南島慕情 屋久島篇(2)

歩く、歩く、そしてまた歩く

夜明け前、4時45分にロビー集合。エコツアーのガイド氏が運転するワゴン車は猛スピード。蛇のようにうねる山道を時速60キロ超。小一時間はかかるはずの登山口(荒川ダム)まで30分ほどで到着。そのせいで学生たちは乗り物酔いになってしまい、登山開始まで多少の休憩時間を要することになった。

午前6時スタート。暑すぎず涼しすぎずで気温はいい塩梅。トロッコの軌道の上を約11キロ。歩く。歩く。ひたすら歩く。今も営林事務所の手で、トロッコは一日一回動かされているという。トロッコ道だからどう工夫して歩いても枕木が足にあたる。が、まだここは比較的平坦な道だからマシか。この道は、江戸時代にはすでに切り開かれていたというから、数百年の歴史がある計算だ。杉で一儲けしてやるという営利心。そして未踏の地を極めるという冒険心がこの辺境の島を開拓してきたのだ。“欲”が経済の原動力だった時代の産物である。

途中に小杉谷集落跡。トロッコが開通すると同時、1923年に開村した森林経営の前戦基地で、最盛期には商店、理髪店、郵便局も抱え、133世帯540人が住んでいたという。廃村になったのは1970 年。山火事を畏れてすべての家屋が取り壊され、最大108人の児童・生徒が通った小中学校の校庭のみが往時の面影を伝えるのみ。廃墟というにはこざっぱりしたもの。それにしても、日本の林業・林野行政はどうなっているのだろう。「安価な輸入木材に市場を奪われて」とでもいえば、言い訳として上等だと思っているのだろうが、今や林野庁の仕事と環境省の仕事を区別するのは難しい。山のあちこちに林野庁の立て札と環境省の立て札が混在している。林野行政と環境行政の混乱ぶりを象徴しているかのようだ。

大株歩道入り口には丸太小屋風 の立派なトイレがあった。世界遺産に指定されてからというもの、多いときで一日300人の登山者がいるという縄文杉コースだが、この日も200人以上の登山者がいるようで、女性用トイレは大行列。トイレを終えた人たちは、周辺の狭苦しい空き地で肩を寄せ合うようにひと休みしている。年輩者もいるが、やはり二十代や三十代が中心だ。 周囲の景色を楽しむ余裕などない。先行者の足元を見ながらただひたすら登るだけ、唯一の楽しみがこの休憩時間である。なにが「還暦過ぎても平気」だ。確かに70代の元気者もいる。
が、身につけている装備からいって、どう見ても元ワンゲル部か山岳マニアだ。同行の学生たちでさえヒーヒーいっている。もうこのあたりで引き返したいと思っているのはぼくだけではないようだ。ぐったりとした表情をしている人も少なくない。それが逆に勇気を与える。皆、同じようなコンディション、ここで俺だけが引くわけにはいかぬ、と自らを鼓舞。

大株歩道入り口から縄文杉まで2.8キロ。距離はたいしたことはないのだが、ここからが文字通り正念場、険しさは一段と増す。トロッコ軌道がない分、足裏は楽になるが、急坂の登り降りを際限なく繰り返す。いったん登ったら、降りないで済むようなレイアウトの登山道だったらいいのに、と恨み言のひとつもいいたくなる。平坦なところには環境省の手によって設置された木製の歩道があるが、急坂となると花崗岩のごつごつした岩場、70~80度はあろうかという急斜面の上り下りも珍しくない。こうなるともう格闘技みたいなもので、両手両足を連携させながら這い蹲うようにして登る。だが、歳のせいか手足の連携が思うに任せない。足場はよくても手が空を切っている、手の位置はいいのに足場を見つけられない。休憩の回数もぐっと増える。休憩する場所は水場と決まっている。岩場のあいだを清流が流れ、水汲みもできるようになっている。この水がまた冷たくて甘い。何杯も何杯も水を飲む。冷たい水が喉を通りすぎる瞬間、生き返ったような気がするのだが、それはそのときだけの錯覚のようなものだ。休憩時間の間、皆、虚ろな目をして押し黙っている。

疲れた体を引きずるように獣道のような登山道を進む。これだけ疲れているのに、さすがに慣れてきたのか、森のなかで鹿が餌を漁っている姿に気づいたりするようになる。登山の行き帰りで計七頭の鹿と、三頭の猿に出会ったが、不思議なことにほとんど昆虫に出くわさない。虫といえば、蝉の鳴き声を聴くくらいである。

「実は屋久島の生態系は偏っているというか、貧しいんですね。生態系の豊かさからいったら関東にはとてもかなわない。屋久島っていうのは巨大な盆栽なんです。岩があって、上からじょうろでジャンジャン水をかけてあげたらコケが生えた。そのコケをこやしにして長寿の杉が生えたっていうことなんです。千メートルを超える山はこの狭い島で42もあるし、赤熱帯から亜寒帯までの植生が観察されるとはいうけれど、豊かというほどの生態系じゃない。動物だって鹿と猿とイタチぐらいしかいないしねえ。蝶々や蛾の種類もこれだけの森林があるわりには知れている。植物の種類も意外なほど少ない。確かに関東と違ってひめしゃらも巨木になるけど、それはそれだけのことですからね」

なーるほど。ガイド氏の説明は的確だ。そうか、巨大な盆栽なんだ。

ランチはウィルソン株の周辺で。これだけ疲れていても、食事だけはぱくぱくと食べられる。夜明け前、荒川登山口で食べた弁当もしかりである。学生たちが乗り物酔いでほとんど食べられなかったのに、こちとらはすっかり平らげてしまったのだ。ランチの後、ガイド氏が温かいコーヒーを入れてくれた。生き返る。

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ウィルソン株から小一時間、辛い辛い、死にたい死にたいと文句を言いながら、最終目的地である縄文杉になんとか到着。時間は午後一時を回っていた。休憩を挟みつつ、6時間余の道程。なんだか話が違う。行きだけで6時間?また同じくらいの時間、歩き続けて帰らなければならない。達成感を感じている暇もない。ガイド氏によれば、帰りはそんなにかからないというが、もはやここで野営したい気分。一日が長すぎる。

縄文杉は確かに風格があった。途中の大王杉や翁杉もなかなかの見物だったが、縄文杉には敵わない。頬ずりしたかったが、周囲に柵が巡らせてあって、触ることはちょっと無理。残念だ。

縄文杉は推定樹齢7200歳、その次に長寿の大王杉が樹齢3000歳。えっ、待てよ。長男が7200歳で次男が3000歳?4000歳から6000歳の兄弟は?長男と次男にあまりにも年齢差がありすぎませんか、と訊ねてみたら、縄文杉の7200歳というのは定説ではなく、学会では問題になっているとのこと。が、ま、ご愛敬というべきだ。3000歳だろうが、7000歳だろうが、いずれにせよ「超」がつくほど長寿であることに変わりはない。研究者にとっては重要な問題だろうが、われわれにとってはどちらでもいい。いずれにせよ文字もない時代の話である。とりあえず7200歳ということでいい。

帰りは思ったよりも楽な道程だったが、年寄りにゃ下りが多い復路もけっこう辛いもんだ。荒川登山口に戻ったのは午後5時30分過ぎ。いやーよく歩いたよ。やれるもんじゃない、けっこう。自分をほめてやりたいとはこういうことなのだ。グループから一人の脱落者もでなかったから、これまた大成功といわなければならない。

宿舎に帰って風呂に入り、自ら足をゆっくりマッサージ。翌日も翌々日も体には異常がでなかった。俺はまだまだ捨てたもんじゃないとの自信が沸いてきてしまうから不思議。ざまあみろ!もっとも、これも神木・縄文杉の御利益かもしれない。ありがたや、である。

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批評.COM  篠原章
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