琉球独立学会の行く末〜「独立」は「革命」と同義である
ぼくは沖縄の人たちが「独立」を真剣に考えるのはいいことだと思う。たとえ、それがほんの小さな動きに留まるとしても、ひとつの可能性として真剣に取り組めばいい。
5月15日に「琉球民族独立総合研究学会」が設立された。設立の趣旨は以下の通りだ(琉球新報5月16日付記事より引用)。
<研究会設立趣意書(要旨)>
琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族は独自の民 族である。琉球國はかつて独立国家として諸国と外交関係を結んでいた。他方、1879年の明治政府による琉球併合以降、現在にいたるまで琉球は日本そして米国の植民地となり、日米両政府による差別、搾取、支配の対象となってきた。
日本人は、琉球を犠牲にして「日本の平和と繁栄」を享受し続けようとしている。このままでは、琉球民族は戦争の脅威におびえ続けなければならない。
琉球民族は「人民の自己決定権」を行使できる法的主体である。琉球の将来を決めることができるのは琉球民族のみである。日本から独立し、全ての軍事基地を撤去し、世界の国々や地域、民族と友好関係を築き、琉球民族が長年望んでいた平和と希望の島を自らの手でつくりあげる必要がある。
独立を目指し、琉球民族独立総合研究学会を設立する。会員は琉球の島々にルーツを持つ琉球民族に限定し、学際的な観点から研究を行う。担い手は独立を志す全ての琉球民族である。
琉球民族が独自の民族として平和・自由・平等に生きることができる「甘世(あまゆー)」を実現させるために本学会を設立し、琉球の独立を志す全ての琉球民族に参加を呼び掛ける。
言い出しっぺは龍谷大学の松島泰勝さんである。松島さんたちは「琉球は日本そして米国の植民地となり、日米両政府による差別、搾取、支配の対象となってきた」という歴史認識の下、「琉球民族が独自の民族として平和・自由・平等に生きることができる『甘世(あまゆー)』を実現させるために本学会を設立し、琉球の独立を志す全ての琉球民族に参加を呼び掛ける」という。だが、ほとんどの沖縄の人たちは、「独立」といわれても、まだピンと来ないとは思う。
余計なことかもしれないが、龍谷大学は京都の大学だ。京都にいながら、「琉球独立運動」のリーダーを務めるのはなんだかヘンな感じがする。マルクスのようにイギリスに亡命するとか、ダライ・ラマ14世の ようにインドで亡命政府を造るとかのがカッコいいし、本来の姿だという気がするが、日本は民主主義だから、松島さんが京都で独立運動をしても許される。いやがらせはあるだろうが、弾圧はされない。そういう意味ではチベットやウイグルや内モンゴルの独立運動を弾圧する中国と日本は違う。でも、その中国が松島さんたちの運動を熱心に応援している。国内の独立運動を弾圧する中国に応援される日本の独立運動とはいったいなんなのか。ぼくはちょっと考えこんでしまう。
記者会見では、「経済」「行政」のあり方も含めてこ れから議論するというような説明もあった。おそらく「経済」「行政」を真剣に考え始めたら、生半可の独立論ならたちまち潰えてしまう。沖縄の県民総生産の4割は、補助金など本土から流れこんでいるお金が源だ。その4割がなくなることも覚悟しなければならないから、沖縄が経済的に自立できると考えるのは、今のところ幻覚みたいな話だ。なにより「貧困は敵」である。貧困と経済的権益がすべての戦争と争いの原因であり、貧困の克服と経済的保障の確立が平和と安心への欠くべからざる条件である。「独立の理念は経済に勝る」「独立論をたんなる経済論とすり替えるな」と彼らが主張するなら、世界の手本となる、貧困問題・経済問題をものともしない「独立」をぜひ実現してもらいたいと心から願う。
また、彼らの「日本よアメリカよ、沖縄から出ていけ」という論に近い国家論は現在の安全保障体制に対する異議申し立てとなっているが、沖縄の独立は東アジアにおける国際関係を一変させることもまた確実である。米軍基地の全面撤去は、日本だけでなく、台湾・韓国の防衛体制にも大きな影響を与える。中国政府はこの学会を応援するが、沖縄が本当に独立したらとくに台湾の立場は厳しくなる。中国は沖縄の意思に関係なく、沖縄への介入を強めるだろう。それは「沖縄のため」ではなく、台湾併合を目的とした自国の権益のためである。独立する沖縄が小国だとしても、アジア内の力関係を左右する小国となることは間違いない。松島さんたちの独立の狙いは、「沖縄の自律性と外交力の確立→非武装中立による 世界平和の実現」にあるのかもしれないが、大田・稲嶺・仲井眞と続いた沖縄流マキャベリズムと彼らの日本に対する狡猾な(したたかな)交渉術を乗り越える 知恵と力がなければ、松島さんたちの「非武装中立論」など、それこそ赤子の手をひねるように屈服させられるに違いない。彼らは「そんなことなど承知の上だ」と主張するだろう。であるなら、彼らの描く独立の青写真を一刻も早く見てみたいものだ。
まだ彼らの本気度を測るのは難しいが、琉球民族独立総合研究学会が学者のお遊びに終わるか否かは、「志士」または「戦士」の結集体としての組織化が行われるか否かにかかっている、とぼくは思う。一般に「独立」というのは、実際に血を流すかどうかは別として、身を削り、血を流す覚悟がなければ成就しない。つまり「独立」は「革命」と同義ということだ。学会を「革命戦線」の母体とする覚悟があれば、彼らの志は人びとに浸透していくかもしれない。が、彼らが革命家・革命戦士になる覚悟がないなら、やはり学者のお遊びに終わるだろう。居酒屋の独立談義となんら変わらないという意味だ。
さらにいえば彼らは「沖縄の大衆」の像をどのようにイメージしているのだろうか。こうしたインテリたちの最大の欠陥は、大衆像を描ききれないまま、先頭を突っ走ってしまうことだ。本気で突っ走る気なら、大衆の無関心にも粘り強く向き合わなければならない。左右両翼から厳しい非難にも耐えなければならない。学者が片手間にやる仕事ではなさそうだ。
彼らはまた国連・人権促進保護小委員会の力を借りようとしているが、同委員会は、自国内にとんでもない差別を抱えている国々が他国の差別を問題にする場である。そういう矛盾の塊のような国連の、しかも強制力をもたない組織に「保護」を訴えるという独立運動の主体性にも疑問はある。
忌憚なくいえば、今の段階では、独立という共同幻想の問題と個人のアイデンティティの問題を一緒くたにして、ひとつの鍋を囲んでみんなでグツグツ煮ているだけだという気がする。彼らは自分の個人幻想としての「独立国・琉球」を共同的な幻想にまで広げられる信じて行動しているが、ぼくは彼らの学会に、彼ら自身の「悲劇」を読み取ることしかできない。今後も学会の動向には注目したい。ぜひ刺激的な独立論を示してもらいたいものだ。