沖縄の保守活動家の内部分裂について —「基地反対の反対」だけで未来は描けない

「人格」をめぐる非難の応酬

 
沖縄のいわゆる「保守活動家」のあいだに大きな亀裂が走っている。問題になっているのは「主張」ではなく「人格」である。人格をめぐる激しい非難の応酬が行われている。耳を塞ぎたくなるような非難も多い。もはや亀裂の修復は難しい段階だ。
 

多様な言論を認めない沖縄の政治風土

沖縄には米軍基地をめぐって、「反対」以外の主張が軽視あるいは無視される政治風土がある。反対か賛成かの二者択一を迫り、賛成・容認の立場を明らかにした場合、地元メディアの厳しい批判にさらされる傾向が強い。賛成と反対の中間にある多様な意見も取り上げられる機会はほとんどないといっていい。
 
ぼくは沖縄の政治風土・言論空間のこうした偏りを指摘し、沖縄問題の根っ子は経済にあると再三再四主張してきた(拙著『沖縄の不都合な真実』『外連の島・沖縄』など)。とくに『沖縄の不都合な真実』は沖縄県でも全国でも広く読まれ、20刷を越えるベストセラーになったが、沖縄のメディアは取り上げなかった(ただし、琉球新報は2日間にわたり、猛烈な著者批判を掲載した)。
 
半年以上にわたり県内ベストセラー上位にランクされた本を黙殺するメディアの姿勢が、すべてを表していると思う。拙著では、基地反対派を批判するだけではなく、仲井眞知事(当時)や保守派の人々も批判したが、「沖縄は素晴らしい」「基地に苦しめられて沖縄県民は気の毒だ」といったスタンスの本ではなかった。沖縄のメディアは、沖縄にとって耳の痛いことばかり書いた本は取り上げたくないのである。
 
2015年頃から活発化した沖縄の保守運動は、ぼくと同じ問題意識を共有していた。彼らは沖縄の政治風土・言論空間の偏りを厳しく批判した。
 
ぼくは彼らの勇気に敬服した。それだけでなく、彼らは沖縄の暗部を指摘するぼくの主張も受け入れる度量の大きさを見せた。ぼくは沖縄に呼ばれ、彼らといくたびか議論の場を持つことができた。東京でのイベント開催にも協力した。収穫もあった。
 

「反対の反対」で自壊してしまった保守活動

 
辺野古や高江での反対闘争が激化した2016年頃から、彼らの活動は「基地反対に対する反対運動」の側面が強くなった。安保や経済に対する問題意識は影を潜め、反対派活動家に対する非難ばかりが前面に出るようになった。誤情報にもとづく非難も少なくなかった。
 
だが、それは社会運動としては自殺に等しい行為だったと思う。自分たちの活動を「反対運動あっての保守活動」に狭めてしまったからである。反対運動が萎んでしまえば、それにつられて彼らの保守活動も縮んでしまう。
 
昨年秋の首里城火災から2月以降のコロナ禍を経て、沖縄の基地反対運動・辺野古反対運動は勢いを失っている。経済や社会の再考・再建が最大の課題である今、「基地反対」「辺野古反対」への関心度は相対的に小さくなっている。当然のことだが、大部分の活動を「反対への反対」に集中してきた保守活動も弱体化せざるをえない状況だ。
 
沖縄の保守活動内の亀裂は、こうした状況下で生まれた。「反対の反対」しか内実のない、安保や経済、あるいは沖縄社会・日本社会のあり方を問う視点が乏しい活動だったから、行き場を失い、内部の歪みが露見してしまったのだ。
 
保守活動が社会運動としての広がりと意義を持つために何が必要なのか、今一度初心に返って考えてもらいたいものだが、現状を見るかぎり、そうした期待も裏切られてしまうだろう。
批評.COM  篠原章
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