東京地検特捜部「暴走」説の検証 (2) ゴーンの傲慢、日産幹部の無能、特捜の不遜

ゴーンVS特捜

2020年1月8日、カルロス・ゴーンが逃亡先のレバノンの首都ベイルートで記者会見を開いた。自らの「逃亡」の理由については、「正義から逃れたのではない。不正と政治的迫害から逃れ、家族を守るためだった」とし、「基本的人権を尊重しない日本の非人道的な司法制度」を逃亡の主たる動機として強調する一方、「日本も日産も愛している」という日本向け、日産社員向けの言葉を付け加えるのも忘れなかった。国際世論を重視した戦略的な会見だったが、「事実関係」のあらたな開示という点では新味はなかった。

ここではゴーン逃亡の詳細やその正否を扱うつもりはない。海外渡航を禁じた保釈条件を反故にするだけでなく、出入国管理法を犯した海外脱出は、日本の司法制度など諸制度を軽視する行為であり、裁判自体を放棄した行為についての法的・倫理的責任を問う声も大きいだろう。

だが、ゴーンが「逃亡」という選択肢を選んだきっかけである金融商品取引法(金商法)および背任(刑法第247条違反)による逮捕・身柄拘束・起訴については、大いに議論する余地がある。東京地方検察庁特別捜査部(東京地検特捜部/以下「特捜」)の一連の捜査活動に「行き過ぎがある」という指摘にも説得力があると思う。

事件の経緯

2018年11月19日、有価証券報告書に役員報酬を虚偽記載したとする金商法違反容疑で、特捜は、海外から帰国したカルロス・ゴーン日産自動車会長を羽田空港で逮捕した。特捜の捜査は日産からの内部通報を端緒とするもので、共犯の疑いもある日産の役員の免責を条件に証拠や証言を集め(司法取引)、数か月にわたり密かにゴーン会長の法令違反を捜査していたという。

ゴーンは12月に金商法違反で起訴され、翌19年1月、自らの金融取引の損失18億5千万円を日産に付け替え、その契約を資産管理会社に戻す際、自らの信用保証に協力したサウジアラビア人の会社に日産子会社から約16億円を送金させたとの会社法違反(特別背任)で追起訴された。

3月6日、ゴーンは保釈金10億円(金商法違反事件で2億円、特別背任事件で8億円)を納付し保釈されたが(勾留日数106日)、4月4日、オマーンの販売代理店に送金された日産の資金の一部を私的に流用した疑いであらためて逮捕され、4月22日、約5億5千万円を自身に還流させたとして会社法違反(特別背任)の罪で追起訴した。

ゴーンは、4月25日に再度保釈されたが(保釈金5億円積み増し/計15億円)、最初の逮捕以降合計で128日勾留されていたことになる。

【カルロス・ゴーンに対する起訴内容と弁護側の主張】

  1. 金融商品取引法違反(有価証券報告書への虚偽記載)
    検察側主張:ゴーンに対する役員報酬のうち未払い分約91億円を有価証券報告書に記載しなかった。実際は年額20億円の報酬のうち10億円は退任後に支払うという契約になっていた。
    弁護側主張:ゴーンに対する未払い分の報酬を認識していた人物は社内にいない。契約書などにも記録はない。未払い分の報酬は存在しない。検察があると主張する文書は契約書ではなく、ゴーンが退職後に日産に提供する業務への対価として予定されていた数字を記載した文書で役員報酬ではない。
  2. 会社法違反(特別背任):私的損失の付け替え
    検察側主張:私的な投資で生じた18億5千万円の評価損を日産に付け替えた
    弁護側主張:日産に負担を生じさせないことを前提にした契約であり実際に損害は生じていない。
  3. 会社法違反(特別背任):サウジルート
    検察側主張:ゴーン個人の信用保証に担保を入れるなどして協力してくれたサウジの実業家に日産子会社から約16億円を送金した。
    弁護側主張:送金はサウジの販売代理店との関係改善を支援してくれたことに対する報酬である。
  4. 会社法違反(特別背任):オマーンルート
    検察側主張:日産の子会社からオマーンの代理店に1千万ドルを送金し、うち500万ドルを自身の関係企業や家族に還流させた
    弁護側主張:送金は適切な販売奨励金で、ゴーン氏や家族に還流した事実はない。

警察とは格違いの検察

ゴーン事件を語るとき問題になる検察一般の取り調べ(人質司法)に対する見方については、実際に取り調べを受けた者とそうでない者とのあいだには相当な温度差があると思う。勾留についても同様だ。私自身も取り調べや勾留の経験があるので、ゴーンのみならず、佐藤優や堀江貴文(ホリエモン)が自らの関わった事件について語ったものには大いに共感する。

ただ、ゴーン、佐藤優、堀江貴文のいずれも特捜の扱った案件であり、逮捕されてからは原則として国の司法機関である東京地方検察庁で検事から調べを受け、国(法務省)の刑事施設である東京拘置所に勾留されている。堀江貴文については、刑の確定後、国の刑事施設である刑務所に収監された経験もある。

一般的な被疑者(容疑者)はゴーン、佐藤優、堀江貴文とは異なる取り調べのプロセスをたどる。一般的な被疑者の場合、組織上地方自治体に属する機関である各都道府県警察の警察官に逮捕され、所轄の警察署で調べを受ける。同時に多くは身柄を「送検」されて、国の機関である検察庁のお検察官の調べも受ける。勾留されるのは警察署の留置場である。ゴーン、佐藤優、堀江貴文などの「上級被疑者」(?)あるいは「国策捜査」の対象となった被疑者は、逮捕から受刑の期間まで一貫して国の機関の管理下に置かれるのに対して、一般の「中下級被疑者」は警察という自治体の一組織の管理下に置かれ、起訴・裁判というプロセスのなかで国の機関の管理下に移されるのである。

わかりやすく言い直すと、一般の被疑者が付き合うのは主に地方公務員である警察であり、取り調べのあいだ身柄は警察署の留置場に置かれる。国家公務員である検事からも取り調べは受けるが、それは起訴権限が警察官にはないからである。検事によって起訴され、裁判が始まると身柄は国の機関である拘置所に移される。他方、上級被疑者が付き合うのは最初から最後まで国家公務員である。

些細なことのように見えるかもしれないが、そこには厳然たる線引きがある。警察官は地方自治体の行政官だが、検事は国の司法官だ。どちらが「上」かといえば明らかに検事である。こうした上下関係は、警察の検察庁に対する姿勢や、刑事の検事に対する姿勢のなかにはっきり現れているだけではなく、被疑者にもヒシヒシと伝わってくる。

たとえば、毎朝、多くの被疑者が各地の警察署の留置場から検察庁に送検される(順送)。送検とは物理的に身柄を検察庁に送られることを意味する。被疑者は鉄格子で囲まれた濃灰色の移送用車両(バス)に乗せられ、検事の取り調べを受けるために検察庁に向かう。車両のなかは、眠気の残る、けだるい朝の空気が漂っているが、検察庁に近づくに連れ、警察官の表情が引き締まってくる。

検察庁に着くのは9時前後だ。丸まっていた担当警察官の背筋はシャンと伸び、警察署内では聴いたことのないような大声で整列・行進を命じられる。東京地検の場合、地階に設けられた巨大な収容室に連行されるが、部屋の入口には監獄然としたぶ厚い鉄の扉が立ちはだかっている。担当の警察官が大時代的ともいえるような大声で解錠を求めると、鉄の扉は文字どおりギーッと重苦しい音を立てて開かれる。映画に出てくる作り物の刑務所のような一場面だ。

鉄の扉の内側の空気は一段と張り詰めている。被疑者はグループ分けされた上、20ほどある小部屋に収容され、担当検事に呼ばれるのを静かに待つ。警察署の留置場内では被疑者同士の雑談はまず注意されないが、検察庁内では規律のレベルは数段上がり、ちょっとでも大きい声を出すと厳しく注意され、態度が改まらないと部屋から引きずり出されて、独房のような別室に隔離される。警察署内と打って変わって、検察庁内での警察官はびっくりするほど緊張した面持ちになり、被疑者に対して高圧的になるのだ。

検事「私こそ国家権力」

一般に警察官は被疑者を「市民」として扱うのが原則である。なかには被疑者を威嚇するような警察官もいるが、最近の警察官の大半は被疑者に対して冷静に接する。人権や人命を尊重する意識も高い。ところが、検察庁に出向くと警察官の態度は「囚人」に対するそれに豹変する。なぜこのように態度が変わるのか。警察関係者にその疑問をぶつけたら、次のような答えが帰ってきた。

我々警官は下級官吏なんですよ。左翼の連中は警官を権力者だと思っているけれど、自分たちは権力を持っているという自覚などなく、治安の維持を仕事とする地方公務員にすぎない。ところが検事さんは違うんです。国家権力の中枢にいる。被疑者が有罪になるも無罪になるも検事さんの胸ひとつです。我々がコイツこそ犯人だといっても、検事さんが違うといえばそれで終わり。だから検事さんの集まる検察庁に行くと、自分たちが無力な下級公務員であることを思い知る。しかも、被疑者が検察庁内で事件・事故でも起こせば警察のミスになり、検事さんにさんざん怒られるから、被疑者の管理・監督も当然厳しくなる。

地方行政官である警察官は限定的な権限を与えられた一官吏に過ぎないが、検事は「国家権力」を構成する者として警察官の上に君臨しており、警察官はそのことをよく知っているのである。それが(少なくとも)日本の支配構造・権力構造、つまり国家のヒエラルキーなのだ。

実際、私も検事の調べを受けた経験がある。その際担当検事から「あなたにとっては人生の重大な岐路かもしれないが、私にとってはどうでもいい事件である。さっさと片づけたいから、私のいうとおりに認めたほうがいい」「屁理屈をこねても無駄だ。私はあなたから自由を奪うことさえできる。なぜならここでは私が法であり、私が国家権力だからだ」と担当検事にいわれて「国家権力観」は一変してしまった。検事に接するまでの私は、首相を始めとする政治家が国家権力の中心である、または天皇制ヒエラルキーの下に日本の国家権力は成立している、と考えていたのだが大間違いだった。国家権力とは検察官なのだ。他の何者も検察官と同等の権力を持っていない。

ゴーン128日、ホリエモン95日、佐藤優512日…特捜最大の武器は長期勾留

社会に対する影響力の強い犯罪(巨額の不正を働いた経済犯・国会議員などの汚職犯)を主たる捜査対象とする東京地検特捜部は、その国家権力のなかの中枢的な機関である。何をしても許される万能の権力を持っているわけではないが、「真実の追及」という名の下に法令違反・犯罪を構成する要素を集めてシナリオを描き、検察権力の調整機関として機能する裁判所さえ説得できれば、特定の個人から自由などの基本的人権を奪い去ることができる。身ぐるみ剥ぐこともできる。

権力中枢にある特捜に逮捕され、自らを国家権力だと自認する特捜検事たちの厳しい取り調べを受け、検察の支配下にあるような、規律と監視の厳しい拘置所に長期間収容されていたら、多くの被疑者は罪を認めるだろう。特捜の主張を認めることが、罪を軽くする、あるいは身柄拘束からいち早く解放される唯一の方法だからである。

反対に罪を認めない者は長期の身柄拘束に耐えなければならない。佐藤優512日、リニア談合の大川孝(大成建設元常務)・大沢一郎(鹿島建設担当部長)291日、カルロス・ゴーン128日、堀江貴文95日…。佐藤優は執行猶予付き有罪判決だったが、堀江貴文は実刑となって収監され、仮釈放まで1年9か月8日(647日)のあいだ服役した。

事件の核心は日産のガバナンスの欠如

無論、特捜の取り扱った事件が「でっち上げ」とまではいわない。多くの被疑者はすねに傷を持っていた思う。カルロス・ゴーンも同様である。日産のカネの一部を私物化しているかもしれない。しばしば「傲慢な男」といわれるゴーンに反感を持っていた社員も少なくなかったろう。だが、今回の事件の経緯を見ると、ゴーン体制に対して不満を持っていた日産幹部が、自らの手ではゴーンを追い出せず、特捜の手を借りてゴーンを放逐したことは明白だろう。日産という会社のガバナンスの欠如がこの事件の背景にあることは疑いない。「特捜の手を借りなければゴーンを追い出せなかったが、結果的に追い出せてよかった」などと考えるのは早計である。ゴーンを追い出しても日産の経営状態は変わらない、というよりむしろ悪化している。

「ゴーンを追い出したお陰でルノーとの合併を避けられた」というのも正しくない。合併については今後も間違いなく迷走し、現在の経営陣が隙を見せれば合併を飲まざるを得ない事態も十分ありうる。そもそも日産とルノーが合併してフランス企業になるという選択肢を選ぶことがそんなに悪いことなのか。AI自動車などの登場で今後確実に斜陽化する自動車業界のなかで日産が生き残るにはあらゆる選択肢を検討しなければならない。現段階では「合併を避けることが日産の生き残りにとって最善だ」という根拠はなにも示されていない。今のところ、合併反対論には「日産は日本企業であるべきだ」という根拠の乏しい偏狭・偏屈なナショナリズムしか感じられない。

上で掲げた「ゴーンの罪状」が正しいなら、こうした専横と不正を許してきた日産幹部も同罪である。「知らなかった」ではとても済まされない。「共犯者たち」は特捜から事実上の免責を受け、ゴーンだけを血祭りに挙げるという手法は、株主に対する裏切りとはならないのだろうか?

驚いたことにゴーンを放逐してトップの座に着いた西川廣人前社長(昨年9月に退任)も、ストック・アプリシエーション権(SAR/株価連動型役員報酬)の行使日を誤魔化して4700万円も上乗せされた報酬を受け取っている(発覚後に上乗せ分を返却)。ゴーンとともに逮捕されたグレッグ・ケリー元代表取締役が『週刊文春』にしゃべらなければ、西川前社長は頬被りしたことだろう。そもそも西川前社長はゴーンの腹心だったのだから、特捜が問題とするゴーンの不正についても共犯者といえる立場だ。日産のガバナンスは驚くほどなっていない。

幹部に不正があるなら、まずは内部で解決の目処を付け、不正金額が巨額で違法性の強い部分については特捜など検察に任せるという手順を踏むならわかるが、「内部には自浄能力・ガバナンス力がないから事件化して特捜に解決してもらおう」という姿勢ではまともな大企業とはいえない。自らの罪を棚上げし、株主や検察に許しを乞う自己保身術にすぎない、といわれてもやむをえないだろう。まるで中小企業感覚である。

安倍首相「本来、日産のなかで片付けてもらいたかった」

ベイルートでのゴーン会見について、安倍晋三首相は「本来、日産のなかで片付けてもらいたかった」と漏らしたと伝えられるが、首相のボヤキ通り、今回の事件は、まず内部で対処すべきものだった。西川前社長などの日産幹部は自らの肉を斬ってゴーンの骨を断つ覚悟がなかったのだと思う。株主はもっと怒るべきだ。

なお、元文部次官の前川喜平氏は『「本来日産の中で片付けてもらいたかった」というアベ首相の発言は聞き捨てにできない。「日産に頼まれたからゴーンを捕まえた」と言っているに等しい。政治権力が検察を思うがままに動かし民間企業の内部抗争に介入したのなら、由々しき大問題だ』とTweetしていたが、これは特捜あるいは検察権力に対する大いなる誤解で、残念ながら根拠の乏しい陰謀論だ。

特捜部勤務を経験した法曹関係者の多くが、「特捜が政権幹部に要請されて動くことはまずない」と証言している。特捜検事たちは自らを国家権力だと自認しているのである。その意味で政治的にはきわめて中立公平な権力機関だ。失礼な言い方だが、彼らは「事件はないか」と嗅ぎ回る事件屋・ブン屋に近い存在である。

未払いの報酬は果たして不正か?

ゴーンに不正があったのか否か、というのは本来裁判で問われるべき問題だが、裁判が実質的に行われなくなってしまった今、「永遠の謎」に終わる可能性が高い。ただ、上に掲げた金商法違反とされる虚偽の役員報酬については、あくまでも未払いの報酬であり、ゴーン側弁護団のいうように、証拠とされている文書を契約書と断定するのは困難だろうから、罪に問うのは難しい。役員報酬の決定過程、あるいは有価証券報告書に記載するまでの全過程にゴーン1人が携わり、操作するのは組織上も規則上も無理があると考えざるをえない。不正があったとしたら、グレッグ・ケリーに加えて複数の役員が関与していたと見るのが自然である。

特別背任の3点については、特捜も資金の流れの全過程を把握しているとはいえないまま、起訴に踏み切ったようだ。数字的な帳尻合わせも十分できていないように見える。公判のなかで固めながら立証するつもりだったのだろうが、海外での巨額の資金の動きを対象としたものだけに、不整合も出てくるし、関係者の証言集めも困難を極めるだろう。説得力あるシナリオを描くのは容易ではない。

弁護側も、すべての訴因について「無罪」を勝ち取るれるかどうかについては自信がなさそうだ。いずれにせよ、やってみなければわからない裁判だったと思う。が、裁判が行われなくとも、日産は総力でお金の流れを確定し、証言を集めて株主に対する説明責任を果たすべきだ。「始めにシナリオありき」という特捜に先導されるようでは、真実の解明はできないだろう。

傲慢と無能と不遜のスパイラル

ゴーンは日産の救世主だった。救世主はやがて傲慢になり、幹部社員の離反を招いたが、不幸にして幹部社員は問題を解決する能力を備えていなかった。問題の解決を特捜に丸投げし、特捜は待ってましたとばかりこの案件に飛びついた。特捜は「国家権力が乗り出せば問題は解決する」という姿勢で不遜にも事件の大型化を図ったが、「人質司法」の厳しさがゴーンを逃亡させてしまい、すべてが霧散してしまった。

ゴーン事件とはいったい何だったのか。後世の人々は嗤うのだろうか、それとも泣くのだろうか。この事件が日産の挽歌にならないことを祈るが、今は虚しさだけが漂っている。

批評.COM  篠原章
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