レビュー:野嶋剛「なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか」(扶桑社新書)

著者について

台湾や香港を中心に中華圏の社会事情に詳しいジャーナリスト、野嶋剛氏による待望の新著である。野嶋氏は朝日新聞の台北支局長、AERA編集部を経てフリーランスに転身、現在は大東文化大学社会学部特任教授(メディア論)も務める。

前著(単著)『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』(小学館)は、蓮舫、リチャード・クー、東山彰良、ジュディ・オング、安藤百福、陳舜臣、邱永漢などといった、日本で活躍してきた、あるいは現在も活躍している台湾系の人びとに光を当て、国籍、民族、アイデンティティをめぐる虚と実を浮き彫りにした労作だった。

野嶋氏は、さまざまなハンディを負いながら、現実世界の冷酷さや厳しさに立ち向かう「少数者」の辛苦に愛を注ぎながら、陰翳の深いそれぞれの人生をクールに見つめようとする優れたバランス感覚の持ち主である。その点では、「敵」を作って批判に終始するような手法に専心するジャーナリストとはひと味もふた味も違う。

的確だった政府の指導力と判断力

本書『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』も台湾の人びとに対する愛に満ち溢れた本だが、国家としてコロナ対策に成功した台湾の実情を、その背景も含めて詳述した著作で、全10章中第1章から第5章までの5章が今回のコロナ対策の推移に当てられている。日本のメディアではそれほど詳しく報じられなかった台湾のコロナ対策を知る上では、きわめて貴重な資料である。しかもその筆致には、台湾の実情と歴史に精通した著者ならではの奥行きがあり、読み物としての価値も高い。

日本のコロナ対策が、台湾で「仏(ホトケ)系防疫対策」と揶揄されていることは本書で初めて知ったが(63〜66頁)、指導力を欠いたまま僥倖に期待してたまたま結果を得ることができたような日本の対策の「困ったときの神頼み」的な体質を見事に言い当てた言葉だ。水際対策において、帰国者(入国者)、感染者、濃厚接触者などを徹底的にフォローし、厳罰も辞さない態度で臨んだ台湾の手法をそのまま日本に当てはめるのは難しいが、コロナ禍で浮上した「日本国」というシステムの特異性と脆弱性は、台湾と対照することでより明確になると思う。

日本のメディアは、もっぱらIT大臣であるオードリー・タン(唐鳳)政務委員のマスク対策ばかり取り上げたが、著者は、唐鳳の知力と実行力に加えて、蔡英文総統の優れた指導力と判断力、公衆衛生の専門家である陳建仁副総統の説明力と包容力、コロナ対策の事実上の指揮官だった陳時中中央流行疫情指揮センター長の責任感と情熱が、水際対策を始めとした防疫対策の成功を導いたものであると高く評価している。「指導者」や「責任者」が誰かわからない日本の現状とは対照的だ。

「政治的」台湾と「非政治的」日本

だが、著者も手放しで台湾の成功を礼賛し、日本をこき下ろしているているわけではない。中国本土との厳しい対立と協調の歴史の中で生成された台湾の「民主主義」が、今回のコロナ対策で威力を発揮したという背景も詳述している。

国際関係という観点から見れば、台湾は孤立した「国家」である。ほとんどの国々が「ふたつの中国」を認めない現状のなかで、台湾は、いかに自己主張するか、国際社会での地位をいかに確立するかに力を注いできた。台湾の国民と政治は、そうした厳しい環境のなかで鍛えられ、成熟してきた。別言すれば、政治的・歴史的に「暗黒」を抱えている台湾だからこそ、今回のような対策が可能になったともいえる。本書の第6章以降は、以上のような問題意識の下に書かれ、台湾の抱えている政治的条件と歴史的環境が「防疫対策」に対して果たした役割が明らかにされている。

中国との対立に縛られている現状を思えば、台湾国民は「政治的」たらざるをえない。しかも、民進党のようなリベラルな政党が政権を担っている以上、国家の政治的スタンスは国民の命運を左右する。つまり、外交、安全保障、防衛の問題(広義の国防問題)は、日本国民が知っているそれとはレベル(深刻度)がまるで違う。

台湾の特長は、国家の役割として国防問題に「防疫」を加えて対処しているところだ。著者は「防疫対策」を国家における最大の役割のひとつと見なして論を進めているが、これはまさに慧眼だと思う。こうした点に着目する論者は意外なほど少ない。

未曾有のコロナ禍にあっても、政治的失態の追及と本質的とは言い難い政争に明け暮れて見える日本の政界だが、「ウィズ・コロナ」という柔らかい言葉でライフ・スタイルの革新を求める議論は浮上している。ところが、国家にとって最も重要な役割としての防疫対策が根本から議論されていないのは、台湾の現状と対比するとまったく不可解なところだ。ここには、政治的であろうとする台湾国民と、政治を忌避する(非政治的な)姿勢をとる日本国民との意識の差が如実に表れていると思う。「日本人がダメ」といいたいのではない。本質的な課題を避ける日本人は、いったいどんな「国家像」を求めようとしているのか、まるで捉えどころがなく、それが不安を増幅するのである。

国家像・政府像の問題

私は、4月19日付けで「パンデミックで問われる政府の役割(1)」という論稿を書いたが【(2)以降の続編は未発表】、その結論部分には以下のように記した。

パンデミックに際して、多くの国々に求められているのは、疫病を喰うこと、疫病を克服することであり、それはまず近代になって生み落とされた「国境」「領域」のなかで対処されなければならない、という事実も軽視するわけにはいかない。グローバリズムがもたらしたパンデミックに対処するのは、(ジャック・アタリのいう)機械の秩序を構築してきた個々の近代国民国家にほからないないのである。

パンデミックがある種の近代国民国家ルネッサンス(場合によっては偏狭なナショナリズムへの回帰)をもたらすものになるのか、それともグローバリズムをバージョンアップしながらAI時代に移行するものになるのか、今のところ見分けはつけにくいが、現段階での政府の役割が「死への恐怖」を和らげることにあるのは明らかで、今回のコロナ対策で、国民の「死への恐怖」を増幅してしまったいかなる政府(政権)も、その延命を計ることはできないだろう。

新型コロナウイルスによるパンデミックは、死を怖れるという原初的な感性を備えた人間の構成する社会を、誰がいかなるように制御していくのかという、根本的な問題を提起している。その際、これを「自然との闘い(自然の制御/死の制御)が依然として人類最大の課題である」という既知の問題提起の一部として捉え、政府の役割を再構成するところから始めるのか、それともこれまでとはまったく別の視点から(アタリのいうカニバリスムの枠外で)捉え直し、従来の国家や政府を解体する方向で動いていくのかはまだ不透明だ。

野嶋氏のこの著作を読むと、台湾の人びとは「国家・政府のあり方」について、日本人よりもはるかに経験と熟慮を重ねてきたように思える。それはおそらくSARSの経験だけに培われたものではなく、「国家としての台湾」の曖昧な位置づけに対する反発と、国際社会での生き残りのための知恵も反映されているはずだ。とりわけ台湾の指導者層の国家の役割や民主主義に対する認識と洞察には、我々の想像の域を超えた力が備わっている可能性が高いと思う。

植民地時代の防疫政策

ついでにいえば、日本による植民地時代の経験も台湾の力強さの一部に含まれているのかもしれない。第6章で著者は、1898年に台湾政府民生長官(当初は民生局長)に就任した後藤新平による徹底した防疫対策も取り上げている。「防疫国家」のひとつの見本となるような諸政策を実施した後藤の官僚および政治家としての力量も相当なものだったと思える。植民地から解放された後、台湾は一時「疫病の島」に転落したが、人びとは植民地支配の時代の後藤の事績も念頭のおきながら「防疫の島」をあらためて造りあげたともいえよう。

反コロニアリズムの視点から書かれた小熊英二『「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』(新曜社・1998年/小熊氏の博士論文)には、「日本の植民地は二線級(能力の低い)の官吏や政治家によって統治された」といった評価が書かれているが、小熊氏のいうように、たとえ当時の政府が植民地を軽視していたとしても、逆にそれが功を奏して、植民地は、出世街道にまだ乗り切れていない若手官吏や出世街道から外れた有能な官吏の活躍の場として供されていたと見ることもできる。

横浜開港161周年—日本の医療・防疫対策の近代化に尽力した居留地の外国人医師たち」で私が述べたように、日本の防疫政策も、日本の植民地としての可能性を虎視眈々と狙っていた欧米列強から派遣された、ヘボンやシモンズといった医師たちによって先鞭を付けられたものであり、彼らの功績は否定しがたい。反コロニアリズムの論者がしばしば主張するような「植民地の人びとは植民者の利権と蛮行の被害者」といった評価には無理があるといえるだろう。

防疫対策か感染症対策か

これに関連していえば、著者によって気づかされたことの1つに、「台湾のコロナ対策は防疫の専門家が主導しているが、日本のコロナ対策は感染症の専門家が主導している」という指摘がある(第10章)。これは実に的確な指摘ではないかと思う。

推測の域を出ないので、今までいわなかったが、新型コロナウイルスが発生したことで各国の感染症の専門家は、その深刻さを憂う気持ちと研究者としての意欲や好奇心がふつふつと湧いてくる気持ちとの、ふたつの相反する思いに支配されたと思う。後者は壮大な「社会実験」に対する期待である。滅多にない大型感染症の流行(パンデミック)がどのように拡大していくのかを見極める絶好の機会だ。感染が爆発するにしても、感染を抑止できたとしても、感染症の研究者にとってはお構いなしだ。はっきりいえばどちらでもいいのである。「滅多にない機会を見逃さない」ことにこそ最大の価値が置かれる。責めているのではない。専門家とはそういうものではないか。

ところが、防疫あるいは公衆衛生の専門家にとって、感染症の拡大を防ぐことこそが目標である。拡大は明らかに「悪」「失敗」として捉えられる。感染症の専門家と防疫の専門家とのこうした違いは危機意識の差に反映される。感染症学者の知見に基づく日本政府の対策は、どちらかといえば自然免疫に対する期待がこめられており、「拡大はやむをえない」という姿勢も散見される。防疫や公衆衛生の専門家が主導権を握っていれば政府の対策は異なるものになったと思う。言葉は柔らかいが、野嶋氏の指摘の背後にはそうした問題意識があると思う。それはきわめて重要な問題意識だ。

いずれにせよ、台湾のコロナ対策が主題であるにも関わらず、野嶋氏のこの著書は、国家・政府のあり方から防疫対策のあり方に至るまで、多くの問題提起を含んでいる(そのなかにはWHOのあり方についての重要な指摘もある)。巻末の年表(時系列表)を含めて本書の資料的価値が高いことはいうまでもないが、我々が台湾を手がかりに国家や国境、防疫対策のあり方を考える上でも、きわめて貴重な知見を示してくれている。前著『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』に引けをとらない良書である。

批評.COM  篠原章
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