日本学術会議は必要なのか?—問われるべきは任命拒否ではなく存在意義

国の機関である日本学術会議の会員任命をめぐって、学術会議からの提出された推薦リストに名前が載っているにもかかわらず、任命権者である総理大臣が6名の任命を拒否した、ということが問題となっている。

任命拒否を問題にする人たちは、「前例がない」「学問の自由を軽視している」といった点を理由として挙げている。任命を拒否された科学者(日本学術会議法の表現)は、いずれも安保法制に積極的に反対したか、自民党あるいは安倍前首相に批判的だった人たちだという。全員が文系の研究者であることも特筆に値する。文系研究者を科学者と呼ぶことにはとまどいがあるので、以下では「研究者」と呼びたい。

最初にこれを「スクープ」したのは日本共産党の機関紙『赤旗』である。赤旗のスクープに追従する形で各メディアが、一斉にこの件を取り上げたが、どのような形であれ、学術会議に日が当たったことはいいことだと前向きに捉えるようにしている。ただし、以下で述べるように学術会議の存在意義こそ問われるべきだというのがぼくの立場である。

学術会議は日本の研究者の代表が集まって政府に諮問する機関と位置づけられており、全国の研究者87万人のなかから210人の会員が選ばれ、3年毎に半数を入れ替えている。さらに準会員というべき「連携会員」が約1800名選ばれているが、これは学術会議議長によって任命される。表向きには学問の発展に「寄与する」とされるいくつかの事業が挙げられているが、いちばんの大仕事は「学士院会員の選出」だというのが、ぼくの見方である。

学術会議は、「科学者の国会」といわれることもあるが、それは昭和23(1948)年にこの組織が生まれたときの話である。当初、日本学術会議法には「会員は選挙によって選ばれる」という規程があり、研究者(科学者)全体が有権者(具体的には各学会会員)であると定められていた。少なくとも外形的には民主主義的だった。

ところが、公選制は昭和59(1984)年に廃止された。選挙事務が繁雑な上、不正が入りこむ余地もある、というのが主たる理由と思われるが、各学会ごとに会員を推薦し、調整の上で推薦名簿を作成して総理の裁可を得る選出方法にあらためられた。これによって選出に関する透明度はかえって減じたと思う。

87万人の研究者のおそらく99%以上が、おそらくそうした選出方法をろくに知らないはずだ。各学会の理事クラスでないとこのプロセスは理解できない。はっきりいって会員の選出方法は、一般の研究者にとってブラックボックスに等しいのである。

ぼくは10年ほど前まで日本財政学会、日本地方財政学会の理事を務めていた。学会理事は会員による選挙で選ばれる。理事会は数名の常任理事を選出して会務を任せるが、この常任理事が学術会議関係の業務を担当する。つまり、常任理事が事実上の会員候補推薦権を有していることになる。だが、財政学会、地方財政学会で会員を推薦しても、自動的に会員になれるわけではなかった。財政学会、地方財政学会とも上部団体の「日本経済学会連合」に加盟しており、この日本経済学会連合に、最終的な学術会議の会員推薦権があった。経済学会連合には、加盟65団体から各2名計130人の評議員が集う評議会が設けられているが、この評議会においてまず10名の理事が選出され、理事会が各学会から推薦された研究者のなかから学術会議会員候補を選び、学術会議にその名簿を提出する仕組みになっていたと思う。

日本経済学会連合は、学術会議がカテゴライズした三分野、すなわち人文社会科学分野、生命科学部分野、理工学分野のうちの人文社会科学に属する。割り当てられた会員数は総会委員数の三分の一、70名である。この70名を人文社会科学の下に置かれた10分野(委員会)に割り振ることになると、各分野7名となる。経済学は独立した1分野とされており、経済学会連合は7名が割り当てられることになる。経済学会連合に加盟するのは65団体だから、単純計算では58の学会は学術会議に会員の席を確保できない。したがって、通常は理事会あるいは評議会内部での厄介な調整が不可欠となる。「学術会議会員は自分の後任を指名できる」というコ・オプテーション方式での会員選出が推奨されているが、それぞれの学会を尊重するなら、コ・オプテーション方式だけで会員を決めるわけにはいかない。後任指名が特定の学会ないし研究者グループに偏らないような「公平を期した調整」は今も行われていると考えたほうがいい。。

ただし、日本経済学会連合の理事は、古参の学会、会員数の多い学会から選ばれる傾向があるから、古参の学会、会員数の多い学会の有力会員が学術会議の会員に選ばれる可能性が高いことは否定できない。コ・オプテーション方式を上手に利用すれれば、学会ボスによる会員資格のたらい回しも可能だ。きわめて透明度の低い、粗っぽい選出方式といわざるをえない。もちろん、会員選出に当たっては、各学会の各レベルで候補者案の「承認」が必要だろうが、いずれのレベルでも「執行部提案」が拒否されることは稀だと思う。承認機関である各学会の総会は、懇親会の直前に行われることが多い。多くの参加者の関心は懇親会での乾杯ビールに向かっており、「早く総会が終わればいい」と気もそぞろである。気がついたら議決が終わっていることも多い。

こうして、きわめて間接的かつ曖昧な方法で選ばれる会員だから、一般の研究者に「関心を持て」といってもどだい無理がある。自分の所属学会以外の研究者が学術会議会員に選ばれることも多いので、学術会議は自分の研究とはほとんど無縁だと思っている研究者も多い。学術会議から得られるもっともはっきりした恩恵は、会員に選ばれた場合に得られる100万円前後の報酬だが、そのためには学会の雑務や会員間の調整という厄介な仕事を引き受けて、学会内で事務能力・調整能力を評価される必要がある。あちこちの会議や研究会に精力的に参加して、ボス的な先輩研究者に顔を売る必要もある。自分の研究とは関係ない仕事を引き受けてまで、学術会議会員にはなりたいと思う研究者はそう多くない。いってみれば学術会議会員とは、賞味期限切れの研究者の名誉職だ(もちろん立派な人もいるが…)。

したがって問われるべきは「何のための学術会議か」という点だ。大半の研究者にとって「存在しなくとも一向に困らない」組織である。会員選出プロセスの透明度も低い。年間10億超の予算を国費で賄っているが、そんな金があるなら才能ある若手研究者にどんどん配分すべきだ(ただし、研究費配分組織である日本学術振興会にも大いに問題はある)。「学問の自由の一大事」と主張する研究者がいたら、その人の関心は学問に向けられているのではなく、学術会議会員に選ばれることに向けられているのだと思う。

批評.COM  篠原章
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