が肩代わりしただけではないか——依存の相手が米軍から日本政府の財布へ移り、その関係が制度の中に埋め込まれて見えにくくなった、という読み方です。

しかも、そのお金は沖縄に根を張りませんでした。復帰から五十年以上、道路も港も空港もホテルも整った。観光収入は過去最高を更新しています。それでも一人当たりの県民所得は全国平均の七割に届かない。ホテルや航空会社の持ち主が県外にいれば売上の一部は外へ流れ、食べ物も建材も燃料も県外から買っている。せっかく入ったお金が、県内を回らずに抜けていくのです。独立して自前の国を作るとは、税率表を書き直すことではなく、この「漏れる構造」そのものを作り替えることを意味します。年金はどうするのか。銀行の国際送金網にどうつなぐのか。どれも日本政府が交渉のテーブルに着かなければ手に入りません。

では、米国や中国といった大国に助けてもらえばいい、という発想はどうか。それは独立ではなく、後ろ盾が東京から別の首都に替わるだけです。しかも沖縄には米軍基地がある。基地を追い出せばアメリカは独立を認めず、基地を残せば「何のための独立だったのか」という問いに答えられない。この袋小路が、最後の壁になります。

こうしてたどり着く結論は、ひとことで言えば「独立とは、自分ひとりで決められるものではない」ということです。法律は自分で書ける。裁判官も任命できる。お金も借りられる。けれど「あなたを国として認めます」「あなたの決めたことに従います」という他人の承認だけは、自分では作れない。

本稿は最後に、独立の一歩手前にある現実的な話へ着地します。沖縄振興予算は、離島の航路や医療のように採算では測れない生活の下支えと、基地負担への補償と、産業を育てる政策とを、「振興」という一枚の風呂敷に一緒くたに包んできました。まずこれを分けて、それぞれ別の物差しで評価すること。そして、国からもらう補助金ではなく、自分たちで税を設計して集める仕組みへ移すこと。ここで本稿は、自らの提案に都合の悪い事実にも向き合います。沖縄には一括交付金という、使い道を県や市町村が自由に決められる制度がすでにあり、それが無駄遣いの温床になったと批判されてきたからです。単発のイベントや調査ばかりが増え、補助が切れると事業も消えた。なぜか。自由になったのは使い道だけで、お金の性質は「他人のお金」のままだったからです。自分たちで集めた税なら、無駄は自分の負担として返ってくる。移すべきは使い道の自由ではなく、集める責任のほうだ——本稿はそう考えます。

最後にひとつ。本稿を読み終えても、沖縄が独立すべきかどうかの答えは出てきません。それでいいと思っています。この見取り図が本当に扱っているのは、独立の可否ではなく、その手前にある問題だからです。

国が全体のために何かを決める。その負担は、特定の地域だけが背負う。基地はその典型ですが、原子力発電所も、廃棄物の処分場も、自衛隊の配備も同じ構図です。そして負担を背負わされる側が「困る」と声を上げたとき、その声はどこで、どう受け止められるのか。いまの日本には、それを受け止める仕組みがほとんどありません。県民投票で七割が反対しても、工事は一日も止まりませんでした。反対の声は、届かなかったのではなく、届いても行き場がなかったのです。

独立論は、その行き止まりから出てくる声です。だから独立に反対の人にとっても、これは他人事ではありません。声の行き場がないままなら、同じ行き止まりは、次はどこか別の地域で起こるからです。

9月に行われる県知事選を前にこの刺激に満ちた論考を公開して良いものかどうか迷っていますが、いずれ何らかのかたちで発表したいと考えています。

 

批評.COM  篠原章
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