「任命拒否は学問の自由の侵害」という主張は学問の自由を制約する

Newspicsは、菅義偉総理によって日本学術会議会員への任命を拒否された6名の候補のなかで、もっとも厳しく政権批判する立命館大学の松宮孝明教授へのインタビューを掲載している。

松宮氏は熱心に自説を展開するが、これを読んでも、いちばん本質的なことが欠けているという印象を拭うことはできなかった。ひと言でいえば、「学術会議って一体何なの?」という基本的な疑問に対する答えが見えないということだ。「任命拒否は学問の自由の侵害」という主張がいかもに正当性を持つかのように喧伝されているが、「そうだとしても、それは関係者の皆さんの学問の自由なのであって、ぼくたちの学問の自由とは一切関係ない」という思いばかりが強くなる。

ぼくが首相の立場だったら、学術会議の推薦名簿に基づき、何のチェックもしないで会員を任命しただろう。なぜなら、この国にとって学術会議などたんなるお飾り(名誉職)に過ぎず、学界的な権威も、政治的な影響力も皆無に等しいからだ。会員任命を目指している方々には失礼かもしれないが、「どうでもいい組織」にすぎない。

「任命拒否は学問の自由の侵害する暴挙」といった批判は多いが、学者・研究者の大部分が、「学術会議が学問の自由をも守る組織」という認識など抱いてはいない。学問の自由とはまるで関係ない組織、というのが実態である。

菅首相の真意はよくわからないが、おそらく何らかの問題意識はあったことだろうと思う。任命を拒否された人たちが共産党など特定組織に属していたり、政治的な活動に取り組んでいたり、といった公安情報は参照していただろう。が、それだけではないという気がする。

世論形成にとってもっとも重要なインパクトを与えるのはメディアの報道である。メディアの報道に何らかの権威を与えるのはつねに「専門家・研究者の見解」である。専門家・研究者の属するアカデミズムに偏向があり、そのアカデミズムに権威を与えているのが政府が形式的な人事権を有する学術会議であるとすれば、菅首相は「それを正したい」と思ったかもしれない。ぼくにいわせれば、学術会議にそもそも権威などないのだから、それは菅首相の学術会議に対する過大評価である。

もう一つ考えられるのは、学術会議には税を投入しているのだから、そうした組織は民主的に規律されなければならない、という立場からあえて人事に介入したという菅首相の思惑である。

学術会議会員は特別公務員なので、「民主的に選ばれている」という最低限の保証が必要だが、現行の学術会議法に則った選出方法を見るかぎり、「民主的な選挙」が行われているとはとてもいえない。民主的な選出であるとの根拠を裏書きしているのは、唯一「首相による任命」だけである。その首相がダメ出するのは、むしろ民主主義の発露とさえいえる。

1983年以前はアカデミズム内での「民主主義的選挙」が曲がりなりにも行われていたが、近年は「学界」というブラックボックスのなかから、特定のコマ(候補者)を並べた名簿が飛び出してきて、その名簿を無条件に首相が承認することで学術会議の民主主義は成り立っている。

候補者に民主主義的な正当性を与えているのは、民主主義の下で選ばれた首相だけである。首相の行為を否定するためには、学術会議の会員選出方法に、選挙などといった「民主主義のツール」をあらためて付与するほかない。したがって、菅首相の任命拒否は、「学術会議会員の選出方法を見直せ」という問題提起として見ることもできる。逆にこの点を捉えて、「学問の自由への介入」と首相を批判する向きもあるが、そんなに学術会議が崇高な組織だと思っているなら、会員選出方法について学術会議自ら民主主主義的な改革を提案した上で、首相の任命権を削除するなどして、介入のチャンスをなくせばよい。それが政治的に無理だというなら、民間組織として再出発し、政府の一定の助成金を得ながら自主的に運営すべきだろう。

ぼくにとっても、大多数の国民にとっても、学術会議などどうでもいい組織なのだから、そんなに大騒ぎすべきことでもないと思うのだが、一部野党やメディアが、任命拒否された会員候補やその支援者の政権批判に便乗して問題を政治化している現状を見ると、ほんとうの「学問の自由」が返って狭められてしまう恐れを強く感じざるをえない。

批評.COM  篠原章
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