都知事選2024得票分析—「フィルターバブルの勝者」石丸伸二は次代の政治的ヒーローたりうるか?
石丸の出現で俄然おもしろくなった都知事選
小池百合子の3期目の当選で2024年の都知事選が終わった(7月7日)。
NHKから国民を守る党の「掲示板商売」や候補者乱立など公職選挙法すれすれの危うい行為もあったが、もっとも特異なことといえば、彗星の如く現れた前安芸高田市長で無所属の石丸伸二が、立憲民主党や共産党などが支援した蓮舫を大差で押さえて、小池に次ぐ二番目の得票を獲得したことだろう。
何も起こらなければ、小池は歴代最多得票(記録は猪瀬直樹の4,338,936票—2012年)を目指せるところだった。が、週刊文春などが報じた「カイロ大卒業疑惑」で足元を掬われ、立候補すら危ぶまれる事態に陥った。蓋を開けてみれば、前回の366万票から292万票に減らしたものの、石丸や蓮舫を下して3期目の当選を果たした。初回当選時(2016年)は291万票だったから、基準に考えれば300万票が「小池の地力」といえるだろう。一般論では「小池強し」に見えるが、23区では「石丸人気」の急膨張に、蓮舫だけでなく小池も脅かされていたと思う。石丸の立候補宣言がもうひと月早まれば、SNS発信の応酬を通じて小池vs石丸はより接戦になっていただろう。石丸の出現で、多くの有権者(とくに無党派層)が小池を「旧体制(旧時代)側の象徴」と見なすようになったかもしれない。ただし、「旧体制」を前向きに評価するか、唾棄すべきものと評価するかは別の問題である。
蓮舫の「健闘」は及ばず
石丸の立候補と「石丸信者」の急増は、小池より蓮舫の票をより多く喰う結果となったと思う。蓮舫は「小池=自民党糾弾戦術」をとらず、あまり似合わない(つくり)笑顔を振りまいて選挙戦を果敢に闘ったが、無党派層にまでその声は十分に届かなかったようだ。届いたとすれば石丸の声だったのである。「投票率5%アップ」がその証拠だ。ただ、前回知事選の宇都宮健児の84万票と山本太郎の66万票を足した150万票には及ばなかったものの、約130万票の得票は蓮舫ひとりが闘って得た票であり、それなりに奮闘したと見ることもできる。もっとも、都心3区はもちろんのこと、低所得者層が多く住む地域でも票は伸びず、ほとんどの市区町村で石丸の後塵を拝した。蓮舫は、無党派層の都民からは小池と同じく「旧体制」(旧時代)側の政治家に見えたのではなかろうか。
石丸伸二は「フィルターバブルの勝者」か、それとも鈴原冬二か
石丸の得票2位は、「石丸なら何かやってくれる!」という期待値であり、具体的な政策に対する評価ではない。その公約の多くは説得力がありそうに見えて実は抽象的・理念的だ。SNSを使った選挙戦術はたしかに斬新で、それだけで投票所に足を運ぶ無党派層は増えたと思う。
YouTubeなどのSNSでは、利用者の好むサイト、商品、動画だけが表示されるアルゴリズムが機能しているが(この機能を「フィルターバブル」と呼ぶ)、特定の候補者が気になって一度でも動画を視聴したりすると、次回以降、お気に入り動画にその候補者の動画が表示される仕組みになっている。「石丸はこのフィルターバブルを活用した詐欺師」という人も多いが、石丸人気の理由をそれだけで説明するのは不可能だ。「政治屋の一掃」という石丸のスローガンは古典的だが魅力的で、それに惹かれて石丸に投票した都民は多いはず。都心部はもちろん、23区内でも多摩地区でも島嶼部でも、石丸は実に万遍なく支持を集めている。
橋下徹の胡散臭さを疑う人たちは、石丸に同様の胡散臭さを感ずるかもしれないが、政治家なんてそもそも胡散臭い存在である。石丸はその胡散臭さを漂白する「意思」を高らかに宣言しながら登場したが(それもパフォーマンスだという人もいる)、データに裏づけられていそう見える、あるいはきわめて論理的に見える政治家・石丸の言動の真贋が評価されるのはむしろこれからだと思う。
村上龍『愛と幻想のファシズム』(1987年)の主人公である「ファシスト・鈴原冬二」に部分的に重なるイメージをもつ石丸だが、そこも含めて今後の石丸の活動を注視していきたい。
10万票以上得票した候補者は7人〜その特性と得票の傾向
今回10万票以上得票した候補者はぜんぶで7人いる。小池、石丸、蓮舫については前述の通りだが、他の4候補も含めて下表にまとめている。
とくに気になるのは、東大工学部出身のAIエンジニア・安野貴博である。AI時代を切り開く先頭に立っている安野の今後の動向は気にしたほうがいい。目立った選挙活動もなかったのに15万票以上も集めたのである。内野聡とひまそらあかねはYouTuber。正直、政治的・政策的にどこまで東京や日本に貢献できるのか未知数だが、次の選挙にも立候補する可能性はある。今回のような(N党の広報・事業戦略に拠るものだが)候補者乱立を防ぐために「供託金を引き上げろ」という意見もあるが、とんでもない。いわゆる「泡沫候補」には泡沫候補としての役割がある。泡沫候補の可能性を奪うような制度改正をしてはならない。それこそ政治屋のための政治になってしまうではないか。
ぼくがかつて「泡沫候補界のニューウェイブ」と持ち上げたことのある後藤輝樹は、前回の2万票を大幅に減らして今回は5400票余り。が、後藤には又吉イエスやマック赤坂に通ずる「正統派泡沫候補」の貫禄のようなものがでてきている。泡沫候補が泡沫と言われながらも尊敬される最後の人物になりうる可能性を秘めている、という意味である。議会制民主主義の美徳と悪徳をまとめて担うかのような孤高のその姿勢をできうるかぎり続けてもらいたいと願う。