「国場幸之助vs下地幹郎」の行方(上)

自民沖縄県連の決断

前回の総選挙(2017年)において、日本維新の会衆院比例区九州ブロックで当選した下地幹郎議員の自民党復党をめぐり、沖縄県議の中川京貴氏が会長、同じく島袋大氏が幹事長を務める自民党沖縄県連は、11月15日、「復党は認めない」という結論に達した。

沖縄一区はすでに自民党の国場幸之助衆院議員の「地元」として確立しており、もともと自民党出身であるにもかかわらず、過去何回も自民県連と対決してきた下地氏に対しては、「党を裏切った人物」という評価も根強く残っている。その下地氏からの復党願は断じて受け入れられないというのが、現段階の県連の姿勢である。

沖縄経済界からの復党願

下地氏は、秋元司衆院議員が絡むIR汚職疑惑に関連して、贈賄の罪で懲役2年・執行猶予3年の有罪判決が確定している中国企業・500ドットコム元顧問の紺野昌彦氏から現金100万円を受け取ったが、これを政治資金収支報告書に記載しなかったことを認め、今年1月7日、日本維新の会に離党届を提出した。ところが、1月8日の党常任役員会(持ち回り)はこれを認めず、党紀上、もっとも思い除名処分を下すと同時に議員辞職を勧告した。除名は、未民間企業・官公庁なら懲戒免職にあたり、本人からの聞き取り調査を経て処分を下すのが普通だが、維新執行部が下地氏から聞き取り調査を実施した形跡はなく、簡単に切り捨てている。執行部にとって、政治的駆け引きに長けた下地氏は従来から厄介な存在だったという。その後、下地氏側は、議員辞職勧告は受け入れず、現在まで衆院議員の身分を維持している。維新の中で浮いた存在だった下地氏は、かねてから自民党に復党したいという希望があるといわれていた。だが、維新比例ブロックの議員である限り、おいそれと復党を口にすることはできない。今年に入って維新を除名されたことで足枷がなくなり、総選挙が近づくなかで復党申請がしだいに現実味を帯びてきたが、下地氏は11月に入っても「自民復党はありえない」と述べていた。

ところが、下地氏本人や下地氏の兄である下地米蔵沖縄県建設業協会会長(大米建設会長)と親しい沖縄最大のゼネコン、國場組会長・国場幸一(ゆきかず)氏は、今年に入ってから下地氏の自民党復党のため奔走していた。1万2千社以上の地場企業から下地氏復党を請願する署名を集め、11月12日に自民県連に提出したのである。これを受けて下地氏も、「経済界からの要請」を理由に復党の意思を初めて明らかにしている。

1万2千社とは尋常な数ではない。国場幸一氏のパワーには恐れ入るが、自民県連は、同県連をしばしばコントロールしてきた財界の実力者・幸一氏の巨大なプレッシャーを撥ね除けて見せたのである。10月中には、自民党幹事長代理の林幹雄氏が下地氏と国場幸之助氏を同席させる食事会を主催するなど、自民党本部からの懐柔もあったが、幸之助氏(自民県連沖縄一区支部長)と県連の「復党反対」という決意を変えるには至らなかったようだ。

国場幸之助衆院議員(沖縄一区/2017年は比例九州ブロックで復活当選)は、幸一氏と同じ國場組創業家・国場家の一族だが、幸一氏を正統とすれば幸之助氏は傍流である。親族同士だけに外部の者には理解しにくい確執もある。

幸之助氏の指導的政治家としての本格的な活躍はこれからで、外務政務次官(現職)として実績を積むことが期待されている。その人柄も概ね評判がいいが、脇の甘さを指摘する声はある。たとえば、県連会長に選ばれた直後の2018年4月29日、女性問題に端を発する暴力事件(酔っ払った上での喧嘩)に巻き込まれ、自身も重症を負うと同時に、相手方とともに書類送検されている(県連会長は辞任)。検察は起訴猶予としたが、この年には同じ女性が絡んだ民事訴訟も起こされている(調停済)。この訴訟絡みで、幸之助氏の岳父である西田健次郎元沖縄県議が暴力団に介入を依頼したとの記事が週刊文春の11月18日発売号に掲載されたことは記憶に新しい。

保守分裂の経緯

下地氏と幸之助氏は同じ沖縄一区で闘ってきた間柄だが、沖縄一区は、小選挙区制が導入された1996年以降、公明党の牙城から、自民・保守の票田に変わり、オール沖縄が勢いを増してからは、「全国で唯一の共産党候補が当選する選挙区」へと様変わりしている。

下地氏が自民党から沖縄1区に立候補して初当選(比例重複)を果たしたのは1996年のことで、菅義偉氏、河野太郎氏などと同期である。当時、沖縄一区で最有力だったのは創価学会を支持母体とする白保台一氏だった。公明党はこの時期新進党に合流していたため、白保氏は新進党として初当選を勝ち取ることになった。まだ自公連立以前のことで、下地氏は自民党公認候補として闘ったものの、選挙区では白保氏に約8千票差で敗れている。

1998年11月15日に行われた沖縄県知事選挙で、当時、自民党県連幹事長だった翁長雄志氏などの活躍により、中央に先駆けての「自公協力」が実現し、現職の大田昌秀氏を破り稲嶺惠一氏が県知事に当選する。翌年には、国政でも自公連立が成立するが、自公蜜月の流れを受けて2000年の総選挙では、沖縄一区に公明党現職の白保氏が立ち、自民党が支援に回って当選を勝ち取る。下地氏は、自民党の比例単独候補として当選しているが、「選挙区で当選してこそ一人前の代議士」といわれるなかで、下地氏には忸怩(じくじ)たる思いがあったに違いない。たんなる巡り合わせに過ぎないが、下地氏は自公協力の煽りを食ったといえなくもない。

2003年の総選挙では白保氏を下ろして自民党の公認候補として選挙区に立候補しようとする。ところが、自民が公明に遠慮したため目論見通りに運ばず、下地氏は自民党に党籍を置いたまま無所属で立候補する道を選んだ。沖縄一区における「保守分裂」の始まりである。当選したのは、自民党・保守新党の支援を受けた公明党の白保氏だった。次点の下地との票差は6千票に縮まっていたが、下地氏は衆院を去ることになった。

沖縄一区での自公協力には、無所属保守系として挑んでも勝てないと踏んだ下地氏は、2005年の総選挙で反自民政党の協力を得るという思い切った決断をする。2014年の県知事選から本格化した「オール沖縄」(革新系と一部保守系の連繋)を先取りするような動きだったが、下地氏の願いはそのおかげで見事に成就し、民主党推薦・沖縄社会大衆党支持の無所属候補として初めて沖縄一区を制することになった。現職の白保氏との票差は5千票弱。接戦だったが、公明党は10年近く守ってきた議席を失ってしまった。(続)

「国場幸之助vs下地幹郎」の行方(下)へ

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket