宮台真司「見たいものだけ見る日本社会」(朝日新聞インタビュー)への疑問

少々遡るが、9月14日の朝日新聞に宮台真司のインタビュー(有料記事)が掲載されていた。『「見たいものだけ見る政治」支えた国民意識』というタイトルだった。安倍政権から菅政権に交代する時期の記事で、安倍・菅政権の批判かな、と思ったが、読んでみたらそうではなかった。様々な意味で示唆に富んだインタビューだった。

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宮台はまず、OECD諸国の1人当たりのGDP(2018年)を取り上げ、「日本はイタリアにも韓国にも抜かれている」ことを例に挙げて、安倍政権は特定の経済指標だけ取り上げて日本経済が再建されたことを強調したが、「国民が見たいものだけを見せる」だけで実態は惨憺たるものだ、という趣旨のこと述べている。政権批判に終わるかと思いきや、そうではなく、「それは国民意識の表れである」と結論づけている。国民意識の象徴が安倍政権であり、そのフォロワーとしての菅政権だというスタンスである。

日本経済の凋落を全否定するわけではないが、経済指標の見方については異論はある。安倍政権は「GDPそのものの成長」に拘ったのであって、それは結果的に1人当たりGDPに影響する。問題はGDPをいかにして成長させるかで、安倍政権下の成長政策の是非についてはこれから検証する必要がある。安倍政権の成長政策に限界があったならそれを修正していけばいい。しかも、GDPの比較には為替レートが決定的な要因として働く。日本、イタリア、韓国だけでなく、イギリス、フランスなども含めて1人当たりGDPは五十歩百歩であり、為替レートの評価によって順位は簡単に入れ替わる。現に2019年には韓国は日本の下位にランキングされている。おまけにGDPは国民の生活水準そのものを表さない。数値には企業が経済主体として含まれているからである。注目すべきは、GDP成長率(変化率)と所得分配のあり方だ。そこまで踏み込んで国際比較しないと、定量的な断定も定性的な断定もできない。宮台はその点には配慮すべきだったと思う。

1人当たりGDPについていえば、シンガポールや香港に抜かれた20年ほど前に、日本はもっと自覚的に行動すべきだったが、グローバリズムの深化と共に台頭した中国や韓国のパワーに価格競争で敗北した。国際的な価格競争に対応するために打った諸政策も十分に練りこまれたものではなかったと思う。たとえば、非正規労働者急増について企業側のメリットだけが評価され、労働法制や慣行の改革が遅れたため、労働者側にもたらされたデメリットがいたずらに膨らんでしまった。近年になってようやく是正が措置されたが、それとて穴だらけである。予想もしなかったコロナ禍が、こうした事態を悪化させているが、ばらまき政策だけではしのげないのが現状である。事態の深刻さに気づいているのは、今のところ与党の一部と野党のほんの一部の政治家だけだが、政権の発する諸政策が盲目的な新自由主義や原理的なケインズ主義あるいは社会民主主義に大きくぶれない限り、「日本の未来」を桎梏の闇のなかに縛りつける必要はない。

宮台はいう。

「具体的なイメージで言います。スターバックスの店内を思い出しましょう。そこでおしゃべりしたり、パソコンで仕事をしたりしている人たちは、外見では所得格差があるかどうかはわかりません。失業して生活に困っている人がいるかもしれないし、その横に起業して成功したお金持ちが座っているかもしれません」
「日本では、70年代までは見た目で大体わかりました。ブルーカラーかホワイトカラーか、地方出身者か都会出身者か、という違いは隠せませんでした。だから、下層出身や、地方出身者が、疎外感を抱きやすく、連帯もしやすかったのです」
「いまは違います。日常生活で自分の出身を意識する局面が少なく、連帯ができないので貧しさが自意識の問題になる。経済的貧困によって本当は苦しい状況に追い詰められていても、です。いわば粉飾された自意識です。日本社会の劣化がここまで放置されてきたのは、『粉飾された自意識』によって『見たいものしか見ない』営みに支えられていたからです。安倍政権を支えてきたのは、『粉飾された自意識』です」

富める者も貧しい者も、等しく「スタバでお喋りしたり仕事したりするというライフスタイルや文化」という潮流のなかにいる、そのことが格差や辛苦を粉飾する作用をもたらし、真実を見ようとしないこの「生ぬるい日本」を維持し続けている、それはやがて破滅に繋がるというペシミスティックな結論、あるいはニヒリズムに行き着いている。スタバというアメリカ文化の日本への浸透と定着こそぼくの関心を引く現象なのだが、宮台の関心は、スタバからペシミズム、ニヒリズムに一足飛びしている。それもまたおもしろくはある。

宮台の指摘するような「見たいものだけ見る」(あるいは「見せたいものだけ見せる」)「ライフスタイルを粉飾する」という態度が、国民の間に広がっているのは否めない。その大元には「成長率」による変化をけっして前向きに感じられない経済社会の実態がある。暗黒面を見ることは大事だが、なぜ成長しないのか、あるいはなぜ右上がりの変化を感じられない経済なのか、という基本的な問いを発し続けることのほうが、はるかに生産的だ。その問いかけは、遅ればせながらコロナ禍を契機に始まっている。暗黒面の過度な強調は、ときとしてその歩みの障害になる。

残念ながら、宮台の社会認識は、「女工哀史」や「蟹工船」の時代の知識人の姿勢とあまり変わりがないと思う。宮台は、「社会の暗黒を見ずして前には進めない」という伝統的な社会改革思想に近いところを彷徨しているが、「革命」と言いださないところにまだ大いに救いはある。宮台の問題提起は尊重するが、問題解決のための萌芽を摘みかねない、堂々巡りの世論を形成してしまう恐れはある。

もっともぼくの目下の関心は、戦後史のなかの「アメリカ」に日本がどう決着を付けるのか、という加藤典洋以来の問題意識に留まっており、その意味では宮台と違う局面で、過去の遺物の上をなぞっているだけかもしれないから、それほど偉そうなことはいえない、とは付け加えておこう。

批評.COM  篠原章
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