石丸伸二と道化性—都知事選2024総決算
たぬきちの名言
都知事選で2着になった石丸伸二について、FBフレンドの獺尾健さん(旧2ちゃんねらーのあいだでは「たぬきち」として知られる)が、「石丸には道化性がない」という趣旨のことをいっていた。
そうか!そうだったのか。たしかに道化性がない!まったくない!
「道化性」という言葉を聞いた途端、これまで石丸伸二に抱いていた疑問が一気に氷解した(さすがたぬきち!)。
「石丸論理の虚構性」ばかり気になっていたが、いわゆる劇場型選挙では、「論理の虚構性(見せかけの論理性)」よりも「道化性の有無」に評価軸を置くべきだったのだ(ぼくなりに言葉を置き換えると人間としての幅、糊代、ペーソス)。
「石丸には道化性がない」と捉えることで、出来の悪い生成AIみたいな石丸の話しっぷり・受け答え(古市憲寿とのやり取りがその象徴)や、いまや陳腐と感ずることのほうが多い「多極分散」という石丸の公約や、各種訴訟に対するちぐはぐな石丸の対応などの裏に隠れていた石丸の欠点が、ことごとく明確になった。それと同時に「石丸には新時代を切り開く可能性がある」とか、「斬新な候補」といったぼくの事前評価は完全に間違っていたことも明らかになった。
石丸伸二の「成果」
ただ、これまで投票所に足を運んだことのない人々、ほぼ同じことだが、政治に関心が薄かった人々を「政治屋の一掃」というキャッチフレーズで刺激して投票所に足を向けさせたのは石丸の「成果」といえるが(投票率5・6%アップ)、こうした「石丸旋風」もまた見せかけの、それこそたんなるブームに終わりそうだ。「メディアを活用した一発屋」というと石丸には失礼だろうが、「ペテン師」とまではいわない。「一発屋」が適切な表現だと思う(かくいうぼくもかつて「稀代のペテン師」呼ばわりされていた時期がある)。
さらにいえば、三浦小太郎さんがいうように、石丸にかなりの支持が集まったことは「政治不信」に対する国民(都民)感情の表れだと思う。国民は自分たちの「政治不信」感情を受け止め、それを巧みに払拭してくれる政治家探しに躍起になっているのである。揺れ動くこうした国民感情の波に乗って登場したのが石丸伸二だったのだ。
政治家の評価は道化性の有無が決める
が、振り返ってみれば、2011年の都知事選で2着となった東国原英夫(元自治体首長という点では石丸と同じ)が得た票数と石丸の票数はほぼ同じ。東国原は1,690,669票(当選した石原慎太郎は2,615,120票)、石丸は1,658,363票(当選した小池百合子は2,918,015票)。投票率(2011年は57.80%、2024年は60.62%)や公職選挙法における被選挙年齢の改正(20歳から18歳への引き下げ)を勘案すると、東国原支持者の「密度」のほうが濃い(ただし、東国原の県知事、タレントとしての知名度の高さといった他の条件は無視)。2024年が2011年と根本的に違うのは、石丸には都民以外に熱狂的な支持者がいることだが、それは東京より地方の人口減少のほうが圧倒的に深刻なことに起因していると思う。
いずれにせよ東国原には道化性があった。石原慎太郎、小池百合子、蓮舫にも同種の道化性はあった。道化性の欠落した政治家は基本的に大成しないのだ。
石丸伸二の仕切り直し〈他の職への転身も含む〉が可能かどうか不明だが、道化性の再建がひとつの鍵だろう。今となってはどうでもいいことだが。
石丸ブームを別とすれば、今回の都知事選で得たぼくの収穫は、安野貴博候補の発見と、後藤輝樹候補の示した「泡沫候補のあるべき姿」ぐらいだと思う。
以上、自戒を込めて。
※写真は本文とまったく無関係の「越路姉妹フィーチャーリン・カオリーニョ藤原」(7月9日@晴れたら空に豆まいて・代官山)。彼らは道化性が強すぎて政治家にはけっしてなれない。そもそも政治家になる気もないだろう。