台湾映画『セデック・バレ』と現代につながる狩猟民のDNA

映画『セデック・バレ』再見

AMAZONプライムの無料配信が7月16日限りだったので、ウェイ・ダーション(魏德聖)が監督した台湾映画『セデック・バレ』(2011年)を久々に観た。

「第1部 太陽旗」と「第2部 虹の橋」を合わせると約4時間半の超大作だが、監督とプロデューサの間で製作費負担をめぐる訴訟がつづいているので、今後いつどこで配信(または上映)されるか見通せない。そこで、この機を逃すまいと、2日間にわたってこの映画にかじりついていた。

素材は1930年に日本統治下の台湾で起こった「霧社事件」。少数民族のセデック族が、一部の日本人警官による侮蔑的な発言や暴力に耐えかねて蜂起し(当時の台湾に住む少数民族は警官によって統治・管理されていた)、運動会のために集まった134人の日本人を虐殺し、首を跳ねるなどして遺体を晒したという陰惨な事件である。

第1部は事件の発生まで、第2部は事件が鎮圧されるまで、を扱っている。基本的に史実にもとづいてはいるが、監督によって造りこまれた部分も少なくない。とくに第2部では、セデック族の奇襲によって、鎮圧に当たった無数の日本人警官や兵士が次々に、また無様に斃れていくが、事実はこれほど酷いものではない。最終的には、セデック族の死者数(自死を含む)が日本人戦死者をはるかに上回っている。

「反日映画」「反戦映画」というより、「自らの命を賭して他者の命を奪う」ことの意義が問われている映画だと思う。描かれているのは、名誉のために死を選ぶのか、名誉を捨てても生きながらえるのか、という究極的かつ普遍的テーマである。自らの意思に反して戦闘に巻き込まれ、否応なく絶命する人々の姿も描かれているが、そこは現在もまったく変わらない。これを「許せない」ととらえるのか、「人類の宿命」ととらえるのか、あるいはそのどちらでもない、別の価値基準でとらえるのか。大きな問題提起だ。

カメラ、美術、音楽(疑似民族音楽)とも素晴らしいが、それは台湾という土地の魅力から生まれるものだろう。まさにフォルモサ=麗しの島である。

当時はズブの素人だっ主演のリン・チンタイ(林慶台)の好演が光る。ノーギャラで出演し、寄付までしたというビビアン・スーもいい。日本人出演者では木村祐一(チコちゃんの中の人)の警官役が憎たらしいほど。上手いとはいえないが、はまり役である。

第2部は観ても観なくてもどちらでもいい。第1部はそれだけでほぼ完成されていると思う。2作を合わせた短縮総合国際版があるらしいが、上映されたらまた観にいきたい。

狩猟民のDNAと現在

この映画を見直したせいで、最近のさまざまな出来事が変形しながら頭のなかを駆け巡っている。

石丸伸二ブームを理解しようと読み直した村上龍『愛と幻想のファシズム』(1987年)の主人公・鈴原冬が掲げた「思想」は、「狩猟民の感覚を取り戻せ」というものだった。台湾先住民はいまも(細々ながら)狩猟を続けているというが、『セデック・バレ』の描く1930年当時の彼らは完全なる狩猟民で、頻繁に行われていた「首狩り」も、狩場を守るための行為として正当化されていた。

沖縄から出土された2万年前(もしくはそれ以上前)の人骨も台湾先住民と縁が深い。ホモサピエンス発祥の地・アフリカから何万年もかけて南廻りで沖縄にたどり着いた新人類の人骨に違いない。彼らがやがて日本本土に移り、北廻り(ユーラシア大陸)経由でやってきた新人類と混交の末に現代の日本人が生まれたのである。

つまり、われわれのDNAのなかにも狩猟民(や首狩り族)のそれが入りこんでいる。

と思うと、町中華探検の元祖・北尾トロさんが長野に移住して猟師としての経験を積んだのも理解できる(トロさんに直接聴いたわけではないが…)。

全米ライフル協会の支援を受けるトランプ前大統領が(皮肉にも)ライフルで狙撃されたのも、われわれのなかに潜む狩猟民のDNAのなせるわざなのか?
いやいやそんなことはない。われわれ人類は「理性」によって狩猟民の衝動を抑えてきたはずだ

だが、ウクライナやガザで繰り広げられる不幸な戦闘が容易に終わらない現状を見ると「理性」の力を疑いたくなる。いや、理性そのものの存在を問い直したくなる。

こうしてぼくたちは迷路を彷徨いつづけ、いつまでたってもDNAの神秘に縛られたまま、そこから抜けだせないのである。

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket