横浜開港161周年—日本の医療・防疫対策の近代化に尽力した居留地の外国人医師たち

ヘボン来日で近代医学事始めの地となった横浜

6月2日(旧暦7月1日)、横浜は開港161周年を迎えた。

幕末の開国・開港(1859年/安政6年)以降、鉄道、水道、下水道、ガス灯・ガス供給、街路樹、都市公園などのインフラ事業、ホテルや新聞といった文化事業、パン、ビール、アイスクリーム、ケチャップなどの食品やナポリタン、ドリアといった洋食メニューなど、日本における「初物」の多くが横浜を発祥の地としていることはよく知られているが、横浜が、長崎と並んで日本における「近代医療(蘭学ではない)事始め」の地のひとつであることは意外なほど知られていない。

ニューヨークきっての名医だったジェームス・カーチス・ヘプバーンが米国長老派教会の宣教師として夫人共々デント商会(ジャーディン&マセソンと並ぶ当時の英国系有力商社/香港島のランドマーク・コンプレクスが同社本社の跡地)の汽船で神奈川沖に到着し、幕府の運上所(現在の横浜税関/当時は外国人入国管理業務を担当)に出頭したのは開港からわずか3か月余りしか経っていない1859年10月18日(和暦9月23日)のことだった。「ヘプバーン」とは、ヘボン式ローマ字の考案者、日本初の英和辞典『和英語林集成』の編纂者、明治学院の創設者として名高い、あの「ヘボン」のことである。

ヘボンの主任務はキリスト教の布教だったが、幕府のキリスト教に対する警戒と監視はまだきわめて強く、宣教師としての仕事に従事することは事実上不可能だった。そこで最初の滞留先だった神奈川の浄土宗正覚山成仏寺(横浜市神奈川区神奈川本町10ー10)で、周辺の住民などの眼病の治療を始めた。国内ではまだ眼病治療がほとんど行われていない時代だったから、ヘボンによる診療がたちまち評判となり、成仏寺の診療室は門前市を成すほど盛況だった。江戸のお侍たちもお忍びで通ったというが、幕府はヘボンの診療を快く思わず、さまざまな妨害工作を仕掛けたらしい。

ベストセラー目薬・精錡水の開発

ヘボンの処方による硫酸亜鉛を主成分とした液体目薬が「効く」との噂も広まった。この液体目薬は、後に『和英語林集成』の編集・印刷の際にヘボンの助手を務めた岸田吟香によって「精錡水」と命名され、日本初の液体丸薬としてベストセラー商品になった(1870年代)。精錡水は、岸田が東京・銀座に設立した「楽善堂」で販売されたが、楽善堂は儲けた資金を元手に漢口(武漢)など中国各地に支店ネットワークを築き(実態はちょっとした結社)、東亜同文書院(中国における大日本帝国の教育研究拠点)の先駆けともいえる役割を果たした。ちなみに現在の筑波大学附属視覚特別支援学校・筑波大学附属聴覚特別支援学校の起源とされる「楽善会訓盲院」も、吟香が精錡水の儲けを注ぎ込んで設置した教育機関であった。

幕府は東海道の宿だった神奈川の開港を欧米諸国に約束し、米国、イギリス、フランス、プロイセンなど諸国も領事館や住居を神奈川に置いたが、往来の多い神奈川では当時跋扈していた攘夷派・尊皇派の浪人たちが人混みに紛れ込んで外国人を襲う可能性が高いことを理由に(実際、同種の事件が発生していた)、幕府は外国人に対して神奈川の対岸にある横浜村に埋め立て造成した居留地に移転するよう求めていた。江戸上りのたやすい神奈川に外国人が居住するのは治安上問題があるというのが、おそらく幕府の本音だったのだろうが、米国以外の各国の領事館や施設は、谷戸が海岸に迫っているため利用できる土地の少ない神奈川を嫌って、オランダ領事館を皮切りに次々と居留地に移転し、「治外法権」という名の特権を享受するようになっていた。

ヘボンの意思を継いだシモンズ

米国領事館は、日米修好通商条約の「神奈川が開港場」という条文にこだわり、居留地への移転を渋っていたが、ヘボンは米国領事館の移転(1863年5月)に先立つ1862年12月には居留地39番地(現在の横浜地方合同庁舎のあたり)を購入し、ここに診療所や教室を併設した自邸を建設した。ヘボンは診療所での施療をつづけ、居留地だからという理由で幕府からも黙認されるようになった。ただ、敬虔なクリスチャンだったヘボンは、自分の使命は布教にあるという思いが強く、次第に診療行為から遠ざかり、福音の伝道や私塾の運営(ヘボン塾)に注力した(この私塾がやがて明治学院やフェリス学院の設立に繋がっていく)。

ヘボンが医療から離れるにあたって、その穴埋めを期待した医師がデュアン・B・シモンズだった。シモンズはヘボンに遅れること2週間、1859年11月1日(旧暦10月7日)に「米独立宣言」や「米国憲法」を日本に伝えたフルベッキなどと共に来日し、ヘボンの住居のあった成仏寺から南西に300メートルほど歩いたところにある宗興寺(横浜市神奈川区幸ヶ谷10-6)に居を定めた。シモンズは米国人医師だが、オランダ改革派教会(カルヴィニズム)の宣教師としての来日だった。ただ、1860(万延元)年には改革派教会を離脱し(夫人の生活態度などを原因とする「解職」といわれる)、医業に専念するようになっていた。

シモンズは、福澤諭吉の主治医・盟友であり(諭吉は「セメンス」と呼んだ)、慶應義塾大学医学部創設の契機となった人物の一人だが、明治政府が採用したドイツ流医学とは競合的なポジションにあった米英流臨床医学・基礎医学の実践者としても知られる。ヘボンの「医師引退」後は、居留地を拠点に活躍する外国人医師の代表と目され、居留地在住外国人の治療にあたっただけでなく、横浜の地域医療(または日本における医療の近代化)に大きく貢献している。

日本最初の西洋式病院(兼医師養成機関)は長崎養生所といわれるが(1861年開院)、日本最初の本格的な外科病院は横浜・野毛山の十全病院(野毛山)である。同病院は有栖川宮が英国人外交官・医師のウイリアム・ウィリスに依頼して創設させた軍陣病院(ヨコハマ・ミリタリー・ホスピタル)が起源で(1868年/慶応4年創設)、当初は鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争の官軍側負傷者の治療と外科医師の養成が目的だった(各地の負傷者は船で横浜まで移送された)。欧州風にいいかえると廃兵院(アンヴァリッド)である。

シモンズと元祖リベラル・大江卓

この軍陣病院はやがて東京に移設されて東大医学部の前身を形成するが、移設に伴い一旦閉鎖を余儀なくされる。だが、閉鎖による地域医療の弱体化を懸念した丸善創業者の早矢仕有的(はやしゆうてき)らが多額の寄付金を拠出し、1871年に「仮病院」として再出発する。再出発時に、神奈川権令(副知事)だった大江卓に招かれた医師がシモンズだったのである。大江卓は、伝説的な「マリア・ルス号事件」の主役で、ペルー船籍の貨物船、マリア・ルス号が「積み荷」として載せていた清国人奴隷232人を解放した権令兼裁判官として国際的にも有名だ。後に立憲自由党の衆院議員や水平社運動の支援者としても活躍するが、現在の「つぶやきリベラル」とは違って、真の意味での「元祖リベラル」である。

仮病院は1873年に「十全医病院と改称し(県立病院/横浜市立老松中学校の敷地に建設)、1891年には「横浜市十全病院」(市立)となった。現在は横浜市立大学附属市民総合医療センターとして存続している。余談だが、丸善は医師だった早矢仕有的が横浜で創業した輸入商社で、創業時は欧米の医学書を輸入していた。

防疫・検疫におけるシモンズの功績

シモンズは居留地82番(現在の491ハウスあたり/横浜華僑基督教会の隣地)で開業する一方、十全病院を拠点に活躍し、横浜の地域医療を格段に充実させた。当時の横浜は、全国から一攫千金を夢見て横浜にやってきたものの、夢破れて「穴ハウス」と呼ばれるスラム街(現在の野毛山の崖下や山手の崖下)に住みついた人々の劣悪な居住環境が居留地の外国人から問題視されており、シモンズはその改善策として、神奈川県令・陸奥宗光に対し防恙法の施行を提案している。つまり、シモンズは日本にはそれまでなかった公衆衛生思想を初めて唱えた医師だったことになる。しかも、防恙法案には感染症対策としての海港検疫の必要性も説かれている。シモンズは日本における水際検疫対策のパイオニアといってもいい人物でもあった。防恙法における公衆衛生(感染症対策)の精神は、公衆衛生的な観点から大江卓権令(神奈川県副知事)によって発令された「家作建方条目」に生かされたという。

シモンズは、十全病院での治療や公衆衛生思想の普及に尽力しただけでなく、コレラ流行時の海港検疫、在留外国人や駐留軍人(当時の横浜には、米国、英国、フランス、プロイセン、ロシアの兵士がそれぞれ数百人ずつ駐留していた)や売春婦に対する梅毒対策(防梅対策)で八面六臂の活躍を見せる一方、福澤諭吉との交流を通じた慶應義塾医学所開設への協力や日本人医師に対する解剖学実習教育などの分野でも大きな足跡を残しいている。

まだ粗野で貧しく、科学的な知識の乏しかった日本人を相手に、献身的な活動に専念したシモンズ(さらにヘボンやウィリス)の功績を前にすると、コロナ禍でちぐはぐ対応を重ねながらなんとか最悪の事態を免れているのも、彼(ら)の遺した遺産の上に我々が生きているからではないか、と思えてくる。同時に、シモンズたちの思いに応えた岸田吟香、早矢仕有的、大江卓、福澤諭吉らの傑出した貢献も忘れてはならない。コロナ禍をやりすごせたら、開港161年を迎えた横浜の町を、彼らの偉業に思いを馳せながら感慨に浸るのも一興だ。

参考文献:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』(中央公論新社・2011年) 同前『ドクトル・シモンズ 横浜医学の源流を求めて』(有隣堂・2004年)。両書とも地味ながら素晴らしい資料である。著者の「横浜愛」にも共感する。

批評.COM  篠原章
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