首里城ノート(2) 首里城はいったい誰のものか?(上)

焼失した首里城については「再建」が半ば既定路線となり、政府主導で進められつつあるが、再建を軌道に乗せる前に考えておくべき「懸案事項」は少なくない。批評ドットコムではすでに「アイデンティティ」の問題について言及しているが、首里城再建あるいは復元プロジェクトを進める際の、どちらかといえば技術的な課題についても「首里城ノート」と題して連載を始めることにした。第2回のテーマは「首里城の所有権」である(上・中・下の3部構成)。
 

王府から明治政府への移転

昨年10月31日未明の首里城焼失後、あちこちで「再建」に向けての議論が交わされており、そのなかには「首里城を沖縄に返せ」という所有権返還をめぐる主張も含まれている。ここでは主として制度的な観点から、「首里城はいったい誰のものだったのか」を時系列にしたがって見ていきたい。
 
江戸時代を通して薩摩藩(後の鹿児島県)の付庸国だった琉球国は、1871(明治4)年の廃藩置県の翌72(明治5)年に政府直轄の「琉球藩」となって日本の「領土」に組み入れられた。琉球王・尚泰は、明治天皇によって「藩王」に封じられ、琉球国の形式的な「独立」はこの時点で事実上終焉を迎えたが、琉球内部では王府を核とする支配関係は継続され、実質的な司法・行政権限に大きな変化はなく、王府は外交権(とくに清国との冊封関係)も温存されるものと判断していた。
 
琉球藩による清国との独自の外交関係の温存は「日清両属」という旧体制の継続を意味する以上、明治政府はこれに難色を示し、東京から使者を送って繰り返し冊封体制からの離脱を求めたが、琉球藩がこれに応じなかったため、1879(明治12)年3月27日、松田道之が軍隊300名余、警官160名余を率いて首里城に入り、城の明け渡しを求めた。3月29日、松田の要求に屈した尚泰王は首里城を退去して東京に転居した。4月4日には、琉球藩を廃して沖縄県が設置されたが、この時点で名実ともに「王朝」は滅亡したことになる。
 
地割制度を基本とする琉球の土地制度は原則として土地の私有を認めるものではなく、その処分権は事実上王府が握っていたため、「首里城は王府の持ち物」と見るのが適切で、王府が潰えた以上、その処分権は「近代的な所有権」に姿を変え明治政府(国)に移行したものと考えられる。簡単にいえば戦勝国による接収だが、土地制度を近代化するためのひとつのステップという側面は否定できない。
 
琉球処分後の首里城は、1882(明治15)年に陸軍省が管轄する国有地となり、実際の管理運営は熊本鎮台沖縄分遣隊(後に第6師団沖縄分遣隊に改称)に委ねられた。分遣隊は1896(明治29)年に撤収し、それまで立入禁止だった首里城は陸軍省管轄のまま一般に開放された。
 

首里区への払い下げ

同年施行された勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」により、沖縄県には島尻郡、中頭郡、国頭郡、宮古郡、八重山郡の5郡と「那覇区」と「首里区」が設置された。それぞれ官選の長が任じられて「自治」への意識が芽生え始め、1899(明治32)年、首里区民のあいだに「首里城払い下げ運動」が起こった。中頭郡長を兼任する(官選)首里区長・朝武士干城(青森県出身)に請願が行われ、朝武士が議長を務める首里区会でこの請願は可決されて、首里城を管轄する陸軍省に払い下げを願い出た。
 
最初の請願から4年後の1903(明治36)年8月14日、国は首里城内の建物の払い下げと敷地の期限付きの無償貸付を決め、首里区に布告した。貸付期間は、1904(明治37)年4月から1934年3月までの満30年とされ、土地の所有権は保留されたものの、正殿を含む内郭の建築物は首里区に帰属することになった。
 
1908(明治41)年、明治40年勅令第46号沖縄県及島嶼町村制に基づき、首里区は島嶼町村制下の自治体として再スタートを切り、区長公選が実施された。公選といっても間接選挙で、複数の候補者を選んで内務省に名簿を提出し、最終的には内務大臣が区長を選んで裁可するスタイルだった。初代公選区長に選ばれたのは、王府の高官(田地奉行や吟味役を歴任)の経歴を持ち、中央にも知己の多い知花朝章だった。知花は1909(明治42)年、学校、図書館、公園の用地とするため首里城の払い下げを願い出て、1万8800坪(約6・2ヘクタール)余りの土地が1,054円55銭で払い下げられることになった。明治42年頃の1000円の現在価値は所得基準で約1万倍となるから単純計算で1000万円である。正殿単体(387坪)では77円58銭だから78万円弱だった。当時の沖縄の賃金・物価水準が本土の三分の一から五分の一程度だったことを勘案しても、破格の払い下げ価格だったことは間違いない。「無償譲渡に近い金額」といっても差し支えないだろう。

管理財源の不足に苦しむ首里区

ところが、軍の管理部門や兵舎、訓練施設などの用途で使われていた首里城の建物は、王朝時代の痕跡を留めないほど荒廃していた。現在残されている明治末期以降の写真を見れば一目瞭然だが、建屋の内外はもちろん石垣や石塀までも大きく毀損していた。外観の毀損は台風など風雨によるものだが、内部は分遣隊によって大幅に改装されていたという。城跡内にあらたに設置された公立学校などがその修復管理にあたったが、財源の乏しい沖縄県や首里区の対応は限られており、首里城の荒廃に歯止めはかけられなかった。
 
王朝が途絶えてから首里の人口も急減しており、琉球藩設置直後の 1873 年に4万 5千人だった人口はこの頃には3万人程度まで落ちこんでいた。ちなみに首里区の人口はその後も減り続け、1925 年には 2 万1千人,1935 年には 2 万人を割り込み、第2次大戦開戦時には 1万7 千人程度だったという。首里区の住民の大半は士族階層で王朝時代は租税公課を減免されていたが、明治政府の旧慣温存政策によりその免税特権は続き(1903年まで)、さらに俸禄を継続して受け取っている者も少なくなかった。そのため、首里区という自治体が誕生したにもかかわらず、区民の納税義務意識はきわめて低く、租税負担能力も満足に身についていなかったため、首里区の財政はつねに逼迫していた。乏しい税収の大半は教育やインフラ整備に最優先に割り当てられていたので、文化政策、とりわけ既存文化財の管理にまでとても手が回らない、というのが実情だったようだ。1919(大正8)年には、内務省(後に文部省)所管の史蹟名勝天然記念物保存法が施行され、首里城の史蹟指定を求める声もあったが、その指定は受けていない。【(中)に続く】
 
昭和初期の首里城正殿(背面)

昭和初期の首里城正殿(背面)。大修理が始められている。 沖縄県立図書館デジタルアーカイブより

 

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket