橋下大阪市長の「民主主義」と辺野古移設問題
Mayor of Osaka, Mr.Hashimoto's Democracy and Futenma=Henoko Problems
橋下徹大阪市長の記者会見を見た。
橋下市長はいわゆる「知性派」の人たちの間で、もっとも評判の悪い政治家の1人である。最近は、安倍晋三首相の不人気ぶりのほうが上回るが、一時は知性派にいちばん嫌われた政治家だったといえるだろう。いわく「人を貶め、人を欺く右翼体質の反動政治家」であり「福祉の切り捨てや文化事業に対する補助金切り捨てを平気でやるファシスト」。「あんな市長(知事)を選ぶ大阪は最低だ」とまでいう知人もいた。
かくいうぼくも数年前まで「橋下は最低だ」と思っていた。だが、その戦闘的なスタイルの向こう側に透けて見える政治家・橋下徹の政治信条を知ったとき、「ただ者ではない」と考えるようになった。
転換の出発点は、「大阪府・大阪市は東京に次ぐ経済都市なのに、なぜこれほど財政状態が悪いのか」という疑問だった。指標によっては島根・高知・沖縄などと肩を並べるほど悪化していた。一言でいえば、図体はでかいのに税金の使途がきわめて杜撰だったということだ。
大阪府財政・大阪市財政のこうした現状を知り、事態を改善しようと考えた橋下氏は、誰もが驚くような大なたを振るった。徹底した財政改革に乗り出したのだ。矛先はまず職員(公務員)に向けられた。職員の給与水準を細部にわたりチェックし、不適切な手当をカット、組織や労働条件も大幅に見直した。つづいて優先順位の低い事業を明確化し、不用と判断される財政支出を次々に縮小・廃止した。福祉の一部も見直し対象となり、文化事業に対する補助金も大幅に削られた。
だが、それだけでは不十分と判断した橋下氏は、財政改革を推進するために「大阪都構想」をぶち上げ、府と市にまたがる非効率な制度や事業を一気に廃止または縮小しようと目論んだ。その目論見は、今回の住民投票であっさり破れることになった。市民は、橋下氏の主張するドラスティックな改革を望まず、現行制度の枠組みを保った上での改革を望んだということだ。
記者会見は潔かった。とりわけ「民主主義」に触れた部分が光る。
「負けは負けです。戦を仕掛けて、(反対派を)たたきつぶすとまで言ったが、こちらがたたきつぶされた。これが民主主義なんです。メディアも含めて徹底的に議論してきた。これだけの大層な喧嘩を仕掛けて、でも負けても命まではとられない。日本の政治体制はすばらしいと思う。僕はこれから、違う人生も歩めるわけですから。メディアの皆さんにも言いたいが、報道の自由は民主主義にとって本当に大切だ。僕もメディアに対していろいろと言ってきたけれども」
「僕は今回、住民のみなさんの気持ちを酌(く)めていなかった。そういう人が政治家をやってはいけない。僕みたいな政治家はワンポイントリリーフだ。僕は僕自身を実務家と思っている。僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険です。敵をつくる政治家は、必要とされる時期にいるだけ。権力なんて使い捨てでいい。敵をつくる政治家が世の中にずっといるのは害だ。それが健全な民主主義というものです。とはいえ、僕が7年半も政治家をやってこられたのは、ある意味、大阪がそれだけ問題を抱えていたということかもしれない。7年半前には僕みたいな政治家が必要だったが、もう必要がなくなったということだ」
(投票率66・83%に触れて)
「ものすごい民主主義にとっては良いことですよ。通常の地方選挙なんかは(投票率は)30%台。そういうことがある中で、66%の人が投票所に足を運んでくれた。中身がすごくね、ものすごい難しいことですよ。大学生が1年間勉強しても分からないこと。メディアの情報も交えつつ、タウンミーティングも1回2時間ぐらいある中で(市民は)足を運んでくれた。反対集会に行った人もいるだろうし。大阪市の民主主義のレベルが上がったと思いますよ」※以上、引用はウェブ版『産経WEST』より。
ぼくは橋下氏は「納税者」のために果敢に闘ったと考えている。悪化した財政を立て直すということは、「税金を効率的に支出する」ということを意味し、「納税者の負担を増やさない」ということを意味する。放漫な財政運営や公務員の相対的優遇は、いずれ基本的な市民サービスの低下をもたらすのだから、財政運営の責任者である首長が、財政の枠組みを根底から改革しようと考えるのは、きわめて自然で、民主主義システムの下で選ばれた首長として当たり前の姿勢だ。
橋下氏の戦闘的な姿勢に好き嫌いははっきりわかれるだろうが、橋下氏ほど納税者を意識しながら政策立案に臨み、そのために実際に行動した政治家は稀だ。結果的に都構想は受け入れられなかったが、公務員や公務員の組合と対決し、知性派に嫌われる中で、ここまで闘ったことは天晴れとしかいいようがない。約半数の市民が都構想を支持したのだから、都構想を否定した維新以外の政治勢力も、橋下氏の改革への意欲を軽視できないだろう。少なくとも市民よりも労働組合や職員を尊重してきた、かつての大阪に逆戻りするわけにはいかない。
敗戦の弁を語る記者会見で、橋下氏は実に溌剌とした表情を見せながら、先に引用したように「民主主義は素晴らしい」「言論の自由を守ろう」と語った。その潔さには心から敬意を表したい。これだけの資質の政治家を「引退」というかたちで失うのはきわめて残念だが、彼の引退という決断もまた尊重したいと思う。
今回の大阪市での「住民投票」にかこつけて、「辺野古の問題も住民投票で」という議論がすでに出てきている。だが、それはまったくのお門違いだ。
第一に、都構想の提案は、財政改革を念頭に置いた統治機構に関わるものである。地方自治や分権の根幹にある、もっぱら制度的な問題だ。辺野古移設を「地方自治を無視する暴挙」という主張もあるが、国の専管事項である公共財としての国防や安全保障に関わる問題を、地方自治の問題と重ねて議論するのは、そもそもマナー(手法)として間違っている。
第二に、住民投票を実施するとしても、住民の範囲をどう選ぶかという問題にたちまち直面してしまう。誰しもが認める懸案事項は「沖縄の過剰な基地負担」である。したがって、この場合の住民投票とは、基地負担を強いられる地域が、地域として国に意思表示することを意味する。では、「新たなる基地負担」を強いられる地域とはどこか。沖縄県なのか、名護市なのか、それとも辺野古区(およびその周辺区)なのか。名護市に行ってみれば、答えは歴然とする。基地負担を被るのは、名護市域のうち、過疎が問題となっている辺野古区とその周辺地域に限られる。名護市中心部のある西海岸地域(東シナ海寄りの地域)には、騒音被害はほとんどない。米兵を日常的に見かけるわけでもない。米軍犯罪があるではないか、と反論する向きもあるだろうが、そもそも米軍の犯罪率は、沖縄県全体の犯罪率を下回っている。名護市民全体が、基地負担をめぐる住民投票を実施する正当性はない、ということだ。まして沖縄県民全体が、辺野古移設による「基地負担増」をめぐって住民投票を実施する正当性などまったくない。
基地という迷惑施設そのものが問題なのではない、新たなる滑走路建設を伴う辺野古移設は、沖縄戦で深く傷つき、平和を希求してきた沖縄県民の志を裏切るものだから、県民の総意として「辺野古反対」を住民投票で明確にする必要があるのだ、という主張もあるだろう。となると、問題は「平和」だ。「平和とは何か」を問う国防・安全保障のテーマに転じてしまう。辺野古移設は、国の安全保障上重要だとしても、沖縄県民の安全保障(あるいは平和と暮らし)を脅かす要素だと証明しなければならない。普天間基地の機能を、本土ないし国外に移転しない限り、沖縄の平安は保たれないという見解の正当性を示すのは容易な作業ではない。「平和を願う沖縄の心」を持って住民投票を実施するのは簡単だが、住民投票の結果に対して、沖縄県の政治家がどこまで責任を引き受けられるというのだろうか。何も「沖縄の米軍基地機能」を固定化せよといいたいのではない。「平和」をテーマとした住民投票を行うことは、地域住民が必然的に安保の問題に関わらざるをえないということを意味するのだ。
都構想をめぐる住民投票が、辺野古移設問題にとって参考になるとすれば、橋下市長が掲げた「納税者の視点」であると僕は考えている。納税者自身が主体的に「選択」できる条件設定こそ、移設問題の鍵になるということだ。辺野古移設には3500億円以上(おそらく5000億円程度)の経費を要する。それだけの税を投入して移設を進めることが果たして適切なのかどうかを住民に問うというなら、住民投票にも意義がある。ただし、この場合の「住民」とは、投入される税が国税である以上、全国の納税者=国民全体となる。要するに、辺野古移設の適否の判断を、国民全体で行うということだ。国民投票を実施する段になって初めて、安保の問題も基地負担の問題も国民全体に共有され、議論も沸騰するようになる。米軍専用基地を沖縄に偏在させたままで良いのか、日本の安全保障をを米軍に依存して良いのか、自衛隊をも含めた軍事力・抑止力による安保体制を信頼して良いのか、といった議論の分かれるポイントも表舞台に現れることになる。たとえば「1年間」という予備期間を設定すれば、徹底した議論が可能になる。もっぱら「基地反対」を伝えるだけだったメディアの役割も大きく変化する。国民投票の法制的な位置づけには問題も出てくるだろうが、それは国民の意思と政権の覚悟次第である。
「国民投票なら沖縄の意思は無視されてしまう」と懸念する人たちもいるだろうが、一度実施が決まれば、けっしてそんなことにはならない。「辺野古に投入される税金は無駄になる」ということを幅広く示せば、たんなる沖縄への贖罪意識や同情を越えた支援の輪が広がるに決まっている。
残念ながら、そのような国民投票が実施される可能性は薄いだろうが、国民投票を想定して基地問題を考えることには大きな意義がある。「迷惑施設は御免だ」「平和を願う沖縄の心を尊重せよ」といった従来の反対運動には、上で触れたような限界があるということをあらためて認識し、「納税者としての権利と行政の監視」を前面に出す運動を展開すれば、当の基地反対派にとってはもちろんのこと、基地容認派にとっても、あるいはサイレント・マジョリティにとっても前に進める環境が醸成される。
「基地負担・被害者感情・同情・贖罪」といった標識で、基地問題を問い続ける姿勢は自滅への道だ。それこそ人智への信頼や民主主義への信頼を裏切る行為である。辺野古基金も結構だが、基地反対運動を主導し、これを支援する「知性派」の人たちが、なぜ「納税者こそ民主主義の主役である」という点に気づかないのか。彼らが保守反動・ファシストとして斬り捨てた橋下氏が、「大阪の民主主義の健在」を証明したこの機会に、沖縄を含む日本の民主主義について、あらためて考え直してもらいたいと切望する。